2019年6月19日水曜日

東京判決の注目点2

左から、植村氏の記事A、記事B、週刊文春の記事A

東京判決の注目点 2
被告西岡の主張の「真実性」と「真実相当性」の検討


 「挺身隊」の名で戦場に連行され…、

と植村氏が書いたことは、

金学順さんの証言とは異なっていない。

しかし、西岡はそれが「捏造」だとは

証明できず、そのように信ずるに足る

取材調査義務も果たしていない。



原告最終準備書面p41~51全文
❶金学順が述べていない経歴を付加して記事に書いたとする点
真実性の検討

被告西岡は、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いた」との事実を摘示する根拠として、

❶原告は金学順が述べていない「女子挺身隊の名で連行された」という経歴を意図的に付加して記事に書いた、
❷原告は金学順本人が述べた慰安婦になる経緯について重要な経歴に触れずに記事に書いた、
❸原告は義母の裁判を有利にする動機があった

と主張している。
しかし、ここでの事実摘示の内容は、「意図的に嘘をついたこと」であって、「重大な誤り」ではないから、

真実性の立証としては、
①原告の記事が金学順の証言と異なること以外に、
②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、
③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があって、それに基づいて記事を書いたことがいずれも立証されなければならない。

そして、次に述べるとおり、上記❶❷❸を検討しても、前記①②③はいずれも立証されず、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いた」との事実は証明されない。
以下、詳述する。


被告は、原告が記事で金学順が述べていない「挺身隊の名で戦場に連行され」という経歴を意図的に付け加えたと主張する。そこで、この点について、①原告の記事が金学順の証言と異なること、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があって、それに基づいて記事を書いたことがいずれも立証されたといえるかどうかを検討する。
まず、そもそも原告記事A(甲1)※注の記載中、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」という部分には、括弧書きがなく、いわゆる「地の文」(会話以外の説明や叙述の部分)であって、金学順の発言をそのまま引用した記述でないことは文面上明らかであり、当該記載は、金学順の立場なり境遇なりを、原告が、原告なりに要約して表現したものに過ぎない。そうすると、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないとしても、直ちに①原告の記事が金学順の証言と異なるとの事実は証明されない。<※注=金学順さんの名乗り出を報じた植村氏の1991年8月11日付記事>

そして、金学順は、最初に挺身隊問題対策協議会の事務所に名乗り出た際「自分は挺身隊だった」と明確に述べており(甲50)、1991年8月14日の最初の記者会見では、「私は挺身隊」(甲21)「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」等と発言しているから、「女子挺身隊」というのは、金学順自身が自己の境遇を説明する際に使用した言葉であることが明らかである。

また、金学順は、1991年8月14日の最初の記者会見で、「16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っぱって行って。強制的に。」として要するに自分は強制連行されたとも述べ(甲110)、さらに、提訴後には「17歳の時、日本軍に強制連行された」と明確に述べているから(甲23)、自分の体験について「連行」「強制連行」とも述べていたことが明らかである。

さらに、金学順が裁判所に提出した陳述書で、金学順は、慰安婦一般の境遇について「平壌にいると女性は挺身隊として強制連行されてしまう」(甲149)と述べ、法廷では「挺身隊として連れて行かれる」(甲148)とも表現しているから、「挺身隊の名で連行され」という表現を金学順が使用してもおかしくない。

以上からすれば、金学順は自己の境遇について、「女子挺身隊」、「連行」、「強制連行」、「女子挺身隊の名で連行」などの表現で説明していたことが明らかであるから、そもそも①原告記事の当該部分が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実の真実性は立証されていない。

イ■付け加えるに、むしろ、原告が記事を執筆した1991年当時、韓国でも日本でも、従軍慰安婦の境遇について「女子挺身隊として連行された」と表現するのは一般的だった。

