2019年11月15日金曜日

道新に映画「標的」

植村隆さんの裁判の日々を追う映画「標的」が11月14日付の北海道新聞(夕刊、芸能文化面)で紹介されています。西嶋真司監督のインタビューとともに、映画の一場面として植村さんが韓国のナヌムの家を訪れて李玉善さんと対面する写真も掲載されています。植村さんの写真が地元紙道新に載るのは2014年に植村・北星バッシング事件が起きて以降、おそらく初めてといわれています。
※記事PDF こちら

2019年11月7日木曜日

重要証拠解説その3


 「挺身隊」呼称表記に関する証言・意見・記述 


西岡力氏が何と言おうと、「女子挺身隊」「戦場に連行」は、植村氏の記事だけではなく、韓国紙も日本のメディアも、そう書いていた。金学順さん自身もそのように語っていた


甲211の表紙(左)と甲212の扉頁(右

植村氏が書いた記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という記述は、西岡氏が植村記事を「捏造」と決めつけた根拠のひとつだった。
西岡氏はこう書いている。《記事のなかで植村氏は、はっきりと強制連行の被害者として金氏を紹介している。しかし、金氏自身は「女子挺身隊として連行された」などとは一度も言っていないのである。これは悪質な捏造ではないか。》(「中央公論」2014年10月号)
これに対し、植村弁護団は一審で多数の証拠を提出し、こう主張した。

▽女子挺身隊あるいは挺身隊という呼称は、韓国社会では従軍慰安婦をさすものとして用いられていた
▽日本のメディアでも、「挺身隊の名で」「挺身隊の名の下に」などという表現は定着していた
▽金学順さん自身も「挺身隊だった」と記者会見や取材などで語っている

植村氏と西岡氏の主張は裁判で真っ向から対立した。ところが一審判決は、西岡氏の主張を認めた。「植村が、意図的に、金学順が女子挺身隊として戦場に連行されたとの、事実と異なる記事を書いた」という事実は、「その重要な部分について真実性の証明があるといえる」という判断だった。
この判断を植村弁護団は控訴にあたって強く批判した。控訴理由書の第7項(174~198ページ、「『女子挺身隊』との表記」に関する免責事由)でその理由を詳細に論述した上で、「(真実性を)判示した部分には、重大な事実誤認があり、判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、取り消されるべきである」と主張した。
今回提出された証拠のうち次の4点は、この主張をさらに補強し裏付けるものである。

▽京郷新聞元記者の陳述書(甲209)=金学順氏の「挺身隊」「キーセン学校」発言についての証言
▽和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)=慰安婦の定義、「挺身隊」呼称の経緯、植村攻撃についての意見=編注1
▽冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」(甲211)=関東軍では「特別女子挺身隊」と呼んでいたとの証言
▽書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」(甲212)=終戦直後に設けられた進駐軍施設を「挺身隊」と呼んだ関係者の証言

控訴審第1回口頭弁論(10月29日)に提出された「控訴理由補充書(1)」はその第4項「『女子挺身隊』との表記に関する免責事項」で、各証拠のもつ意味をつぎのように説明している。以下に、原文を引用する。(控訴人とあるのは植村氏、被控訴人は西岡氏を指す)


