2019年6月19日水曜日

東京判決の注目点2

左から、植村氏の記事A、記事B、週刊文春の記事A

東京判決の注目点 2
被告西岡の主張の「真実性」と「真実相当性」の検討❶


 「挺身隊」の名で戦場に連行され…、

と植村氏が書いたことは、

金学順さんの証言とは異なっていない。

しかし、西岡はそれが「捏造」だとは

証明できず、そのように信ずるに足る

取材調査義務も果たしていない。



原告最終準備書面p41~51全文
❶金学順が述べていない経歴を付加して記事に書いたとする点
真実性の検討

被告西岡は、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いた」との事実を摘示する根拠として、

❶原告は金学順が述べていない「女子挺身隊の名で連行された」という経歴を意図的に付加して記事に書いた、
❷原告は金学順本人が述べた慰安婦になる経緯について重要な経歴に触れずに記事に書いた、
❸原告は義母の裁判を有利にする動機があった

と主張している。
しかし、ここでの事実摘示の内容は、「意図的に嘘をついたこと」であって、「重大な誤り」ではないから、

真実性の立証としては、
①原告の記事が金学順の証言と異なること以外に、
②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、
③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があって、それに基づいて記事を書いたことがいずれも立証されなければならない。

そして、次に述べるとおり、上記❶❷❸を検討しても、前記①②③はいずれも立証されず、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いた」との事実は証明されない。
以下、詳述する。


ア■被告は、原告が記事で金学順が述べていない「挺身隊の名で戦場に連行され」という経歴を意図的に付け加えたと主張する。そこで、この点について、①原告の記事が金学順の証言と異なること、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があって、それに基づいて記事を書いたことがいずれも立証されたといえるかどうかを検討する。
まず、そもそも原告記事A(甲1)※注の記載中、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」という部分には、括弧書きがなく、いわゆる「地の文」(会話以外の説明や叙述の部分)であって、金学順の発言をそのまま引用した記述でないことは文面上明らかであり、当該記載は、金学順の立場なり境遇なりを、原告が、原告なりに要約して表現したものに過ぎない。そうすると、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないとしても、直ちに①原告の記事が金学順の証言と異なるとの事実は証明されない。<※注=金学順さんの名乗り出を報じた植村氏の1991年8月11日付記事>

そして、金学順は、最初に挺身隊問題対策協議会の事務所に名乗り出た際「自分は挺身隊だった」と明確に述べており(甲50)、1991年8月14日の最初の記者会見では、「私は挺身隊」(甲21)「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」等と発言しているから、「女子挺身隊」というのは、金学順自身が自己の境遇を説明する際に使用した言葉であることが明らかである。

また、金学順は、1991年8月14日の最初の記者会見で、「16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っぱって行って。強制的に。」として要するに自分は強制連行されたとも述べ(甲110)、さらに、提訴後には「17歳の時、日本軍に強制連行された」と明確に述べているから(甲23)、自分の体験について「連行」「強制連行」とも述べていたことが明らかである。

さらに、金学順が裁判所に提出した陳述書で、金学順は、慰安婦一般の境遇について「平壌にいると女性は挺身隊として強制連行されてしまう」(甲149)と述べ、法廷では「挺身隊として連れて行かれる」(甲148)とも表現しているから、「挺身隊の名で連行され」という表現を金学順が使用してもおかしくない。

以上からすれば、金学順は自己の境遇について、「女子挺身隊」、「連行」、「強制連行」、「女子挺身隊の名で連行」などの表現で説明していたことが明らかであるから、そもそも①原告記事の当該部分が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実の真実性は立証されていない。

イ■付け加えるに、むしろ、原告が記事を執筆した1991年当時、韓国でも日本でも、従軍慰安婦の境遇について「女子挺身隊として連行された」と表現するのは一般的だった。

すなわち、小松義貴意見書(甲124)※注によれば、1946年5月12日付けソウル新聞(甲160)にはすでに「今度の戦争中…この地の娘たちを女子挺身隊または慰安婦という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実」という表現がみられる。さらに、60年代の新聞には、「挺身隊として引っ張っていかれ、南洋、中国各地で日本人将校の慰安婦にあてがわれた韓国の乙女たち」(1962年8月14日付け京郷新聞、甲161)、「挺身隊=俗に女子供出とも言った。年頃の乙女たちを戦地に駆り出し、慰安婦にした」(1963年8月14日付け京郷新聞、甲162)、「韓国の乙女たちは18歳から20歳まで挺身隊という名で駆り出され、結局は全て軍隊の娼婦にされてしまった」(1964年3月23日付け東亜日報、甲163)、「挺身隊という名目で拉致動員し慰安婦にした」(1965年2月17日付け京郷新聞、甲164)等の表現があったという。※注=小松氏は韓国に在住し、終戦後の慰安婦に関する報道を調査研究している言語心理学者。研究成果を意見書として提出した

そこで、日本の新聞でも、慰安婦にされた女性の境遇について、「日中戦争から太平洋戦争のさなか、朝鮮の女性たちが『女子挺身(ていしん)隊』の名で日本軍の従軍慰安婦として各地の戦場に送られた」(91年7月18日朝日新聞 甲174号証)、「日中戦争や太平洋戦争で『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦の実態を調査している韓国挺身隊問題対策協議会」(91年7月31日朝日新聞 甲175)、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに従軍慰安婦として戦場にかりだされた朝鮮人女性たち」(91年9月3日産経新聞 甲18)、「『女子挺身隊』の名のもとに…強制徴発されて戦場に送り込まれた」(1987年8月14日付け読売新聞 甲19)、「女子挺身隊のうち『慰安婦』として戦地に送られた(金学順さんもそんな一人)」(91年8月24日付け読売新聞 甲24)、「女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵に陵(りょう)辱されたソウルに住む韓国人女性」「女子挺身隊の名で動員され、一般勤労のほか、多くが慰安婦とされた」(91年8月15日北海道新聞 甲25)、「第二次世界大戦中に『女性挺身隊』として強制連行され、日本軍兵士相手に売春を強いられた」(91年12月3日付け読売新聞 甲68)などの表現がとられたのである(甲65、甲66、なお、日本のメディアにおいて、挺身隊と慰安婦とを区別する動きができたのは、92年初旬からである。朝日第三者委員会報告書、甲64号証41頁、読売新聞については甲49号証参照)。

元従軍慰安婦金福童※注は、挺対協がまとめた『証言集 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』の証言集2(下巻)において、日本人から「挺身隊(テイシンタイ)に娘を送るので出しなさい」と命令され連行されたところ、慰安婦にされてしまったと証言している(甲146・138~139頁)。これこそまさに、「女子挺身隊の名で連行され」慰安婦にされた実例である。<※注=慰安婦の被害体験を語りつづけた韓国女性。ソウルの日本大使館前の水曜デモに参加しつづけ、2019年1月、92歳で死去>

したがって、原告が、金学順の立場なり境遇なりを、原告なりに要約して「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」と表現したとしても、91年当時の一般読者の理解を基準として、①原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実が証明されたとはいえない。

ウ■被告西岡は、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との表現が、国家総動員法に基づく女子挺身隊制度による強制連行のことを指すと読者に思わせるから、事実に反する問題のある記事だと指摘している(西岡調書6頁、26頁)。被告西岡によれば、「吉田清治さんが言っている軍の命令で女性挺身隊の名で慰安婦狩りをせよと言われて慰安婦を狩りましたと言っている加害者じゃなくて、今度は被害者がでてきた」というのである(被告西岡本人調書3頁)。被告西岡が陳述書でいう「連行方式としての女子挺身隊」、「職業としての従軍慰安婦」(乙15、4頁)との表現も、同じ趣旨だという(被告西岡本人調書26頁)。

しかし、原告の記事Aには「だまされて慰安婦にされた」と明記されており、記事B※注はさらに詳しく慰安婦になった過程が記されており、これを読めば国家総動員法による連行ではないことが明らかであるから、原告の記事を読んだ読者が、この事例を「国家総動員法」によって徴用された事例であると誤解するはずがない。原告が記事A及びBに記載した金学順の状況は、吉田清治が証言したとされるように、「奴隷狩りのような慰安婦狩り」(被告西岡本人調書11頁)という状況でないことも、記事A及びBを読んだ読者であれば誤解のしようがない。※注=記事Bは、弁護団が金学順さんから聞き取った内容を紹介した植村氏の1991年12月25日付記事
さらに、1991年当時の新聞読者の理解を基準とすれば、一般に言っても、「女子挺身隊の名で連行」との表現が、国家総動員法に基づく強制連行である等と誤解される余地はない。すなわち、女子挺身隊の法的根拠である女子挺身勤労令の公布は1944年8月であるところ(乙22号証13頁)、それ以前より「自主的参加という建前で女性の勤労動員が実施されていた」(同12頁下から3行目)のであり、「政府は『女子勤労動員ノ促進ニ関スル件』を決定し、『女子勤労挺身隊』を自主的に編成させて、女性の根こそぎ動員を図った。」のである(同13頁)。だから、1987年5月2日付け朝日新聞(甲123)には「労働力動員の一環としての女子挺身隊も、だからはじめは法令化され」なかったとの記載があり、これが1991年当時の読者の一般的認識である。

「第145号」(甲168、169)は戦争当時の国策会社「日本ニュース」(甲170)が1943年3月16日に日本人向けに公開した映像であるが、ここにも「女子挺身隊、前線へ」という記載がはっきり見て取れるのであって、ここからも、「女子挺身隊」という語が女子挺身勤労令の公布以前から自主的に編成される労働力動員の形態を示す語として国民に定着していたこと、したがって、「女子挺身隊の名で連行」との記載があっても、一般国民は直ちに国家総動員法に基づく強制連行であると理解しないことが分かる(「第145号は、「NHKアーカイブ戦争証言」で簡単に視聴できる。甲167号証)。

この点、能川元一意見書(甲121)※注も、パラオ挺身隊(甲122)を例にとり、挺身隊が国家総動員法と直ちに結びつくものではないことを説明している。※注=能川元一氏は哲学者、近現代史研究家。慰安婦問題をめぐる右派の言説と西岡氏の主張に関する陳述書を第13回口頭弁論で提出した