すなわち、小松義貴意見書(甲124)※注によれば、1946年5月12日付けソウル新聞(甲160)にはすでに「今度の戦争中…この地の娘たちを女子挺身隊または慰安婦という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実」という表現がみられる。さらに、60年代の新聞には、「挺身隊として引っ張っていかれ、南洋、中国各地で日本人将校の慰安婦にあてがわれた韓国の乙女たち」(1962年8月14日付け京郷新聞、甲161)、「挺身隊=俗に女子供出とも言った。年頃の乙女たちを戦地に駆り出し、慰安婦にした」(1963年8月14日付け京郷新聞、甲162)、「韓国の乙女たちは18歳から20歳まで挺身隊という名で駆り出され、結局は全て軍隊の娼婦にされてしまった」(1964年3月23日付け東亜日報、甲163)、「挺身隊という名目で拉致動員し慰安婦にした」(1965年2月17日付け京郷新聞、甲164)等の表現があったという。※注=小松氏は韓国に在住し、終戦後の慰安婦に関する報道を調査研究している言語心理学者。研究成果を意見書として提出した

そこで、日本の新聞でも、慰安婦にされた女性の境遇について、「日中戦争から太平洋戦争のさなか、朝鮮の女性たちが『女子挺身(ていしん)隊』の名で日本軍の従軍慰安婦として各地の戦場に送られた」(91年7月18日朝日新聞 甲174号証)、「日中戦争や太平洋戦争で『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦の実態を調査している韓国挺身隊問題対策協議会」(91年7月31日朝日新聞 甲175)、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに従軍慰安婦として戦場にかりだされた朝鮮人女性たち」(91年9月3日産経新聞 甲18)、「『女子挺身隊』の名のもとに…強制徴発されて戦場に送り込まれた」(1987年8月14日付け読売新聞 甲19)、「女子挺身隊のうち『慰安婦』として戦地に送られた(金学順さんもそんな一人)」(91年8月24日付け読売新聞 甲24)、「女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵に陵(りょう)辱されたソウルに住む韓国人女性」「女子挺身隊の名で動員され、一般勤労のほか、多くが慰安婦とされた」(91年8月15日北海道新聞 甲25)、「第二次世界大戦中に『女性挺身隊』として強制連行され、日本軍兵士相手に売春を強いられた」(91年12月3日付け読売新聞 甲68)などの表現がとられたのである(甲65、甲66、なお、日本のメディアにおいて、挺身隊と慰安婦とを区別する動きができたのは、92年初旬からである。朝日第三者委員会報告書、甲64号証41頁、読売新聞については甲49号証参照)。

元従軍慰安婦金福童※注は、挺対協がまとめた『証言集 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』の証言集2(下巻)において、日本人から「挺身隊(テイシンタイ)に娘を送るので出しなさい」と命令され連行されたところ、慰安婦にされてしまったと証言している(甲146・138~139頁)。これこそまさに、「女子挺身隊の名で連行され」慰安婦にされた実例である。<※注=慰安婦の被害体験を語りつづけた韓国女性。ソウルの日本大使館前の水曜デモに参加しつづけ、2019年1月、92歳で死去>

したがって、原告が、金学順の立場なり境遇なりを、原告なりに要約して「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」と表現したとしても、91年当時の一般読者の理解を基準として、①原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実が証明されたとはいえない。

ウ■被告西岡は、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との表現が、国家総動員法に基づく女子挺身隊制度による強制連行のことを指すと読者に思わせるから、事実に反する問題のある記事だと指摘している(西岡調書6頁、26頁)。被告西岡によれば、「吉田清治さんが言っている軍の命令で女性挺身隊の名で慰安婦狩りをせよと言われて慰安婦を狩りましたと言っている加害者じゃなくて、今度は被害者がでてきた」というのである(被告西岡本人調書3頁)。被告西岡が陳述書でいう「連行方式としての女子挺身隊」、「職業としての従軍慰安婦」(乙15、4頁)との表現も、同じ趣旨だという(被告西岡本人調書26頁)。