京郷新聞元記者の陳述書(甲209)
韓国・京郷新聞の韓惠進・元記者は、1991年8月14日、金学順氏がソウル市内で初めて「挺身隊だった」と自ら名乗り出た記者会見を取材した記者のうちの一人であり、陳述書において、「金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました」と明確に証言している。金学順氏本人が従軍慰安婦の意味で「挺身隊」と述べていた事実に関してはすでに多くの証拠(甲20、21、50、112=編注2)を提出しているが、この事実をさらに裏付けるものである。
韓惠進・元記者は、控訴人が記事Aで書いた「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」との記述について、「なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります」と述べており、記事Aにおいて被控訴人西岡が問題としている記述が、新聞記事としておかしな表現にはあたらず、「捏造」と非難されるような表現ではない事実を裏付けるものである。
また、「金学順氏が慰安婦にさせられた経緯」に関する免責事由に関することであるが、韓惠進・元記者は、金学順氏が平壌妓生検番に通った話を記者会見記事に書いた理由について、「検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います」と述べている。ここで韓惠進・元記者が述べている妓生検番とは妓生学校のことだと思われるが、金学順氏は、妓生学校に通った事実について、当初、自らすすんで話していたわけではなく、記者から質問されて初めて答えた事実であるから、記者会見よりも前に録音され控訴人が聞いた録音テープにおいて、金学順氏は妓生学校に通った事実を語っていなかったことが容易に推測される。
※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)
今回、控訴人は、歴史学者であり、アジア女性基金において呼びかけ人、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事を務め、2005年から07年には専務理事、事務局長を務めた和田春樹・東京大学名誉教授の意見書を提出した。この意見書において、和田名誉教授はまず、アジア女性基金と日本政府が協議の上定めた慰安婦の定義に触れ、「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」と述べている。
河野内閣官房長官談話とこの定義をもとに、日本政府は、アジア女性基金の取組みを中心として、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗及び小泉純一郎の各内閣総理大臣の時代に、元慰安婦に対する償い事業(償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援300万円相当の支払及び内閣総理大臣が自署したお詫びの手紙の交付)を行ってきたのであるが、河野内閣官房長官談話は、現在も外務省ホームページに掲載されている慰安婦問題に対する日本政府の公式見解である。和田名誉教授の意見書を理解する一助として、同談話の一部を以下に引用しておく。(掲載略)
ちなみに現在の安倍政権下においても、2015年(平成27年)12月28日に日韓両政府の合意が発表された際、岸田外務大臣は韓国に対して「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安部内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と表明し、河野談話の内容を継承している。
和田名誉教授は、意見書において、2007年(平成19年)6月14日、日本の団体がアメリカの新聞ワシントン・ポストに掲載した意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃を受けたと述べている。
この広告は、櫻井よしこ氏らが執筆し、被控訴人西岡らが名前を連ねたもので、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。この定義は、まさに原判決が認定した慰安婦の定義と同義であり、日本政府が慰安婦問題における償い事業のために設立したアジア女性基金の定義と真っ向から衝突する内容である。
このことからも、原判決が、公知の事実ともいうべきアジア女性基金における慰安婦の定義を無視して、櫻井よしこ氏や被控訴人西岡らが主張している定義を無批判に受け入れ、控訴人の主張を退けようとした姿勢がうかがわれるのであり、原判決は取り消しを免れないのである。
また和田名誉教授は、意見書において、「日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった」と述べるとともに、慰安婦を「挺身隊」と呼ぶことの歴史的な経緯を説明している。
そして、「慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたとう面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである」とされる。
和田名誉教授は、意見書の最後にこう書いている。「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」。

冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」の記述(甲211)
1918年生まれで関東軍司令部の内務班に所属していた山岸益栄さんの証言が掲載されている。山岸さんは、慰安所には憲兵が深く関わっていたことを明かすとともに、そこでは慰安婦のことを「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼んでいたと証言している(同冊子16頁)。

書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」の記述(甲212)
敗戦直後、設立された特殊慰安施設協会(略称R・A・A)の話が「進駐軍慰安作戦」と題して掲載されている。特殊慰安施設協会は、日本を占領する連合国軍兵士による一般女性への強姦や性暴力を防ぐために内務省警保局が全国の警察に指示し、政府金融機関の融資を受けてつくられた組織であり、東京料理飲食業組合をはじめとする接客業者の協力を得て慰安婦を集めて慰安施設を設置した。
同書籍147頁では、特殊慰安施設協会の鏑木清一情報課長が、慰安婦のことを正式には「特別女子挺身隊員」と呼んでいたと証言している。また同課長は「挺身隊員ですね。戦争中の意気ごみと同じ気分だったのです。」とも証言している。

以上から、戦時中の関東軍司令部において、慰安婦を指して「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼び、敗戦直後にも日本国内で占領軍向けの慰安婦を指して「特別女子挺身隊」と呼んでいた実例が明らかとなった。
「売春」を「援助交際」と言い換えるように、日本語において、口にすることが憚られる表現を婉曲的な表現に言い換える場合があることは経験則上認められることであり、「慰安婦」を「女子挺身隊」「挺身隊」という婉曲的な言葉に言い換えることがあったことは経験則上も十分に推測できることである。
つまり、「女子挺身隊」という言葉は、戦時中及び敗戦直後の時期に慰安婦を指す意味で使われていた実例がある以上、被控訴人らが主張し原判決が認定する女子挺身勤労令により定められた工場などで労働に従事する女性としての意味だけではなく、「慰安婦」の意味で使われることがあったということである。
したがって、真実性の抗弁の判断において、慰安婦を指す意味で「女子挺身隊」という表現が使われたとしても、「捏造」と非難できるような誤りではないことが明らかになったといえる。
(転載おわり)