また、韓国においても、たとえば、前記1946年5月12日付けソウル新聞(甲160)は「今度の戦争中…この地の娘たちを女子挺身隊または慰安婦という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実」という表現をとり、強制的連行の場合はもちろん、だまして慰安婦にした例についても「女子挺身隊」という語を使用している。この点、金学順の訴状には「朝鮮人女性については、国民登録されていなかった関係で、原則として、法律的に強制力を持つ徴用は行われなかった」との記載がある(乙22号証13頁)。

よって、1991年当時の一般読者の理解を基準としてみれば、原告の記事中「女子挺身隊の名で連行」という記載を「国家総動員法に基づく法的強制に基づく連行形態」を示したものと読む余地はないのであるから、原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実は証明されない。

エ■さらに、被告西岡は、「挺身隊の名で連行」という表現と「だまされて慰安婦にされた」という表現とが矛盾しているとも主張する(被告西岡本人調書5頁最終行)。

しかし、92年1月5日発行月刊宝石記事(乙10)によれば「(金学順は)十七歳のとき、養父は『稼ぎにいくぞ』と、私と同僚の『エミ子』を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満州のどこかの駅でした。(中略)養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」というのであるから、金学順は、最初「稼ぎにいくぞ」と誘われ、中国に向かったところ、どこかの時点で養父と引き離され、最後には日本軍に強制連行され、閉じ込められたと証言していると理解される。

そうすると、最初に「そこに行けば金が稼げる」と声をかけられた点を捉えて「だまされて慰安婦にされた」と表現することも可能だし、養父と引き離され日本軍に強制連行された点を捉えて「挺身隊(=慰安婦)の名で連行され」と表現することも可能であるから、「だまされて慰安婦にされた」という記載と「挺身隊として連行された」という記載は、なんら矛盾するものではない。
よって、この点を主張しても、①原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえない。

オ■以上からすれば、❶によってはそもそも①原告の記事が金学順の証言と異なることが証明されておらず、まして、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたとも、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機に基づいて記事を書いたともいえないから、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」との事実は証明されない。


原告最終準備書面p62~71
❶金学順が述べていない経歴を付加して記事に書いたとする点
相当性の検討

ここで、相当性の対象は、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」ことであり、具体的には、①原告の記事が金学順の証言と異なること、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、③原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機に基づいてあえて誤った記事を書いたこと、の3つを信じるについて相当の理由があったということでなければならない。

相当性の抗弁が認められるためには「信頼すべきところから材料を入手したことと、その真実性について合理的な注意を尽くして調査検討したことが不可欠である」(潮見桂男「不法行為法Ⅰ【第2版】」2009年 181頁 甲173)。したがって、相当性の抗弁を主張する者は、執筆時に必要な調査検討を尽くした事実を具体的に主張・立証しなければならない。相当性の判断基準時は行為時であり(前記・最判平成14年1月29日判時1778号49頁)、調査検討活動の相当性の判断要素としては、「取材の端緒、取材先、取材方法、取材内容、取材の結果及びその評価の諸点において相当性があったかどうかを判断すべき」である(東京地判平成4年7月28日判時1452号71頁)。相当性判断の判断基底(判断資料)には、取材以外の要素も資料となり、行為者が、一般人では知り得ないが、自らが特に知っている事情があればそれは相当性判断の基礎資料となる。特に、専門家の場合、特段の専門的知見を有していれば、それも判断資料である。

相当性判断は通常は一般人を基準とすることになるが、行為者が専門家の場合、当該分野の一般的な専門家を判断基準主体とするべきである。本件についてみれば、被告西岡は「慰安婦」被害、挺身隊問題を専門分野とする専門家なのであるから、一般人よりも高度な注意義務を課されるというべきである。


ア■①原告の記事が金学順の証言と異なるといえるかどうかについて、被告西岡がなすべき取材内容、取材先として重要なのは金学順の証言テープの検討、及び金学順本人への取材である。被告西岡は、これらの取材から、金学順が証言テープの中で「挺身隊」なり「連行」なりという表現を使ったのかどうかを確認すべきであった。ところが、被告西岡は、金学順の証言テープを聞いていないし、1992年に韓国に行って梁順任に面談していたのも拘わらず、挺身隊問題対策協議会に行くなりして、問題のテープを確認する努力自体していない。
よって、この点から、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性が否定される。

イ■次に、被告西岡にとって可能な調査としては、1991年当時の韓国メディアの報道内容の確認があった。この点、被告西岡は韓国語が堪能であり、当時の東亜日報(甲20)、中央日報(甲21)といった新聞記事を確認することは容易であった。金学順自身が「強制的に」慰安婦にされたと述べていたKBSテレビのニュース動画(甲109、110)を視聴することも、極めて簡単なことであった(なお、このニュース動画自体は広くインターネット上に流通している。)。これら韓国メディアの報道は、金学順自身が「挺身隊」という表現を使用していたことを伝えていた。
もし被告西岡がこれら韓国メディアの報道を確認すれば、金学順自身が「挺身隊」「連行」という表現を使用していたことを知ることができたし、それは容易なことであった。にもかかわらず、被告西岡は、これらの確認作業を怠ったというほかない。
よって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

ウ■さらに、被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を認識していた(甲3号証49頁、西岡陳述書4頁)。
また、被告西岡は、金学順自身が「挺身隊として連れて行かれる」(甲148)、「『女性は挺身隊として強制連行されてしまう』と言われており」(甲149)と述べていた事実も知っていたと認めている(被告西岡本人調書28~29頁)。それどころか日本の植民地時代の朝鮮では、「若い女性を挺身隊として慰安婦狩りをするという悪い流言飛語が広まって」いたために、その誤解を解くようにと朝鮮総督府が指示した資料の存在にも言及した(同頁)。被告西岡は、「女子挺身隊として連れていかれる、連行される」との表現が、韓国で一般的に用いられていたことも認めている(被告西岡本人調書29頁)。
前記のとおり、相当性判断の判断基底(判断資料)には一般人では知り得ないが、被告自らが特に知っている事情も含まれ、特に、専門家の場合、特段の専門的知見を有していれば、当然ながらそれもまた判断資料である。被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を特に認識していたという事情があるから、この事情は相当性判断の判断基底(判断資料)である。
被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を、本件記事執筆時に認識していたのだから、金学順がテープの中で「挺身隊」「連行」という表現を使ったことを容易に知ることができたのであって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

エ■元従軍慰安婦金福童の証言集(甲146・138~139頁)には「挺身隊(テイシンタイ)に娘を送るので出しなさい」と命令され連行されたところ、慰安婦にされてしまったとの証言がある。金福童は、現在もソウルの日本大使館前で毎週水曜日に開かれている「水曜デモ」に参加し続けるなど、慰安婦問題に関心を持っていれば誰でも知っている元慰安婦である※注。金福童証言集を被告西岡は韓国語原文で読んだと述べている(西岡調書30頁)。この証言集の上巻については、被告らから証拠として提出されている(乙19)。被告西岡はこの金福童証言について、「ちゃんと余り読んでないです」(被告西岡本人調書31頁)とも弁明したが、少なくとも「ざあっと見た」(同頁)ことは自認しているから、金福童の上記証言についても知っていた。※注=金福童さんはことし1月に死去した
被告西岡は、金福童の上記証言からも、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を本件記事執筆時に認識し得たといえるのであるから、金学順がテープの中で「挺身隊」「連行」という表現を使ったことを容易に知ることができたのであって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

オ■被告西岡は、法廷で「その後この後で金学順さんと名前が明らかになりますが、この方が韓国の新聞や訴状や、あるいは挺対協が出した証言集や運動体の方がインタビューした月刊誌の証言などで、一度も女子挺身隊の名で戦場に連行されたと言っていないということがわかって、これは大きな誤報ではないか」と思ったと供述した(被告西岡本人調書4頁)。
しかし、すでに述べたとおり、原告記事A(甲1)の記載中、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」という部分には、括弧書きがない「地の文」(発言の引用以外の部分)であって、金学順の発言をそのまま引用した記述でないことは文面上明らかであり、当該記載は、金学順の立場なり境遇なりを、原告が、原告なりに要約して表現したものに過ぎないことは記載上極めて明白である。
そうすると、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないとしても、一般読者を基準にして、直ちに①原告の記事と金学順の証言が異なることにはならないことは、原告記事Aを読めば一目瞭然である。
したがって、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないと信じたとしても、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについて相当性はない。

カ■被告西岡は、女子挺身隊という表現は「国家総動員法」による強制連行を意味するものと考えたとも主張する(被告西岡本人調書6頁)。
しかし、原告の記事Aには「だまされて慰安婦にされた」と明記されていること、記事Bはさらに詳しく慰安婦になった過程が記されていること、これらを読めば国家総動員法による連行ではないことは誰の目にも明らかであり、被告西岡はそのことを知り又は知り得たのであるから、被告西岡が女子挺身隊という表現を「国家総動員法」による強制連行の意味だと信じたとしても、その点について相当性は認められない。
さらに、被告西岡は、専門家である以上、女子挺身勤労令の公布以前より政府が「『女子勤労挺身隊』を自主的に編成させて、女性の根こそぎ動員を図った」(乙22)こと、「労働力動員の一環としての女子挺身隊も、だからはじめは法令化され」なかったこと(甲123)を当然知っていたし、「第145号」(甲168、169)の「女子挺身隊、前線へ」という映像も「NHKアーカイブ戦争証言」(甲167号証)で簡単に視聴できるのであるから、被告西岡も知り又は知ることが容易であった。そうだとすれば、被告西岡は慰安婦問題の専門家として、「女子挺身隊」という語が自主的に編成される労働力動員の形態を示す語として国民に定着していたこと、したがって、91年当時の読者を基準とすれば、一般的に、「女子挺身隊の名で連行」と表現したとしても国家総動員法に基づくものとはいえないことを当然知り又は知るべきであったのであるから、被告西岡が女子挺身隊という表現を「国家総動員法」による強制連行の意味だと信じたとしても、その点について相当性は認められない。