しかし、原告の記事Aには「だまされて慰安婦にされた」と明記されており、記事B※注はさらに詳しく慰安婦になった過程が記されており、これを読めば国家総動員法による連行ではないことが明らかであるから、原告の記事を読んだ読者が、この事例を「国家総動員法」によって徴用された事例であると誤解するはずがない。原告が記事A及びBに記載した金学順の状況は、吉田清治が証言したとされるように、「奴隷狩りのような慰安婦狩り」(被告西岡本人調書11頁)という状況でないことも、記事A及びBを読んだ読者であれば誤解のしようがない。※注=記事Bは、弁護団が金学順さんから聞き取った内容を紹介した植村氏の1991年12月25日付記事
さらに、1991年当時の新聞読者の理解を基準とすれば、一般に言っても、「女子挺身隊の名で連行」との表現が、国家総動員法に基づく強制連行である等と誤解される余地はない。すなわち、女子挺身隊の法的根拠である女子挺身勤労令の公布は1944年8月であるところ(乙22号証13頁)、それ以前より「自主的参加という建前で女性の勤労動員が実施されていた」(同12頁下から3行目)のであり、「政府は『女子勤労動員ノ促進ニ関スル件』を決定し、『女子勤労挺身隊』を自主的に編成させて、女性の根こそぎ動員を図った。」のである(同13頁)。だから、1987年5月2日付け朝日新聞(甲123)には「労働力動員の一環としての女子挺身隊も、だからはじめは法令化され」なかったとの記載があり、これが1991年当時の読者の一般的認識である。

「第145号」(甲168、169)は戦争当時の国策会社「日本ニュース」(甲170)が1943年3月16日に日本人向けに公開した映像であるが、ここにも「女子挺身隊、前線へ」という記載がはっきり見て取れるのであって、ここからも、「女子挺身隊」という語が女子挺身勤労令の公布以前から自主的に編成される労働力動員の形態を示す語として国民に定着していたこと、したがって、「女子挺身隊の名で連行」との記載があっても、一般国民は直ちに国家総動員法に基づく強制連行であると理解しないことが分かる(「第145号は、「NHKアーカイブ戦争証言」で簡単に視聴できる。甲167号証)。

この点、能川元一意見書(甲121)※注も、パラオ挺身隊(甲122)を例にとり、挺身隊が国家総動員法と直ちに結びつくものではないことを説明している。※注=能川元一氏は哲学者、近現代史研究家。慰安婦問題をめぐる右派の言説と西岡氏の主張に関する陳述書を第13回口頭弁論で提出した

また、韓国においても、たとえば、前記1946年5月12日付けソウル新聞(甲160)は「今度の戦争中…この地の娘たちを女子挺身隊または慰安婦という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実」という表現をとり、強制的連行の場合はもちろん、だまして慰安婦にした例についても「女子挺身隊」という語を使用している。この点、金学順の訴状には「朝鮮人女性については、国民登録されていなかった関係で、原則として、法律的に強制力を持つ徴用は行われなかった」との記載がある(乙22号証13頁)。

よって、1991年当時の一般読者の理解を基準としてみれば、原告の記事中「女子挺身隊の名で連行」という記載を「国家総動員法に基づく法的強制に基づく連行形態」を示したものと読む余地はないのであるから、原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえず、当該事実は証明されない。

エ■さらに、被告西岡は、「挺身隊の名で連行」という表現と「だまされて慰安婦にされた」という表現とが矛盾しているとも主張する(被告西岡本人調書5頁最終行)。

しかし、92年1月5日発行月刊宝石記事(乙10)によれば「(金学順は)十七歳のとき、養父は『稼ぎにいくぞ』と、私と同僚の『エミ子』を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満州のどこかの駅でした。(中略)養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」というのであるから、金学順は、最初「稼ぎにいくぞ」と誘われ、中国に向かったところ、どこかの時点で養父と引き離され、最後には日本軍に強制連行され、閉じ込められたと証言していると理解される。

そうすると、最初に「そこに行けば金が稼げる」と声をかけられた点を捉えて「だまされて慰安婦にされた」と表現することも可能だし、養父と引き離され日本軍に強制連行された点を捉えて「挺身隊(=慰安婦)の名で連行され」と表現することも可能であるから、「だまされて慰安婦にされた」という記載と「挺身隊として連行された」という記載は、なんら矛盾するものではない。
よって、この点を主張しても、①原告の記事が金学順の証言と異なるとはいえない。