※編注1
和田氏の同文の意見書は札幌控訴審でも提出されている。抄録と解説はこちら
※編注2
甲20=1991年8月15日付、東亜日報の記事
甲21=同日付、中央日報の記事
甲50=同年8月18日付、北海道新聞の記事
甲112=東亜日報・李英伊記者の証言(甲20関連※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

右ページ10行目に「関東軍戦時特別女子挺身隊」とある
(『軍隊慰安婦―元日本兵ら10人の証言』)

左ページ最終3行に「挺身隊員」の記述がある
(『新篇私の昭和史4 世相を追って』)


韓国紙2記者の証言

 京郷新聞と東亜日報 

「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだった(韓記者)

私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました(李記者)


植村氏の記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との記述を韓国紙の記者たちはどう受け止めているか。金学順さんの記者会見(1991年8月14日)を取材した記者、韓恵進さん(京郷新聞)と李英伊さん(東亜日報)は、弁護団の求めに応じて陳述書を提出した。

韓恵進さんが書いた記事の見出しは「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」だった。韓さんは陳述書で、金学順さんが何回も「挺身隊」と語っていたこと、妓生のことは金さんがすすんで話したのではなく質問に答えて話したこと、当時は「挺身隊」と「慰安婦」とが混用(混同して使用)されていたこと、などを明らかにしている。
韓さんは1984年から京郷新聞記者、98年に記者を辞め、外資系企業を経て、2015~17年、札幌の韓国総領事館で総領事を務めた。

李英伊さんは、記事で金学順さんの発言を「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた」「挺身隊自体を認めない日本政府」などと書いた。陳述書で李さんは、カギカッコで括った発言は取材相手が言ったとおりに書くものだと、明言している。
李さんは1988年から2005年まで東亜日報記者をした。96年から1年間、慶応大に語学留学、2000~03年に東京特派員を務め、現在医師。 

韓さんの陳述書は東京、札幌両訴訟の控訴審に、李さんの陳述書は同一審に提出された。陳述書は2通とも日本語で書かれた。その全文を以下に紹介する。


■韓恵進さん元京郷新聞記者の陳述書

1 私は、1984年から98年まで韓国の京郷新聞で新聞記者をしておりました。新聞記者を辞めてからは、外資系企業に就職し、その後、政府で働くようになりました。2015年から2017年までは、駐札幌韓国総領事として北海道に赴任しました。したがいまして、日本語はそれなりに話したり書いたりすることができます。私は、今回の裁判で問題になっている植村隆さんの記事について、1991年当時は知りませんでした。私が知ったのは植村さんの裁判が始まった後です。

2 私は、199114日、ソウル市内で金学順さんが行った記者会見を京郷新聞記者として取材し、記事を書きましたので、そのときのことも含めて慰安婦問題について、以下のとおり、陳述いたします。一言ことわっておきたいのですが、この陳述書は元外交官としてではなくて、元ジャーナリストとしての経験や意見に基づいて陳述しいることをご理解頂きたいと思います。

3 まず、199114日、私が金学順さんを取材したときのことを述べたいと思います。後で述べるとおり、韓国では、当時、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉が「従軍慰安婦」「慰安婦」と同じ意味で使われていましたので、金学順さんは記者会見で「私は挺身隊だったと言っていました。また、金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました。

4 また、私は、その記者会見の記事のなかで、金学さんが平壌妓生検番に通った話を書いています。この検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います。妓生は売春婦ではありませんが、貧乏な家の人が多く、あまり他人に自慢する話ではないのに、勇気を持って正直に話してくれており、金学順さんの話は信頼できると思ったので、あえて書いたのだと思います。妓生の経歴と慰安婦にされたこととの間にはなんら関係がありません。

5 韓国において、慰安婦問題は、金学順さんが記者会見する以前にも、主婦向けの雑誌などで匿名の手記や海外からのルポルタージュとして取り上げられることが時々ありましたが、多くのメディアから本格的に注目されるようになったのは、やはり金学順さんが実名で記者会見をしてからだと思います。女性問題に対する関心がいまほど高くはなかったのです。