キ■以上のとおり、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについて相当性は認められない。
また、仮に、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについてなんらかの理由があるとしても、被告西岡が②原告がそのこと(原告の記事が金学順の証言と異なること)を知りつつあえて記事を書いたと信じたことや、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があり、それに基づいて記事を書いたと信じたことについて相当性が認められる余地は全くない。
けだし、すでに述べたとおり、91年当時の日本の新聞では、慰安婦にされた女性の境遇について、「『女子挺身(ていしん)隊』の名で日本軍の従軍慰安婦として各地の戦場に送られた」(甲174号証)、「『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた」(甲175)、「『挺身隊』の名のもとに従軍慰安婦として戦場にかりだされた」(甲18)、「『女子挺身隊』の名のもとに…強制徴発されて戦場に送り込まれた」(甲19)、「女子挺身隊のうち『慰安婦』として戦地に送られた」(甲24)、「女子挺身隊の名で動員され、一般勤労のほか、多くが慰安婦とされた」(甲25)、「『女性挺身隊』として強制連行」(甲68)等と表現するのがごく普通であったのであり(被告西岡もそのことを当然知り又は知り得た)、これらとほとんど変わらない表現(「女子挺身隊の名で連行」)があるというだけで原告記事Aの記載に特殊な意図(上記②③)があると推論することはあまりにも不合理で根拠を欠き、言いがかりとしか言いようがないからである。
とりわけ、原告記事Aの直前の91年7月31日朝日新聞(甲175)の記載(「『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦」)や直後の91年12月3日付け読売新聞(甲68)の記載(「『女性挺身隊』として強制連行」)は、「女子挺身隊の名で連行」という原告記事Aの表現とほとんど変わらない。それなのに、あまりにも些細な表現の違いを捉えて「揚げ足」をとり、原告についてのみ、記事の誤りを知りつつあえて書いたとか、義母の裁判を有利にする動機に基づいて記事を書いたこと等と邪推することは、およそ合理的理性の範囲を超えているとしかいいようがない。
それでも、被告西岡において、原告が記事の誤りを知りつつあえて書いたとか、義母の裁判を有利にする動機に基づいて記事を書いたこと等を信じたことについて相当な理由があるといえるためには、相当入念な調査検討が不可欠だったはずである。ところが、被告西岡は「原告の義母が遺族会の理事であった」という情報のみで、他の調査・検討をすることなく、②③の事実があったと決めつけているのである。これでは調査・検討の義務を果たしたとはいえず、相当性の抗弁が成り立つ余地がない。

ク■よって、前記①②③のいずれにも相当性は認められないから、被告西岡が❶の事実から「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」と信じたとしても、それについて相当な理由があったとはいえない。


--------------------- 第2回 了 ---------------------

次回以降の内容

20日▼第3回 東京判決の注目点3
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討❷
「植村氏は金学順さんが述べた重要な経歴に関する事実を書かなかった」とする点について

21日▼第4回 東京判決の注目点4
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討❸
「植村氏が悪しき動機に基いて記事を書いた」とする点について

22日▼第5回 東京判決の注目点5
原告植村隆氏の最終意見陳述(2018年11月28日)

断たれた夢/激しいバッシングの中で/裁判官の皆様へ

2019年6月18日火曜日

東京判決の注目点1

提訴の日、東京地裁に向かう植村氏と弁護団
(2015年1月9日)
提訴から4年5カ月! いよいよ植村裁判東京訴訟の判決期日が迫ってきました。

これまでの裁判所の審理ぶりや、先行した札幌訴訟の判決をふまえると、楽観的な予想や期待は控えざるをえませんが、植村隆氏と弁護団が法廷で展開した訴えと主張に裁判所はどう答えるのか、私たちはきちんと目を注ぎたいと思います。
とくに、西岡氏による「捏造」決めつけを、裁判所はどのように認定するのか(真実性と相当性の判断)、西岡氏と文春の悪質性と、植村氏の甚大な被害を、裁判所はどうとらえ評価するのか(損害論)。これらは判決の核心となるものです。裁判所が安易な判断を下したり、あいまいな表現で検討を回避するようなことは許されません。判決の内容と共に、司法の正義と良心が存在するかどうかにも重大な関心を寄せたいと思います。

当ブログでは5回にわたって、判決の重要な論点と注目点を、原告最終準備書面の主張をもとにして掲載します。
原告最終準備書面は総ページ数が129あり、第14回口頭弁論(実質結審期日、2018年11月28日)に提出されました。最大の争点である「真実性と相当性」「悪質性」のほか、「捏造の定義」「事実の摘示か論評意見か」「公共の利害と公益目的」「損害被害の全容と影響」「共同不法行為」「平穏な生活を営む権利の侵害」「謝罪広告の必要性」などすべての争点・論点について、最終的な主張と結論が詳細に述べらています。この連載ではその中から「悪質性」「真実性と相当性」にしぼり、その全文を収録します。

※書面は項目見出しと小見出しも含め、すべて原文のままですが、読みやすさを考慮して書式を変更しました。編注も付してあります。
※書面中の甲、乙がついた数字は、甲○号証、乙△号証などの証拠番号を表し、原告提出証拠は甲、被告提出証拠は乙とされています。




 東京判決の注目点 1
被告西岡と文藝春秋の行為の悪質性

金学順さんの証言を意図的に改ざんしていたのは被告西岡自身であった。

被告文藝春秋は以前から植村氏を狙い撃ちにする意図を持っていた。


原告最終準備書面p101~109全文

被告西岡の悪質性


■「捏造」ではないと知りつつ「捏造記者」呼ばわりした
被告西岡は、「捏造」と攻撃できないことを知っていて原告に対し「捏造記者」呼ばわりを続けていた。
すなわち、「捏造」とは本来「事実でない事を事実のようにこしらえること」(甲36乃至38)を意味し、事実誤認とは全く別のものである。ところが、被告西岡は、「相当性」について検討したなかで逐一指摘してきたとおり※注、十分な裏付けもなく、むしろ、被告西岡は、原告が捏造などしていないことを認識しながら、あえて原告を「捏造記者」呼ばわりしてきたものであって、不法行為の態様として極めて悪質である。<※注=「相当性」の検討は最終準備書面p61-78に記載されている。この連載では第2,3,4回に分けて収録する>

また被告西岡は、「金学順さんについて植村記者が第一報を書けたのは、義理の母からの情報提供によるものだろう」(甲119号証292頁7行目)「原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです。」(記事B①※注 甲4号証3頁)「利害関係者だからこそ取れた特ダネである」(記事C⑤※注 甲5、82頁)等と繰り返し事実でないことを事実のように拵えて原告を攻撃し続けており、この点について謝罪も訂正も一切していない。<※注=記事Bは週刊文春2014年8月14・21日号、記事Cは月刊「正論」2014年10月号に掲載>

■被告西岡こそが「捏造」をしていた
それどころかむしろ被告西岡こそが、事実でない事を事実のようにこしらえて、すなわち「捏造」して原告を攻撃していた。

●被告西岡による金学順証言の創作
すなわち、2007年6月28日付で発行された旧版被告西岡著『よくわかる慰安婦問題』(甲126)には、ハンギョレ新聞記事の引用として「私は四〇円で売られて、キーセンの修行を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」(42頁)との記載があるが、この記載は原文(甲67の2)にはない。この一文は、明らかに被告西岡による金学順証言の創作(以下、これを「被告西岡創作部分」という)である。
翌年の2008年11月号の雑誌『正論』での被告西岡の文章にも西岡創作部分が掲載されている(甲138・266頁)。
また、被告西岡は、2012年9月28日付で被告西岡は旧版「よくわかる慰安婦問題」の第2刷を出しているが、ここにも西岡創作部分が見られる(甲127・42頁)。被告西岡は、2012年12月14日付で、今度は文庫版の「増補新版よくわかる慰安婦問題」の第1刷(甲128)を発行しているが、西岡創作部分は、そのまま残されている(甲128・45頁)。
2014年9月5日付、被告西岡は「増補新版よくわかる慰安婦問題」第2刷を発行した(甲129)が、この第2刷から、ハンギョレ新聞の引用と称する被告西岡創作部分が削除された(45頁)。

●被告西岡の弁明とその不合理性
これらの点について質問された被告西岡は、この文章がどこから来たのか記憶にないと繰り返している(被告西岡本人調書45~48頁)。
しかしこの2007年までに被告西岡は、少なくとも自己の著述において6回もこのハンギョレ新聞記事を引用してきていた(甲143)。こんなに何度もハンギョレ新聞記事を引用して原告を攻撃し続けていたのに、それまでなかった被告西岡創作部分が唐突に途中で紛れ込んだことに、被告西岡が気付かないという方があまりに不自然である。
しかもこの被告西岡創作部分は、金学順が40円でキーセンに売られて日本軍のところにまで連れて来られたという内容であり、まさしく被告西岡の主張に沿った〈金学順が慰安婦にさせられた本質〉(被告西岡本人調書38頁)に関わる記述である。これほど自分の主張に都合のよい記述がハンギョレ新聞にあったのなら、それに気付かないことなどあり得るはずがない。被告西岡はこの記述を、最大限利用していたはずなのである。
仮に何らかの過失によって紛れ込んだ被告西岡創作部分だったとしても、少なくとも雑誌『正論』(甲138)で二度目にこの被告西岡創作部分を引用として記載したときに、気がついたに決まっている。この『正論』の文章は、「よくわかる慰安婦問題」(甲126)の文章とは、まったく異なった内容が新たに書かれた書き下ろしであった。自著の記述を丸写ししただけといった幼稚な言い訳は通用しない。

●訂正に至る過程の不合理性
それだけではなく、当該記述の訂正に至る過程も極めて不合理であり、疑問が残る。
すなわち、被告西岡は雑誌『正論』2011年8月号の著述でもハンギョレ新聞のこの部分を引用しているところ、こちらにはこの被告西岡創作部分が書かれていない(甲139・93頁下段)。そうすると、どんなに遅くともこのときに、ハンギョレ新聞の原文に存在していない被告西岡創作部分について被告西岡は認識していたはずである。

ところが、このあとの2012年9月28日付で被告西岡は旧版「よくわかる慰安婦問題」の第2刷を出しているが、そちらではこの被告西岡創作部分は直されていない(甲127・42頁)。単に気付かなかっただけだとすれば、これは明らかに矛盾した対応である。
しかも、被告西岡はこの2ヶ月半後の2012年12月14日付で、今度は文庫版の「増補新版よくわかる慰安婦問題」の第1刷(甲128)を発行している。旧版2刷からこの増補新版1刷を出すに際して、被告西岡は編集者と一緒に旧版の記述内容の校正作業をした(被告西岡本人調書47頁)。