オ■以上からすれば、❶によってはそもそも①原告の記事が金学順の証言と異なることが証明されておらず、まして、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたとも、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機に基づいて記事を書いたともいえないから、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」との事実は証明されない。


原告最終準備書面p62~71
❶金学順が述べていない経歴を付加して記事に書いたとする点
相当性の検討

ここで、相当性の対象は、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」ことであり、具体的には、①原告の記事が金学順の証言と異なること、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、③原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機に基づいてあえて誤った記事を書いたこと、の3つを信じるについて相当の理由があったということでなければならない。

相当性の抗弁が認められるためには「信頼すべきところから材料を入手したことと、その真実性について合理的な注意を尽くして調査検討したことが不可欠である」(潮見桂男「不法行為法Ⅰ【第2版】」2009年 181頁 甲173)。したがって、相当性の抗弁を主張する者は、執筆時に必要な調査検討を尽くした事実を具体的に主張・立証しなければならない。相当性の判断基準時は行為時であり(前記・最判平成14年1月29日判時1778号49頁)、調査検討活動の相当性の判断要素としては、「取材の端緒、取材先、取材方法、取材内容、取材の結果及びその評価の諸点において相当性があったかどうかを判断すべき」である(東京地判平成4年7月28日判時1452号71頁)。相当性判断の判断基底(判断資料)には、取材以外の要素も資料となり、行為者が、一般人では知り得ないが、自らが特に知っている事情があればそれは相当性判断の基礎資料となる。特に、専門家の場合、特段の専門的知見を有していれば、それも判断資料である。

相当性判断は通常は一般人を基準とすることになるが、行為者が専門家の場合、当該分野の一般的な専門家を判断基準主体とするべきである。本件についてみれば、被告西岡は「慰安婦」被害、挺身隊問題を専門分野とする専門家なのであるから、一般人よりも高度な注意義務を課されるというべきである。


ア■①原告の記事が金学順の証言と異なるといえるかどうかについて、被告西岡がなすべき取材内容、取材先として重要なのは金学順の証言テープの検討、及び金学順本人への取材である。被告西岡は、これらの取材から、金学順が証言テープの中で「挺身隊」なり「連行」なりという表現を使ったのかどうかを確認すべきであった。ところが、被告西岡は、金学順の証言テープを聞いていないし、1992年に韓国に行って梁順任に面談していたのも拘わらず、挺身隊問題対策協議会に行くなりして、問題のテープを確認する努力自体していない。
よって、この点から、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性が否定される。

イ■次に、被告西岡にとって可能な調査としては、1991年当時の韓国メディアの報道内容の確認があった。この点、被告西岡は韓国語が堪能であり、当時の東亜日報(甲20)、中央日報(甲21)といった新聞記事を確認することは容易であった。金学順自身が「強制的に」慰安婦にされたと述べていたKBSテレビのニュース動画(甲109、110)を視聴することも、極めて簡単なことであった(なお、このニュース動画自体は広くインターネット上に流通している。)。これら韓国メディアの報道は、金学順自身が「挺身隊」という表現を使用していたことを伝えていた。
もし被告西岡がこれら韓国メディアの報道を確認すれば、金学順自身が「挺身隊」「連行」という表現を使用していたことを知ることができたし、それは容易なことであった。にもかかわらず、被告西岡は、これらの確認作業を怠ったというほかない。
よって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