6 また、当時は、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉と「従軍慰安婦」「慰安婦」という言葉が混用されていました。慰安婦問題とそ被害者を発掘していた市民団体の名前も「挺身隊問題対策協議会」でした。それに対して、勤労女子挺身隊の被害者の側から、そのような言葉の使い方は、自分たちが「慰安婦」だったと誤解されることになりかねないから呼び方を変えた方がよいとの声があがるなどしたこともあって、徐々に「慰安婦」という言葉が浸透していったと覚えています。

7 そして、最初は「従軍慰安婦」という呼び方が主流でしたが、従軍記者などとは違って、慰安婦の場合には自発的な参加ではなくて強制的に連行されたのだから、「従軍」の表現は不適切だという声が大きくなり、「日本軍慰安婦」という言葉が使われるようになりました。

8 さらに、慰安婦<comfort woman>と言う暖昧な表現よりは、「戦時の性奴隷」という表現の方が明確だと指摘されました。特にアメリカのヒラリークリントン国務長官が<sex slave>の言葉を公式的に使ったことによって、この性奴隷の表現が広く使われてきました。しかし、慰安婦の被害者の中には、性奴隷という表現に心的な負担を感じる方もいらっしゃるので、両方の言葉が状況によって混用されることになったと思います。

9 日本帝国主義による植民地統治から解放されて40年も経ってから、慰安婦問題は金学順さんの記者会見以降、社会に広く問題として捉えられるようになり、それから20年のうちに社会の認識が高くなり、さらに議論が活発になって、言葉遺いも「女子挺身隊」「従軍慰安婦」「日本軍慰安婦「戦時の性奴隷」の順序で定着されていったと思います。

10 以上のとおりですので、1991年当時、韓国と日本のジャーナリストの中で「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだったと確信しています。

11 植村さんが書いた記事のリード部分にある「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という表現が問題とされているそうですが、なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ  涙の暴露」という同じ表現があります。
2019年9月15日 

■李英伊さん元東亜日報記者の陳述書

1 私は、現在医師をしていますが、1988年から2005年まで韓国の東亜日報で新聞記者をしていました。1996年から年間慶応大学に語学留学した後、2000年から2003年まで特派員として東京に住んでいましたので、日本語はだいたいわかります。199114日、元従軍慰安婦の金学順さんがソウル市内で初めて記者会見したとき、私はその会見場で金学順さんを実際に取材しましたので、そのときの様子をお話しします

2 私が書いた新聞記事(甲20) を読むと、まず行目に金学順さんが話したカギ括弧中の台詞として「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私がこうやってちゃんと生きているのに、日本は従軍慰安婦を連行した事実がないと言い、韓国政府は知らないなどとは話になりません」と書いています。また、終わりの方では、カギ括弧の中の台詞として「挺身隊自体を認めない日本を相手に告訴したい心境」「韓国政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして日本政府の公式謝罪と賠償を受けるべきだと書いでいます。

3 カギ括弧の中は、紙幅の関係から一部を省略することはあっても取材した相手が言ったとおりに書くものですから、取材対象者が言っていないとを書くことは基本的にはあり得ないことです。ですら、当時、金学順さんが記者会見で「挺身隊」という言葉を使ったのは間違いないことです。

4 当時の韓国では、挺身隊と慰安婦は同じ意味の言葉として使われていましたから、挺身隊と書かれた記事を読んだ場合に勤労挺身隊のことだと思う人は少なかったと思います。私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました

5 すでに述べたどおり、私の記事では、金学順さんの台詞として「挺身隊」 という言葉が回出てきますが、一番最初だけ「挺身隊慰安婦」という書き方をしています。これがどうしてなのか自分でもよく覚えていないのですが、ニつの可能性が考えられます。

6 の可能性は、デスクが書き直しだ可能性です。当時、私は生活部で女性問題を担当していましたが入社年目の若い記者でしたので、取材を終えて本社に戻ってから、この重要な記事の内容や書き方についてデスクや先輩記者3、4人と議論したことを覚えています。その議論のなかで、私が「挺身隊」とだけ書いていた文章を先輩のデスクが正確を期して「挺身隊慰安婦」と書き直した可能性があります。また挺身隊のくだりの後に従軍慰安婦という言葉が出てきますので、前後の文毒のつながりをよくするためにデスクが書き直したのかもしれません。