このときの校正箇所は多岐にわたっており、第1章~第4章の前半部分に限っただけでも、甲130のとおり多数の箇所に手が入れられている。ところがこれだけ手を入れていたにも関わらず、被告西岡創作部分については、そのまま残されていた(甲128・45頁)。これは、わかっていてあえてこの被告西岡創作部分を被告西岡が残したままにしたとしか考えられないことを意味している。ちなみに被告西岡は増補新版第1刷の段階では、被告西岡創作部分が残ったままになっていることを記憶していた(被告西岡本人調書47頁)。

そして、2012年12月にこの「増補新版よくわかる慰安婦問題」第1刷が出されたあと、2014年1月30日に文春記事A(甲7)が発行されてこの問題に火がつき、同年8月6日には文春記事B(甲8)も発行され、被告西岡は週刊文春や週刊新潮に頻繁にコメントを求められるようになる(甲131、132、133)。西岡論文Cの記載された雑誌『正論』2014年10月号(甲5)が9月1日発売、西岡論文Dの『中央公論』同年10月号(甲6)も9月10日に発売されている。

このように注目され始めたまさにその時期である9月5日付で、被告西岡は「増補新版よくわかる慰安婦問題」第2刷を発行した(甲129)。そしてこの第2刷から、被告西岡創作部分が削除されたのである(45頁)。このときに被告西岡は、秘かにこの被告西岡創作部分の痕跡を消しているのである。
訂正に至る過程も極めて不合理であり、被告西岡は、原告を攻撃するために、あえて自分に都合のいい証言を創作したことが容易に推測される。

●自分のストーリーに合わない証言を意図的に無視している
他方で、被告西岡は、ハンギョレ新聞の原文にあった「私を連れて行った義父も当時日本軍人にカネももらえず、武力で私をそのまま奪われたようでした」という金学順の発言(甲67)については、ここまでのすべてのハンギョレ新聞の引用箇所において意図的に削除している。この点こそ、金学順が自己の意に反して慰安婦にさせられた直接的な経緯として、強調したかった点だったことは、ハンギョレ新聞での金学順の発言からも明らかであった。被告西岡は、このような見解が当時の多数派であり一般的な見解であることがわかっていて(被告西岡本人調書41頁)、あえてこの部分の記述を隠蔽して削除している。
これは、被告西岡が自己の描いたストーリーに合わない証言を意図的に削除して読者を騙そうとしたとしか言いようがない。

●評価
仮に、ハンギョレ新聞引用箇所のこの被告西岡創作部分の挿入が被告西岡の意図したものでなかったのだとすれば、被告西岡はどうしてこんな混入が起きたのか、「増補新版よくわかる慰安婦問題」第2刷(甲129)を発行した段階で振り返って検証したはずである。そしてこの混入の原因が何だったのか、どこから来たのかをおおよそは把握していたのでなければおかしい。

ところが被告西岡は、被告西岡創作部分がどこから来たものなのかを聞かれても、何も答えられなかった(被告西岡本人調書45頁)。これが本当に過失なのであれば、どこから来たのかを聞かれたなら、「気付いたときにどこから紛れたのか考えてみたのだけれども、わからなかった」との趣旨を回答していたはずである。この点に関する被告西岡の一連の言い訳はあまりにも不自然極まりない。これらの事情から考えれば、被告西岡創作部分については、被告西岡自身による疑問の余地のない「捏造」である。
このように被告西岡は、ハンギョレ新聞の原文にない文章を勝手に捏造して創作し、他方で金学順が慰安婦にされた経緯での重要な出来事である日本軍による武力による奪還についてはこれを黙殺して隠していた。その上で、原告に対して「捏造」記者だと悪罵を投げ付けているのである。

以上のとおり、金学順の証言に関して「捏造」すなわち意図的な改ざんをしていたのは、実は、原告ではなく、被告西岡自身であった。被告西岡は原告を捏造記者扱いするために、自分の方こそが捏造していたのである。こうした被告西岡の不法行為の態様は極めて悪質であって、到底許容できないものである。
この点は、被告西岡に対する賠償額を算定するにあたって考慮されるべき重大な事実である。


原告最終準備書面p109~113全文

被告文藝春秋の悪質性

■週刊文春はこれまでも同種の事件を起こしている
被告文藝春秋が発行する週刊文春は、これまでも特定の個人等を「疑惑」という形で攻撃する手法をとり、報道の対象とされた人物の名誉を毀損し、被告文藝春秋の報道により報道被害を被った被害者・事件は枚挙に暇がなく、被告文藝春秋は、数多くの名誉毀損裁判において敗訴判決を受けている。特に「大分・聖嶽遺跡捏造疑惑報道事件」においては、聖嶽洞穴遺跡発掘を「捏造」と印象づける記事を記載し、発掘時の調査団長である賀川光夫・元別府大学学長を自殺にまで追い込む報道被害を生じさせている(甲45、41頁)。

■被告文藝春秋は以前から原告を狙い撃ちにする意図を持っていた
被告西岡の本人尋問によれば、1992年2月頃、被告西岡が梁順任※注に会いに行ったきっかけをつくったのも被告文藝春秋であった(被告西岡本人調書12頁・13行目以降)。被告文藝春秋は、1992年からすでに原告をターゲットと定めていたわけであり、折に触れて原告及び朝日新聞社による慰安婦問題を記事にしてきた。<※注=韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会幹部で植村隆氏の義母>
つまり、被告文藝春秋は、本件一連の記事を公表する以前から原告を狙い撃ちにする意図を持っていた。

■本件でも被告文藝春秋は当初から原告を狙い撃ちにする意図を持っていた
本件文春記事についても、竹中証人※注が証言するとおり、すべて週刊文春編集部デスクの指示によって取材が開始され、紙面に掲載されたものである(竹中証言調書7頁・下から5行目、同16頁・7行目、同26頁・下から5行目)。<※注=週刊文春の記事を書いた竹中明洋氏。第13回口頭弁論に証人として出廷した>
原告を捏造記者呼ばわりした文春記事Aでは、原告及び朝日新聞を攻撃する側の被告西岡や秦郁彦、読売新聞記事の引用等はされているが、中立的な立場に立つ識者のコメントは一切掲載されていない。また、被告文藝春秋が朝日新聞社に送った質問状に対して、朝日新聞社が回答を送ってきたにもかかわらず結果として掲載されなかった(竹中証人調書19頁・下から9行目)。
また、被告文藝春秋の竹中証人が神戸松蔭女子学院大学に送った質問メール(乙9)の記載(「この記事(植村記者の記事)をめぐっては現在までにさまざまな研究者やメディアによって重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際的イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています」「採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」)を見れば、被告文藝春秋は当初から原告の記事を「捏造」と決めつけ、そのことを根拠に大学教授としての適性を問題にすることを目的としていたことが明らかである。2014年8月1日に竹中記者が北星学園大学に送った質問状(甲27)の文言(「重大な誤りがあったのではないかとの指摘が各方面からなされています」「大学教員との適性には問題がないとお考えでしょうか」)を見ても、被告文藝春秋は当初から原告の記事を「捏造」と決めつけていたことがうかがえるのである。
さらに、竹中証人が文春記事Aを書き上げたのが2014年1月28日火曜日の朝であったところ(竹中証人調書17頁・4行目以降)、当時の新谷学編集長は日曜日の夜に中吊り広告をつくって中吊り広告のタイトルは月曜日の夜に最終決定していたわけであるから(甲156・23頁)、「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大学教授に」(文春記事A記載①)とのタイトルは、竹中証人が文春記事Aを書き上げて編集部デスクに提出する前にできあがっていたのである。つまり、文春記事Aは、記事が執筆される前から、原告を捏造記者呼ばわりして原告を揶揄する内容にすることを目的としていたことが明らかとなったのである。

■文春記事A公表後、北星学園大学にも抗議が殺到するで
あろうことを知りつつ、あえて文春記事Bを掲載した
さらに竹中証人及び被告文藝春秋は、文春記事Aによって神戸松蔭女子学院大学に抗議が殺到し原告の同校への教授就任がなくなったことを認識しながら(竹中証人調書19頁・下から1行目以降、同22頁1行目以降)、あえて「慰安婦火付け役 朝日新聞記者は お嬢様女子大 クビで北の大地へ」とタイトルを付けた文春記事Bを掲載し、北星学園大学の学校名を実名で掲載した。このことは、少なくとも被告文藝春秋が、北星学園大学へ抗議が殺到することを予見しながら文春記事Bを掲載した証左である。

■小括
以上からすれば、被告文藝春秋は当初より原告を狙い撃ちにする記事を企画し、文春記事A公表により神戸松蔭女子学院大学に抗議が殺到したのだから、北星学園大学にも抗議が殺到するであろうことを知りつつ、あえて文春記事Bを掲載したものであり、その不法行為の態様は極めて悪質である。
損害賠償額を算定するにあたり、この点を考慮すべきである。

--------------------- 第1回 了 ---------------------

次回以降の内容
19日▼第2回 東京判決の注目点2
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討❶
「植村氏は金学順さんが述べていない経歴を付加して記事を書いた」とする点について

20日▼第3回 東京判決の注目点3
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討❷
「植村氏は金学順さんが述べた重要な経歴に関する事実を書かなかった」とする点について

21日▼第4回 東京判決の注目点4
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討❸
「植村氏が悪しき動機に基いて記事を書いた」とする点について

22日▼第5回 東京判決の注目点5
原告植村隆氏の最終意見陳述(2018年11月28日)
断たれた夢/激しいバッシングの中で/裁判官の皆様へ


2019年6月13日木曜日

東京判決近づく!