ウ■さらに、被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を認識していた(甲3号証49頁、西岡陳述書4頁)。
また、被告西岡は、金学順自身が「挺身隊として連れて行かれる」(甲148)、「『女性は挺身隊として強制連行されてしまう』と言われており」(甲149)と述べていた事実も知っていたと認めている(被告西岡本人調書28~29頁)。それどころか日本の植民地時代の朝鮮では、「若い女性を挺身隊として慰安婦狩りをするという悪い流言飛語が広まって」いたために、その誤解を解くようにと朝鮮総督府が指示した資料の存在にも言及した(同頁)。被告西岡は、「女子挺身隊として連れていかれる、連行される」との表現が、韓国で一般的に用いられていたことも認めている(被告西岡本人調書29頁)。
前記のとおり、相当性判断の判断基底(判断資料)には一般人では知り得ないが、被告自らが特に知っている事情も含まれ、特に、専門家の場合、特段の専門的知見を有していれば、当然ながらそれもまた判断資料である。被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を特に認識していたという事情があるから、この事情は相当性判断の判断基底(判断資料)である。
被告西岡は、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を、本件記事執筆時に認識していたのだから、金学順がテープの中で「挺身隊」「連行」という表現を使ったことを容易に知ることができたのであって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

エ■元従軍慰安婦金福童の証言集(甲146・138~139頁)には「挺身隊(テイシンタイ)に娘を送るので出しなさい」と命令され連行されたところ、慰安婦にされてしまったとの証言がある。金福童は、現在もソウルの日本大使館前で毎週水曜日に開かれている「水曜デモ」に参加し続けるなど、慰安婦問題に関心を持っていれば誰でも知っている元慰安婦である※注。金福童証言集を被告西岡は韓国語原文で読んだと述べている(西岡調書30頁)。この証言集の上巻については、被告らから証拠として提出されている(乙19)。被告西岡はこの金福童証言について、「ちゃんと余り読んでないです」(被告西岡本人調書31頁)とも弁明したが、少なくとも「ざあっと見た」(同頁)ことは自認しているから、金福童の上記証言についても知っていた。※注=金福童さんはことし1月に死去した
被告西岡は、金福童の上記証言からも、韓国において「挺身隊」と「従軍慰安婦」が「混同」されて使われていた事実を本件記事執筆時に認識し得たといえるのであるから、金学順がテープの中で「挺身隊」「連行」という表現を使ったことを容易に知ることができたのであって、この点からも、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについての相当性は否定される。

オ■被告西岡は、法廷で「その後この後で金学順さんと名前が明らかになりますが、この方が韓国の新聞や訴状や、あるいは挺対協が出した証言集や運動体の方がインタビューした月刊誌の証言などで、一度も女子挺身隊の名で戦場に連行されたと言っていないということがわかって、これは大きな誤報ではないか」と思ったと供述した(被告西岡本人調書4頁)。
しかし、すでに述べたとおり、原告記事A(甲1)の記載中、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」という部分には、括弧書きがない「地の文」(発言の引用以外の部分)であって、金学順の発言をそのまま引用した記述でないことは文面上明らかであり、当該記載は、金学順の立場なり境遇なりを、原告が、原告なりに要約して表現したものに過ぎないことは記載上極めて明白である。
そうすると、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないとしても、一般読者を基準にして、直ちに①原告の記事と金学順の証言が異なることにはならないことは、原告記事Aを読めば一目瞭然である。
したがって、仮に金学順がテープの中で「挺身隊の名で戦場に連行され」というそのままの表現を使っていないと信じたとしても、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについて相当性はない。

カ■被告西岡は、女子挺身隊という表現は「国家総動員法」による強制連行を意味するものと考えたとも主張する(被告西岡本人調書6頁)。
しかし、原告の記事Aには「だまされて慰安婦にされた」と明記されていること、記事Bはさらに詳しく慰安婦になった過程が記されていること、これらを読めば国家総動員法による連行ではないことは誰の目にも明らかであり、被告西岡はそのことを知り又は知り得たのであるから、被告西岡が女子挺身隊という表現を「国家総動員法」による強制連行の意味だと信じたとしても、その点について相当性は認められない。
さらに、被告西岡は、専門家である以上、女子挺身勤労令の公布以前より政府が「『女子勤労挺身隊』を自主的に編成させて、女性の根こそぎ動員を図った」(乙22)こと、「労働力動員の一環としての女子挺身隊も、だからはじめは法令化され」なかったこと(甲123)を当然知っていたし、「第145号」(甲168、169)の「女子挺身隊、前線へ」という映像も「NHKアーカイブ戦争証言」(甲167号証)で簡単に視聴できるのであるから、被告西岡も知り又は知ることが容易であった。そうだとすれば、被告西岡は慰安婦問題の専門家として、「女子挺身隊」という語が自主的に編成される労働力動員の形態を示す語として国民に定着していたこと、したがって、91年当時の読者を基準とすれば、一般的に、「女子挺身隊の名で連行」と表現したとしても国家総動員法に基づくものとはいえないことを当然知り又は知るべきであったのであるから、被告西岡が女子挺身隊という表現を「国家総動員法」による強制連行の意味だと信じたとしても、その点について相当性は認められない。