■東京訴訟判決言い渡し
6月26日(水)午前11時30分

東京地裁103号法廷

■判決報告集会は午後4時から、参議院議員会館101会議室

■札幌控訴審第2回口頭弁論
7月2日(火)午後2時30分

札幌高裁805号法廷

■裁判報告集会は午後5時30分から、市教育文化会館4階講堂
韓国のジャーナリスト、任在慶氏と李富栄氏の挨拶・講演あり

※PDFはこちら→ 東京 札幌


2019年5月10日金曜日

東京訴訟が再び結審

うpupdated:2019/5/19 8:50pm

 異例の事態のまま 

判決言い渡しは6月26日(水)に

原裁判長、有無を言わさぬ事務的な口調で終結宣言


植村裁判東京訴訟(被告西岡力、文藝春秋)の口頭弁論は5月10日午後、東京地裁で再開され、原克也裁判長は審理の終結を宣言した。判決は6月26日午前11時30分から言い渡されることになった。

開廷は午後3時。冒頭、植村弁護団は「進行意見書」を提出し、神原元弁護士が7分間にわたって要旨を読み上げた。主張の要点は、被告側が結審後に追加提出した新証拠(朝日新聞社第三者委員会報告書全文)について植村側が反論するための期間を裁判所は設けよ、というもの。読み上げが終わると、原裁判長は被告側の喜田村洋一弁護士に意見を求めた。喜田村弁護士は「植村側は第三者委報告書の全文を精査して2016年にその抜粋版5ページ分を証拠提出しているのだから、全文が証拠採用されても不意打ちにはならないし、期間が延びるだけだから、本日結審が相当と考える」と述べた。これに対し、植村弁護団の穂積剛弁護士が、「読んだかどうかが問題なのではない。裁判所が重要だと考えたその部分はどこなのかを明らかにし、主張と立証を尽くさせるべきだ」と反論したが、裁判長は応じることなく、「それでは弁論を終結する」と述べた。有無を言わさぬ事務的な口調の再結審宣言だった。植村弁護団の梓澤和幸弁護士は「先ほどの主張に応答はないのか」と裁判長に迫った。裁判長は「何かおっしゃりたいことがあれば書面で」と述べて、やりとりを打ち切った。
閉廷は午後3時10分だった。
※「進行意見書」はこの記事の下に掲載

この日の法廷はいつもよりも小さな706号が使われた。開廷前に傍聴抽選の整理券は発行されたが、整列者が定員にわずかに満たなかったため、抽選は行われなかった。48席の傍聴席はほぼ埋まった。植村弁護団は20人が席に着き、被告弁護団はいつものように2人だった。西岡氏の姿もいつものように、なかった。裁判官席の3人はこれまでと同じ顔ぶれだった。しかし、3人とも4月1日付で東京地裁から転出している(原裁判長は東京高裁、佐古裁判官は鹿児島地裁、小久保裁判官は大阪地裁堺支部へ)。にもかかわらず担当を続けているのは、裁判所内で特例措置がとられたためとみられる。
法廷では裁判官の入退廷時に全員が起立する慣例がある。しかし、この日、裁判官が立ち去る時に起立する人は少なく、表情を曇らせて座ったままの人が多かった。
昨年11月にいったん結審した後に再開され、証拠の追加提出、裁判官の忌避申し立て、弁論の中断、そして再開という展開をたどった東京訴訟は、異例事態が続く重苦しい空気の中で再結審した。

報告集会は午後5時から、参議院議員会館101会議室で開かれた。
最初に神原弁護士が、裁判所は「朝日新聞社第三者委員会報告書」をどのように使おうとしているのか、なぜそれが植村側に不利なのか、などについて解説をした。続いて札幌弁護団の小野寺信勝弁護士が、札幌控訴審の重要な論点と裁判所の訴訟指揮ぶりについて説明をした。
このあと、徃住嘉文さん(元北海道新聞記者)、西嶋真司さん(映像ジャーナリスト)、植村隆さんが順に話した。
徃住さんは、櫻井よしこ氏の言説の重大な変遷を詳細に読み解いて、ジャーナリストとしての揺れと乱れを厳しく批判した。西嶋さんは、制作中の映画「標的」のクラウドファンディングへの支援と協力を呼びかけた。植村さんは、「裁判が進むにつれて、私への捏造批判がデタラメだったという証拠が次々に出てくる。多くの人と一緒にたたかう充実感がある」と語った。
神原弁護士から植村さんまで、マイクを握る人はみな明るく元気がよかった。法廷の重苦しい空気はどこかに行ってしまったようだった。集会の参加者は50人ほど。閉会は午後6時50分だった。




東京訴訟の進行意見

5月10日の弁論で
神原元弁護士が読み上げた「進行意見」


本件の進行について以下のとおり意見を述べます。
裁判所におかれては、
1 2019年2月22日に弁論を再開した上で乙第24号証を採用した理由を明らかにされた上
2 乙第24号証に記載された事実に反論するため、1ヶ月半ほどの準備期間の後、再度、期日を指定してください。

以下、理由を述べます。
1 はじめに
本件審理は、2018年11月28日に結審となり、あとは2019年3月20日の判決言い渡しを待つのみとなっていました。ところが、判決言い渡しの1ヶ月半前、2019年2月8日になって、裁判所から被告に示唆して、同年2月22日に弁論を再開し、朝日新聞第三者委員会報告書全文(乙第24号証)を証拠提出させ、証拠採用する運びとなりました。
乙24号証には原告に不利に援用されかねない他の多数の事実が記載されており、裁判所は、判決の起案にあたって被告の立証の不足に気づいてこれを補うべく、同号証を採用したとみるほかありません。原告は乙24号証のどの部分が自己に不利に援用されるか裁判所の意図するところが分からず、反証ができません。
よって、頭書のとおり、裁判所が乙24号証を採用した理由を明らかにした上で、続行期日を入れるよう意見を述べるものです。
以下、詳述します。

2 裁判所の釈明権行使義務の存在
前記のとおり、乙24号証は原告に不利に援用されかねない多数の事実が記載されているものですが、原告は同号証のどの部分がどのように判決に援用されるか分かりません。これは原告にとって不意打ちであり原告の防御権を著しく侵害しています。
そもそも民事訴訟は弁論主義を採用し攻撃防御方法の提出は当事者の責任であるのに、裁判所が一方当事者に証拠提出を促し、その証拠を他方当事者に不利に援用するというのは釈明権(民訴法149条)行使としては異例です。本件においてあるべき姿は、なにより原告に攻撃防御の機会を保障することである。
すなわち、本件ではすでに裁判所に促されて被告が乙24号証を提出しているのです、裁判所としては、乙24号証を採用した理由(乙24号証のどの部分が新たに問題になったのか)を明らかにした上で、原告に対して、適正な釈明権の行使として反証するよう促すべきなのです。
釈明権はたんなる裁判所の便宜的見地から認められたものではなく、当事者、ひいては国民の司法に対する信頼を保持するために認められたものです。よって、釈明権の行使は一種の公益的要請であり、義務となる場合もあります。
本件で乙24号証は裁判所の指示により証拠採用されたものであり、そこに重要な記載があるからこそ採用したはずです。そうであれば、どの点が本件で重要なのかを当事者双方に明らかにした上で、主張・反証を尽くさせるのが前記釈明義務の内容なのです。
なお、乙24号証には、これまで本件訴訟の審理において立証されていなかった、朝日新聞の吉田証言の報道状況が詳細に記載されており(同5から19頁)、判決においても、朝日新聞の吉田証言報道の事実が、原告に不利に援用されることがあり得ます(乙23号証参照)。これについても原告としては対応せざるを得ないことになるのです。

3 反論の機会を与えることが適正手続の要請であること
原告は、裁判所が乙24号証を採用した理由について説明を受けた上で、これらについて精査し反論する必要があるところ、原告にこのような主張・立証の機会を与えることは適正手続の要請です。
すなわち、本件審理において、乙24号証の要約版(乙8号証)は2016年2月17日(第4回期日)に、乙24号証の一部である甲64号証も2016年5月18日(第5回期日)に法廷に証拠提出され、証拠調べがなされています。遅くとも2016年中には、裁判所は乙24号証の存在について知っていたのです。ところが、裁判所は、2016年中はもちろん、2018年11月28日の結審に至るまで乙24号証の存在に言及せず、判決を3月20日に控えた本年2月22日、突如、弁論を再開して乙24号証を証拠採用したのです。この手続は異常であり、原告の防御権の観点から見て重大な瑕疵があるといわざるを得ません。乙24号証には吉田証言朝日新聞報道等原告に不利に援用されかねない多数の事実が記載されているのですから、これに対する反論の機会を十分に与えることが適正手続の要請であり、民事訴訟における手続的正義の要求するところです。

4 結論
以上から、原告としては、裁判所より、乙24号証を採用した理由、すなわち乙24号証のどの部分が判決において援用される箇所なのかを明らかにして頂いた上、
① そこで重要であることが明らかにされた事実に対する反証する準備のため、
② その他原告に不利に援用されかねない他の多数の事実を精査し反証する準備のため、
さらに準備期間を1月半程度頂いた上で、次回期日を指定されたく意見を述べるものです。

2019年5月8日水曜日

神原弁護士の平和論

写真=聨合ニュース
5月10日に就任2周年を迎える韓国の文在寅大統領がドイツの新聞「フランクフルター・アルゲマイネ」に寄稿した文章「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」がインターネットで評判になっています。この100年間の独立・民主化運動を振り返り、朝鮮半島の現代史に刻まれる闘いの精神を讃え、自由と平等、正義と公正、個の尊重と平和の実現を呼びかけたメッセージです。隣国の歴史とともに文大統領の考えもより深く理解させてくれるテキストともいえるでしょう。
この寄稿文の感想を神原元・弁護士(植村裁判東京弁護団事務局長)がツイッターに投稿し、「隣国のリーダーのこの知性溢れる文章を見よ」と書いています。神原弁護士はまた、「近隣諸国との和解こそが国の未来につながる」「慰安婦報道の正義を守った元朝日新聞記者植村隆さんは韓国でも米国でも尊敬されている。彼こそ真の愛国者である」とも書いています。
以下に、神原弁護士の投稿を転載し、その後に、文大統領の寄稿を続けて引用します。


■この知性溢れる文章をみよ
神原元弁護士の投稿 (写真はツイッターのプロフィル画面)



隣国のリーダーの、この知性溢れる文章をみよ。安倍政権下でどれだけ日本は遅れをとったのか。 「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」 文大統領のFAZ寄稿全文 | 聯合ニュース

民族差別と女性差別と歴史修正主義が交わるところに従軍慰安婦問題がある。 俺はいつも言うのだが、従軍慰安婦問題こそ日本人のリトマス試験紙だ。この問題で正しい立場が取れない者を俺は絶対に信用しない。