キ■以上のとおり、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについて相当性は認められない。
また、仮に、被告西岡が①原告の記事が金学順の証言と異なると信じたことについてなんらかの理由があるとしても、被告西岡が②原告がそのこと(原告の記事が金学順の証言と異なること)を知りつつあえて記事を書いたと信じたことや、③原告には義母の裁判を有利にするという悪しき動機があり、それに基づいて記事を書いたと信じたことについて相当性が認められる余地は全くない。
けだし、すでに述べたとおり、91年当時の日本の新聞では、慰安婦にされた女性の境遇について、「『女子挺身(ていしん)隊』の名で日本軍の従軍慰安婦として各地の戦場に送られた」(甲174号証)、「『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた」(甲175)、「『挺身隊』の名のもとに従軍慰安婦として戦場にかりだされた」(甲18)、「『女子挺身隊』の名のもとに…強制徴発されて戦場に送り込まれた」(甲19)、「女子挺身隊のうち『慰安婦』として戦地に送られた」(甲24)、「女子挺身隊の名で動員され、一般勤労のほか、多くが慰安婦とされた」(甲25)、「『女性挺身隊』として強制連行」(甲68)等と表現するのがごく普通であったのであり(被告西岡もそのことを当然知り又は知り得た)、これらとほとんど変わらない表現(「女子挺身隊の名で連行」)があるというだけで原告記事Aの記載に特殊な意図(上記②③)があると推論することはあまりにも不合理で根拠を欠き、言いがかりとしか言いようがないからである。
とりわけ、原告記事Aの直前の91年7月31日朝日新聞(甲175)の記載(「『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦」)や直後の91年12月3日付け読売新聞(甲68)の記載(「『女性挺身隊』として強制連行」)は、「女子挺身隊の名で連行」という原告記事Aの表現とほとんど変わらない。それなのに、あまりにも些細な表現の違いを捉えて「揚げ足」をとり、原告についてのみ、記事の誤りを知りつつあえて書いたとか、義母の裁判を有利にする動機に基づいて記事を書いたこと等と邪推することは、およそ合理的理性の範囲を超えているとしかいいようがない。
それでも、被告西岡において、原告が記事の誤りを知りつつあえて書いたとか、義母の裁判を有利にする動機に基づいて記事を書いたこと等を信じたことについて相当な理由があるといえるためには、相当入念な調査検討が不可欠だったはずである。ところが、被告西岡は「原告の義母が遺族会の理事であった」という情報のみで、他の調査・検討をすることなく、②③の事実があったと決めつけているのである。これでは調査・検討の義務を果たしたとはいえず、相当性の抗弁が成り立つ余地がない。

ク■よって、前記①②③のいずれにも相当性は認められないから、被告西岡が❶の事実から「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」と信じたとしても、それについて相当な理由があったとはいえない。


--------------------- 第2回 了 ---------------------

次回以降の内容

20日▼第3回 東京判決の注目点3
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討
「植村氏は金学順さんが述べた重要な経歴に関する事実を書かなかった」とする点について

21日▼第4回 東京判決の注目点4
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討
「植村氏が悪しき動機に基いて記事を書いた」とする点について

22日▼第5回 東京判決の注目点5
原告植村隆氏の最終意見陳述(2018年11月28日)

断たれた夢/激しいバッシングの中で/裁判官の皆様へ