ドイツはナチズムを徹底的に清算することで近隣諸国と和解し、EUの盟主になり、外交で米国と対等に渡り合えるまでになった(イラク戦争反対など)。 慰安婦問題をこじらせた日本は近隣諸国に嫌われ、アジアで孤立し、米国の属国にならないと生きていけない。 我々が過去に拘るのは国の未来のためだ。

国を愛するなら米国の属国に甘んじることなく真の独立と民主主義を勝ち取ることだ。そのためには、アジア近隣諸国と真に和解し、米国の軍事力に頼らない中立外交を可能にすることだ。 慰安婦問題を含め、近隣諸国との和解は国の未来の世代のためであって、過去の事象に拘泥しているからではない。

誤解を恐れず言えば、その意味で慰安婦問題は単なる人権・人道問題ではない。日本人が世界の人々と対等に付き合っていけるか、それとも世界から孤立し米国の軍事力だけに頼って生きていくのかの分水嶺なのである。

愛国者を自称する連中が世界中で慰安婦についてデマを流し、それで日本人は世界から軽蔑され孤立している。このことでどれほどの国益が失われたのか。 日本中からのバッシングに耐え、慰安婦報道の正義を守った元朝日新聞記者植村隆さんは韓国でも米国でも尊敬されている。彼こそ真の愛国者である。


慰安婦問題の正しい立場とは、国家の立場を捨て、真に人権・人道の立場に立ち切ること。逆説的だか、そのことにより日本人の尊厳も回復し、結果的に日本の国益に最もかなうと思う。 この間の世界と日本の動きを見て痛切に感じる。

※https://twitter.com/kambara7 2019/5/6-5/8



■平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて
文在寅大統領の寄稿文 日本語訳文を「聯合ニュース」から引用します。
(引用ここから)

【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は10日の就任2周年に合わせ、ドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)に7日までに、「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」と題する文章を寄稿した。以下は全文。

1 光州
 韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。
 1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。
 ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。
 光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。
 二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。
 残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。
 孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。

2 ろうそく革命、再び光州
 私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。
 2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。
 ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。
 今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。
 平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。
 韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。
 包容国家は社会経済体制を包容と公正、革新の体制に変える大実験です。韓国では雇用部門で、より良質な雇用をより多く生み出すため努力しています。労働者がより良い生活を送り、働いただけ正当な対価を得られるよう、社会的合意を通じて最低賃金の引き上げと労働時間の短縮を進めています。若者の雇用のための予算を増やすとともに、退職後の人生にも責任を負うべく中年層の再就職訓練に対する支援を実施しました。また高齢者の基礎年金を引き上げ、雇用関連予算を増やしました。
 経済部門では、これまで韓国経済を支えてきた大企業と中小企業の共生に取り組んでいます。革新的なベンチャー企業や中小企業がどんどん成長していけるよう、規制を大胆に取り除き、金融も革新を評価する方向に変えていっています。
 福祉部門ではライフサイクルに合わせた社会保障システムの構築を進めています。医療保険の保障範囲を広げ、安心して子育てできるよう保育サービスの拡充に努めています。誰もが差別されない社会を目指し、発達障害者のライフサイクルごとの総合対策を立て、女性の権益を増進する一方、性差別には断固として対処しています。外国人労働者の子どもや国際結婚家庭に対する支援も強化しています。教育部門では入試競争や詰め込み式教育を脱却し、創意性を重視する革新教育にシフトしていく予定です。
 しかし、慣れ親しんだ慣習を脱し、変化していく過程では葛藤も起こり得ます。利害関係が異なる人々の間で対話し、調整し、妥協する時間が必要です。これを通じ、皆に利益になることを探していかねばなりません。大実験を成功させるには社会的大妥協が伴う必要があります。
 韓国は植民地支配と戦争で廃墟と化しましたが、わずか70年ほどで世界11位の経済大国に成長しました。私たちは、こうした成果を変化にスピーディーに対処することで成し遂げました。農業から軽工業、重化学工業、先端情報通信技術(ICT)に至るまで、どの国も不可能だったとてつもない変化を自ら成し遂げ、第2次世界大戦後の新生独立国のうちで唯一、先進国に飛躍しました。韓国には、裸一貫から成功を遂げた底力があります。韓国国民は変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
 近ごろ、光州で意味のある社会的大妥協が起きました。適正賃金を維持しながらより多くの雇用を得るため、労働者と使用者、民間と政府がそれぞれの利害を離れて5年以上も向き合いました。労働者は一定部分の賃金を諦めねばなりませんでした。使用者には、雇用を保障し、労働者の福利厚生に責任を負いつつもコストを維持せねばならないという困難がありました。人間らしい暮らしを守ろうとする民間の要求が強く、各種法規を調整して安定した企業運営を支援せねばならない政府もまた、妥協に苦労しました。
 簡単ではありませんでしたが、譲歩と分かち合いによって最終的に大妥協を成し遂げました。韓国ではこうして生み出された雇用を「光州型雇用」と呼びます。韓国人は、大義のため自らを犠牲にする「光州精神」がもたらした結果だと受け止めています。民主化の聖地、光州が社会的大妥協の模範を作り、経済民主主義の第一歩を踏み出したと考えています。
 「光州型雇用」には雇用を生み出すこと以上の意味があります。それは、より成熟した韓国社会の姿を反映していることです。産業構造が急変していく中で労働者と使用者、地域がどう共生していけるのかを示したのです。
 「光州型雇用」は「革新的包容国家」へ向かう上で非常に重要な転換点になるでしょう。韓国人は長年の経験から、少し時間がかかるように思えても社会的合意を成し遂げ、共に前に進んでいく方が皆にとって良いということを知っています。少しずつ譲歩しながら一緒に歩んでいく方が結局は近道だということも、よく理解しています。1980年5月の光州が民主主義のろうそくになったように、「光州型雇用」は社会的妥協で新たな時代の希望を示し、包容国家の踏み石となりました。
 包容は平凡さの中に偉大さを見つけることです。平凡の集まりが変化をつくり出すことのできる、新たな環境を整えることです。韓国政府は今、「光州型雇用」の成功が全国に広がるよう全力を尽くしています。
 ドイツは包容と革新を最も理想的に具現した国の一つです。平和的な方法で統一を実現した歴史と、包容と革新によって社会の統合を成し遂げた事例は、私たちに常にひらめきをもたらしました。韓国の光州も、新たな秩序を模索する世界の多くの人々にひらめきを与えられればと願っています。

3 平凡な人々の世界
 韓国ではちょうど100年前、平凡な人々が力を合わせて新たな時代を開きました。日帝(日本)による植民地支配を受けていた人々が、1919年3月1日から独立万歳運動を始めました。202万人、当時の人口の10%が参加した大規模な抗争でした。木こり、妓生、視覚障害者、鉱員、作男、名前も知られていない平凡な人々が先頭に立ちました。
 韓国で三・一独立運動が重要である理由は二つです。一つはこの運動を通じて市民意識が芽生えたことです。一人一人に国民主権と自由と平等、平和に向けた熱望が生まれ、これによって階層、地域、性別、宗教の壁を超えました。一人一人が王政の百姓から国民に生まれ変わりました。そして大韓民国臨時政府を樹立しました。
 臨時政府は日帝に対する抵抗を超え、完全に新しい国を夢見ました。1919年4月11日、国号を大韓民国と定めて「臨時憲章」を公布し、大韓民国は君主制ではなく民主共和国であることを明確にしました。臨時憲章第3条では「大韓民国の人民は男女、貴賤、貧富、階級を問わず平等だ」と明示しました。女性を含む全ての国民の選挙権と被選挙権も保障しました。当時、臨時政府の構成に加わった韓国の独立運動家の安昌浩(アン・チャンホ)はこう言いました。「過去に皇帝は1人だったが、今は2000万人の国民が皆皇帝です」。民主共和国を表現した、実に明快な言葉です。
 臨時政府は27年近く、亡命地で植民地解放運動を展開しました。世界の植民地解放運動史において極めて珍しいケースです。臨時政府があったからこそ、列強の国々はカイロ宣言を通じて韓国の独立を保障することになるのです。
 三・一独立運動が重要である二つ目の理由は、心を一つにすることほど大きな力はないと気付き、互いを信じて一度も行ったことのない道へ進んだということです。当時、運動に加わって日帝の監獄に入れられた韓国の近代小説家、沈薫(シム・フン)は母親にこんな手紙を送りました。
 「お母さん! 私たちが千回、万回、祈りを捧げても、固く閉ざされた獄門がおのずと開かれることはないでしょう。私たちがどれだけ声を張り上げて泣き叫んでも、大きな願いが一朝にしてかなうこともないでしょう。しかし、心を一つにすることほど大きな力はありません。一丸となって行動を同じくすることほど恐ろしいことはありません。私たちはいつもその大きな力を信じています」
 韓国の近現代史は挑戦の歴史でした。植民地と南北分断、戦争と貧困を超え、民主主義と経済発展を目指して前進してきました。その歴史の波をつくったのは、平凡な人々でした。三・一独立運動後の100年間、韓国人は誰もがそれぞれの胸に泉(力の源泉)を抱いて生きてきました。危機のたびに一緒になって行動しました。「豊かに暮らしたいが、一人だけ豊かに暮らしたくはない」「自由になりたいが、一人だけ自由になりたくはない」という気持ちが集まり、歴史の力強い波となりました。
 私は、民主主義は制度や国家運営の道具ではなく、内在的価値だと考えています。平凡な人々が自分の暮らしに影響を与える決定の過程に加わり、声を上げることで、国民としての権利、人間としての尊厳を見いだすことができると思います。私たちはより良い民主主義をつくれるのです。ジョン・デューイの言葉のように、民主主義の問題を解決するためにはより多くの民主主義を行うしかないのです。
 民主主義は平凡な人々により尊重され、補完されながら広がっています。制度的で形式的な完成を超え、個人の暮らしから職場、社会に至るまで実質的な民主主義として実践されています。平凡さの力であり、平凡さが積み重なって成し遂げた発展です。
 100年前、植民地の抑圧と差別に立ち向かい闘った平凡な人々が、民主共和国の時代を開きました。自由と民主、平和と平等を成し遂げようとする熱望は100年がたった今なお強いのです。国が国らしく存在できないとき、三・一独立運動の精神はいつでもよみがえりました。

4 平凡さのための平和
 東洋には「乱世に英雄が生まれる」という言葉があります。しかし、乱世こそ平凡な人々が自分の人生を自ら開いていくことのできない時代です。英雄は生まれますが、平凡な人々は不幸に陥る時代です。
 中国の古典「史記」の「孫子呉起列伝」にこんな一節があります。「人曰、子卒也、而将軍自吮其疽、何哭為」。人いわく「息子が卒兵なのに将軍が自ら息子の腫れ物の膿を口で吸い出してくれた。どうして泣いているのですか」。泣く必要はないのにどうして泣いているのかという意味です。母親は、息子が将軍の行動に感激し、戦場で必死に戦って死ぬのではないかと思って泣いたのです。「史記」にはその母親の夫も同じことを経験して必死に戦い、死んだと記されています。
 「史記」の著者の司馬遷は将軍・呉起の立派な行動を伝えようとしたのですが、この話は夫を失った妻のふびんな境遇が行間に潜んでいます。私たちの好きな英雄譚(たん)には、常に自らの運命を奪われた平凡な人々の悲劇が隠されているのです。
 韓国の分断の歴史にも、平凡な人々の涙と血が染みついています。分断は個人の人生と思考を反目に慣れさせました。分断は既得権を守る方法、政治的な反対者を葬る方法、特権と反則を許す方法として利用されました。平凡な人々は分断という「乱世」の間、自分の運命を自ら決められませんでした。思想と表現、良心の自由を抑圧されました。自己検閲を当然のものと考え、不条理に慣れていきました。
 この長きにわたる矛盾した状況を変えてみようという熱望は、韓国人がろうそくを掲げた理由の一つでした。民主主義を守ることで平和を呼び込もうとしたのです。ろうそくが平和に向かう道を照らさなかったなら、韓国は今も平和に向けて一歩も踏み出せずにいたでしょう。ろうそく革命の英雄は、極めて平凡な人々の集団的な力でした。「乱世に英雄が生まれる」という東洋の古言は「平凡な力が乱世を克服する」という言葉に変えるべきでしょう。
 私は、季節が変わりゆくように人間社会の出来事にも過程があると信じています。東・西ドイツ間の鉄のカーテンが欧州を貫く巨大な生命の帯「グリーンベルト」に完全に変貌したように、朝鮮半島の平和が東西を横切る非武装地帯(DMZ)にとどまらず南北に拡大し、朝鮮半島を超えて北東アジア、欧州まで広がっていくことを期待しています。朝鮮半島全域にわたり長く固着している冷戦的な葛藤と分裂、争いの体制が根本的に解体され、平和と共存、協力と繁栄の新秩序に置き換わることを目指しています。韓国ではこれを「新朝鮮半島体制」と名付けました。
 「新朝鮮半島体制」は朝鮮半島の地政学的大転換を意味します。朝鮮半島は地政学的に大陸勢力と海洋勢力が衝突する断層線にあります。欧州のバルカン半島と似ています。このため、歴史的にたびたび戦争の受難を経験しました。特に、朝鮮半島の南と北が非武装地帯を境界に分断されて以降、韓国は事実上、大陸とのつながりが断たれた「島のような存在」でした。
 朝鮮半島に新たな秩序を築くことは、島と大陸をつなぐ橋を築くことです。昨年4月、私は南北軍事境界線がある板門店で北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長(朝鮮労働党委員長)と会いました。北朝鮮の最高指導者が朝鮮戦争以来で初めて、韓国側の地へ越えてきた歴史的な瞬間でした。私たちはそこで、互いに対する軍事的な敵対行為をやめようと約束しました。
 その最初の措置として、非武装地帯の監視所の一部を撤去し、周辺地域の地雷撤去作業も実施しました。非武装地帯内に南と北をつなぐ道路が敷かれ、13柱の遺骨も発掘され故国に戻りました。こうした作業を進めていたところ、昨年11月にはそれぞれ南側と北側を出発した軍人が朝鮮戦争の最後の激戦地だった矢じり高地で鉢合わせする出来事がありました。彼らは互いに銃口を下ろして握手を交わし、予想外の遭遇を楽しみました。朝鮮戦争の休戦協定締結から65年にして、このように非武装地帯に春が訪れたのです。
 朝鮮半島の春はドイツのベルリンから始まりました。私は2017年7月、金大中(キム・デジュン)元大統領による2000年の「ベルリン宣言」に続き、ろうそく革命の熱望を込めてベルリンで朝鮮半島の新たな平和構想を語りました。当時、多くの人々は単なる希望事項にすぎないと考えました。朝鮮半島の冬はなかなか去る様子はなく、北朝鮮は核実験とミサイル発射を繰り返して危機を高めていました。周辺国も制裁を次第に強化し、「4月危機説」「9月危機説」が飛び交い、韓国人は本当に戦争が起きるのではと心配しました。
 ドイツのウィリー・ブラント元首相は「一歩も進まないより、小さな一歩でも進む方がいい」と言いました。私の考えも同じでした。何かを始めなければ、国民の熱望をかなえることはできませんでした。「小さな夢を見てはいけない、それは人の心を動かす力がない」というゲーテの文章を思い出しました。冬を抜けて春の新芽を芽生えさせるには、朝鮮半島の非核化と恒久的平和という大きな夢を語る必要がありました。国民らと一緒に成し遂げられる、大きな夢でなければならなかったのです。
 北朝鮮は2018年1月の新年の辞で南北関係を改善する用意があると表明し、韓国の大きな夢に応えてきました。続けて、平昌冬季五輪への参加の意向を伝えてきました。周辺国と欧州の国々までもが朝鮮半島の雪解けに支持と声援を送ってくれました。韓国の国民は、平昌五輪を平和五輪にするため心を合わせました。
 「ベルリン宣言」で、私は北朝鮮に「簡単なことからやろう」と呼び掛け、四つのことを提案しました。平昌五輪参加、朝鮮戦争などで生き別れになった南北離散家族の再会事業、互いに対する敵対行為の中断、そして南北間の対話と接触の再開です。驚いたことに、この四つは2年が過ぎた今、全て現実のものになりました。昨年2月の平昌冬季五輪の開会式で、南北の代表選手団は世界の人々が見つめる中で朝鮮半島旗(統一旗)を掲げて合同入場しました。離散家族が再会し、今やいつでも映像を通じて再会できるシステムを備えています。何よりも朝鮮半島の空と海、陸地で銃声は消えました。私たちは北朝鮮の地、開城に共同連絡事務所を開設し、日常的に互いが対話し、接触するチャンネルをつくりました。朝鮮半島の春が、こうしてにわかに近づいてきたのです。
 これまで私が残念に思っていたことは、韓国の国民が休戦ラインの向こうをもはや想像できないことでした。朝鮮半島で南と北が和解し、鉄道を敷き、人と物が行き交うようになれば、韓国は「島」ではなく海洋から大陸に進出するための拠点、大陸から海洋に出ていくための関門になります。平凡な人々の想像力が広がるということはすなわち、理念から解放されるという意味でもあります。国民の想像力も、生活の領域も、思考の範囲もはるかに広がり、これまで耐えねばならなかった分断の痛みを癒やせるでしょう。
 今や南北の問題は理念や政治に悪用されてはならず、平凡な国民の生命と生存の問題に広げていかねばなりません。南と北はともに生きていくべき「生命共同体」です。人が行き来できない状況でも病虫害が発生し、山火事が起こります。目に見えない海上の境界は操業権を脅かしたり、予想外の国境侵犯で漁民の運命を変えたりします。こうした全てのことを元に戻すことが、まさに恒久的平和なのです。政治的、外交的な平和を超え、平凡な人々の生活のための平和です。
 「新朝鮮半島体制」は受動的な冷戦秩序から能動的な平和秩序への転換を意味します。かつて、韓国国民は日帝の占領と冷戦により自身の未来を決められませんでした。しかし今、自ら運命を切り開こうとしています。平凡な人々が自分の運命の主人になるのです。
 朝鮮半島と北東アジアの既存秩序は、第2次世界大戦の終戦と同時に北東アジアに植え付けられた「冷戦構造」と深く関わっています。戦後処理の過程で韓国人の意思とは異なり分断が決まり、悲劇的な戦争を経験せねばなりませんでした。このとき、韓米日の南方3角構図と、これに対応する北朝鮮と中ロの北方3角構図が暗黙のうちに定着することになりました。
 こうした冷戦構図は1970年代のデタント(緊張緩和)と1990年代のソ連解体、中国の市場経済導入でかなり解消されましたが、朝鮮半島でのみ、今なおそのままです。南北は分断されており、北朝鮮は米国、日本と正常な国交を結んでいません。こうした状況で、南北は昨年、「板門店宣言」と「平壌宣言」を通じて敵対行為の終息を宣言することで、恒久的な平和定着に向けた最初のボタンを掛けました。同時に、北朝鮮と米国は非核化問題とあわせて関係正常化のための対話を継続しています。朝米(米朝)が対話によって完全な非核化と国交を実現し、朝鮮戦争の休戦協定が平和協定に完全に置き換えられてはじめて冷戦体制は崩れ、朝鮮半島に新たな平和体制が築かれるでしょう。
 平和はまた、共に豊かに暮らす国に発展するための基盤となります。「新朝鮮半島体制」は平和経済を意味します。平和が経済発展につながり平和をより強固にする、好循環の構造を指します。南と北は恒久的な平和定着を促進するため、共に繁栄できる道を思い悩んでいます。すでに、断ち切られた鉄道と道路の連結に着手しました。韓国の技術者たちが分断以来で初めて北朝鮮の鉄道の状況を調査しました。鉄道と道路の連結事業の着工式も開催しました。
 南北経済交流の活性化は、周辺国と結びつきながら朝鮮半島を超え東アジアとユーラシアの経済回廊に生まれ変わることができます。南北とロシアはガスパイプをつなぐ事業について実務的な協議を始めています。昨年8月には、北東アジア6カ国と米国でつくる「東アジア鉄道共同体」を提案しました。私は「欧州石炭鉄鋼共同体」をモデルに「東アジア鉄道共同体」を北東アジアのエネルギー共同体、経済共同体に発展させたいと考えています。この共同体はさらに、多者(多国間)平和安全保障体制に発展していけるでしょう。
 韓国が推進している「新南方政策」と「新北方政策」により、朝鮮半島の平和経済は一層拡大するでしょう。新北方政策はユーラシアとの経済協力に道を開くものです。北朝鮮は昨年6月、ユーラシアの国々が全て加わっている鉄道国際協力機構への韓国の加盟に初めて賛成しました。釜山からベルリンまで鉄道で移動できる日が来るでしょう。韓国は南北和解を基に北東アジアの平和の促進者となるでしょう。
 新南方政策は朝鮮半島が東南アジア諸国連合(ASEAN)、西南アジアとともに新たな戦略的協力を模索するものです。韓国は人(People)、平和(Peace)、繁栄(Prosperity)の共同体を中核価値と見なし、周辺国と人的・物的交流を強化していきます。アジアが持つ潜在力をともに実現し、共同繁栄の道を模索していきます。
 韓国国民は、平凡な人々の自発的な行動が世の中を変える最も大きな力だということを示しました。こうした力は最後に残った「冷戦体制」を崩壊させ、「新朝鮮半島体制」を主導的に築いていく原動力になるでしょう。重要なことは、1人の平凡な人が自分の意思と関係なく不幸になる状況を防ぐことです。平和の実現も、結局は平凡な国民の意思によって始まり、完成され得るということを世界に示せるよう望みます。

5 包容的世界秩序を目指して
 第2次世界大戦以降、欧州もやはり冷戦の渦中に飲み込まれていきました。各国の政府は新たな同盟戦略を模索しました。冷戦で分断されたドイツは平和を目指して大胆に前進し、欧州の変化をけん引しました。
 ベルリンの壁によって突如として生き別れになったドイツの45万人の市民らは統一と平和への願いを抱き、1963年6月、ブランデンブルク門前の西ドイツ側に集まりました。その年、ウィリー・ブラント西ベルリン市長はクリスマス期間に別れた家族や親戚に会えるようにするための交渉を提案しました。東方政策の始まりでした。東西ドイツが互いを競争と封鎖の対象ではなく、協力と共生の対象として見るようになりました。
 東ドイツのライプチヒでは1980年代初めから、毎週月曜日に小さな祈祷(きとう)会が開かれました。この小さな祈祷会は1989年10月9日、選挙と旅行の自由、ドイツ統一を要求する平和行進に発展しました。7万人で始まった平和行進は、わずか2週間で30万人を超えました。1カ月後の11月9日、ベルリンの壁が崩壊しました。
 欧州の平凡な市民たちが平和の実現に乗り出し、積極的に各国政府を動かしたからこそ、欧州の秩序が変わったのだと思います。欧州の市民たちの意志と行動は1952年、欧州連合(EU)の母体となった「欧州石炭鉄鋼共同体」を発足させ、1975年には現在の欧州安全保障秩序の起源と言える「欧州安全保障協力会議」を胎動させました。
 欧州の事例から分かるように、国家間の関係において包容性は非常に重要です。国境と分野を超えて包容し、公正なチャンスと互恵的な協力を保障するとき、世界はともに豊かに暮らし、ともに発展することができます。しかし、戦後秩序の根幹である自由貿易主義と国際主義が顕著に弱まり、再び保護貿易主義と自国優先主義がうごめいています。こうした国際的な危機は、包容と協力の精神を消しつつあります。国際社会の一員としての各国の責任と規範を強調する協力の政治が切実に求められます。
 再び、平凡な人々が重要です。平凡な人々が変えられることは、国内問題に限られません。国家を変えれば、世界秩序も変えられます。平凡な全ての人々が国家運営を自身の権利、責任と考え、世界の運命を自身の運命と関連付けて考えるとき、新たな世界秩序は築かれるでしょう。平凡な人々が国境や人種、理念や宗教を超えて連帯し、協力するとき、世界は共に豊かに暮らす持続可能な発展を遂げるでしょう。
 社会的弱者をのけ者にせず、働いただけ対価を受け取り、安定した福祉で多数が成長の果実を享受する世界が、包容的世界です。すでに私たちは韓国や欧州、世界のあちこちで平凡な人々が包容によって成し遂げてきた成果を知っています。
 ドイツは自由な市場経済を追求する一方で、雇用不安、賃金格差、貧困、老後不安などさまざまな社会的リスクに対する保障を提供し、社会統合を果たしました。北欧の国々は多額のコストを伴う福祉制度が国の競争力を弱めないよう、絶え間ない教育投資を通じて国の革新力を保ちました。
 特定の国家や公共部門の努力だけで、気候変動のような地球全体の問題を解決することは不可能です。国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は昨年、「地球温暖化1.5度報告書」を採択しました。気候の専門家らは、産業化以前に比べて地球の気温上昇を1.5度に抑えられれば、2度上がった場合と比較して1000万人の命を救うことができると見込みました。国際的な支援と協力により、全ての国が気候変動に共同で対応してこそ達成できる目標です。
 世界的に包容性を受け入れることも重要です。紀元前2000年から、アジアの国々は「治山治水」を成功的な国家運営の最初の徳目と見なしていました。「山と水を治める」という意味のこの言葉には、「自然を尊重する」という精神が込められています。木を育てて山崩れを防止し、水をせき止めておくよりも自然に流れるようにして洪水と干ばつの被害を減らそうとしました。人間と自然、開発と保全を分けて考えることはしませんでした。私は、これは世界が追求する持続可能な発展と通じるところがあると思います。
 しかし現在、なお多くの国が経済発展と環境保護を別のものと見なしています。先進国と開発途上国の間で、相手の立場に立って考える精神が必要です。私たちだけでなく未来の世代が一緒に生きていく地球のため、人間と自然が共に生きていく知恵と、平凡な人々が持つ包容の力を発揮するときです。そうすれば、新たな世界秩序と持続可能な発展という夢は現実のものになるでしょう。
 各国が包容性を強化して国家間の格差を減らし、国民の世界市民として考える力を養う必要があります。平凡な市民が成し遂げた欧州の統合と繁栄は、世界をよりよいものにしようとする人類に意志と勇気を与えてくれるでしょう。

6 平凡さの偉大さ
 平凡な人々が自分の人生を開いていけること、日常の中で希望を持ち続けられること、ここに新たな世界秩序があります。歴史書に全く出てこない人々、名前ではなく労働者、木こり、商人、学生といった一般名詞で登場する人々、こうした平凡な人々が一人一人、自分の名前で呼ばれなければなりません。世界も、国家も、「私」という1人で始まります。働いて夢を見る、日常を維持していく平凡さが世界を構成しているということを、私たちは認識する必要があります。
 そのためには、1人の人生が尊重されねばなりません。1人の人生の価値がどれだけ重要なのか自分でも理解する必要がありますが、歴史的に、文化的に再評価されるべきだと思います。自身の行動が周囲に影響を与えられるということ、またどんな行動が周囲に広がり、最終的にどんな結果をもたらし得るのかについて語り、記録に残さねばなりません。
 平凡さが偉大であるためには、自由と平等に劣らず正義と公正が保証されるべきです。人類の全ての話は「善事を勧め、悪事を懲らしめる」という平凡な真理を反すうします。東洋では「勧善懲悪」という四字熟語で表現します。この簡明な真実が正義と公正の始まりです。無限競争の時代が続いていますが、正義と公正がより普遍化した秩序となるべきです。
 正義と公正の中でのみ、平凡な人々が世界市民に成長できます。今はまだ何もかもが進んでいる最中のようですが、人類が歩んできた道に新たな世界秩序に対する解決策があります。東洋には「人は倉に穀物がいっぱい詰まっていれば礼節を知り、衣服や食物が満ち足りてこそ栄誉と恥辱を知る(倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱)」という古言があります。正義と公正によって世界は成長の果実を等しく分かち合えるようになり、これを通じて皆に権限が与えられ、義務が芽生え、責任が生じるでしょう。
 今、世界が危機だと捉えていることは平凡な人々が解決していくべきことです。これは一国では解決できない問題であり、1人の偉大な政治家の慧眼では成し遂げられないことです。苦しんでいる隣人を助け、ごみを減らし、自然を大切にする行動が積み重なっていくべきです。こうした行動を取る人が1人しかいなければ「何を変えられるだろう?」と懐疑的になるかもしれませんが、この小さな行動が積み重なれば流れが大きく変わります。
 そして結局、私たちは世界を守り、互いに分かち合いながら、平和な方法で世界を少しずつ変化させられるようになるでしょう。平凡な人々の日常がそうであるように、ゲーテが残した警句のように「急がずに、だが休まずに」。
*同寄稿文は韓国語の原文を聯合ニュースが翻訳したものです。

(引用ここまで)

2019年5月4日土曜日

5.10弁論に注目!

結審後に再開、中断など異例の事態が続いていた植村裁判東京訴訟(被告西岡力氏、文藝春秋)の口頭弁論が5月10日(金)に開かれます。


東京訴訟第16回口頭弁論

5月10日(金)午後3時開廷

東京地裁706号法廷

この日の弁論で再結審し、判決期日が改めて指定されるものとみられます。
この裁判は昨年11月にいったん結審し今年3月に判決が出る予定でしたが、裁判所が今年2月に弁論を再開し、被告側に新証拠の提出を要求しました。そのため、植村弁護団は公正な審理手続きと裁判長らの交代を求めて裁判官忌避を申し立て、審理は中断していました。
この間に原克也裁判長ら2人は東京高裁や鹿児島地裁に異動しましたが、この裁判については交代せずに継続して担当するという異例の措置がとられています。

706号法廷はこれまでのような傍聴席が約100席ある大法廷ではなく、席数がその半分くらいしかない7階の法廷です。午後2時40分締め切りで傍聴券が交付され、希望者多数の場合は抽選となります。傍聴希望の方は早めにお集まりください。


報告集会

同日午後5時開会

参議院議員会館101会議室

▽弁護団からの報告(東京弁護団から=裁判官忌避と弁論再開までの経過と問題点について、札幌弁護団から=4月に始まった控訴審の主な論点などについて)
▽徃住嘉文氏の報告(札幌控訴審に提出された櫻井よしこ氏に関する新証拠について)
▽植村隆氏の報告と決意表明
があります。午後6時30分閉会予定。

◆主催:植村訴訟東京支援チーム
◆共催:新聞労連/メディア総合研究所/日本ジャーナリスト会議(JCJ)