7 もうーつの可能性は、金学順さん自身が記者会見で実際に「挺身隊慰安婦」と話したので、私がその通りに書いた可能性です。

8 どちらにしろ、記者会見で金学順さんが使ったのは「挺身隊として苦痛を受けた私もしくは「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私という言い方であつて、「慰安婦として苦痛を受けた私という言い方ではありませんでした。

9 また金学さんは記者会見で、16歳になったばかりの私を強制に連れて行ったと語っていました。このときのKBSニュー久映像をYouTubeで見ましたが、私も映っでいます。顔は見えませんが赤い服を着て金学順さんの隣の席に座っているのが私です取材しながら涙がこぼれたことを覚えています。
2017年11月13日

2019年11月6日水曜日

重要証拠解説その2


 妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料 
 妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料 

キーセンは売春婦ではなかった!

朝鮮総督府が1932年に発行した『生活事情調査報告書 平壌府』には当時の妓生の学校での様子や居室での生活の写真が多数掲載されている (写真下)


平壌の妓生学校の整列風景(写真上左)と合唱の練習(右)
居宅で書を練習する妓生(写真下左)と居宅の様子(右)
植村氏の記事を「捏造」と決めつけた西岡力氏の根拠のひとつは、「キーセンに身売りされた」という金学順さんの経歴を植村氏が書かなかったことだという。その事実を裁判所は認定し、西岡氏がそう信じたことに相当の理由がある、と判断した。しかし、裁判所のこの判断の根底には「キーセンは売春婦だ」という思い込みや事実誤認があるのではないか。


キーセンは、公娼制度の下で性売買を業とした娼妓とは異なり、歌や踊り、書など諸芸に秀でた芸妓として遇される存在だった。中には歌謡界のスターになった人もいる。平壌にあった妓生養成所は権威のある学校だった。植村弁護団は当時の社会事情や世相が克明に記録・記載されている証拠資料をもとにして、西岡氏らの「キーセンは売春婦」説の虚妄をきっぱりと否定した。証拠資料の収集と提出にあたっては、朝鮮近現代史の研究者らの協力と助言があった。これらの証拠は、「証言録音テープ」とともに裁判の最終局面で西岡氏らを痛撃する一打となった。
以下に、控訴理由補充書(1)が詳しく論述した第3項(16~28ページ)の全文を掲載する。見出しとも原文のまま。(甲)数字は、証拠番号。

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第3 1935年当時の「妓生」という存在

1 問題の所在・「キーセン」は売春婦か
(1)原判決の認定の前提
控訴理由書でも指摘しておいたように、原判決は「裁判所認定摘示事実1」として、
 「原告が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いた」
と認定した。
この認定が根本的な誤りであることは控訴理由書において詳細に指摘したとおりであるが、原判決がこのような認定をするにあたって、ことによると「キーセン」=「売春婦」を指すかのような事実誤認が前提に存在していた可能性はある。
(2)本項の趣旨
そこで本項では、金学順が「身売りされた」とされる「キーセン」という存在がそもそも当時においてどのようなものであったのかを検討する。
また、現在判明している金学順の経歴と認識をもとにして,本当に金学順が「キーセンに身売りされた」と評価できるのか、そのことが「性を売らされる」ことになったとしてもやむを得ない境遇だったのかについて、検討することとする。

2 日本の「芸妓」と朝鮮の「妓生」
(1)「芸能人」としての妓生
この問題に関しては、すでに提出済みの甲52「Q4 金学順さんは妓生学校出身だから被害者ではない?」で触れられているところである。すなわち、金学順が「身売り」された当時の「妓生」というものは、「性を売る」遊女のような存在ではなかった。芸妓に秀でたエンターテイナー、現在でいう芸能人のような存在だったのである。
なお以下においては、原判決が認定した「キーセン」の意味と、実際の《キーセン》の意味するところが異なることを明らかにする趣旨で、これを「妓生」として表記する。

(2)金学順が「身売り」された時期
金学順は1922(大正11)年10月20日に出生し、満13歳のときに金泰元という人物の養女になるとともに妓生学校に通うようになった(甲148、1枚目・6~7枚目)。満13歳のときとは、すなわち1935(昭和10)年のことである。「月刊宝石」(乙10)の臼杵敬子の記事によれば、金学順はこのとき「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たと記載されている。すなわち、1935年当時の「妓生」が実際にはどういう存在だったのかが、ここでは問題となる。

(3)朝鮮における「妓生」=「芸妓」
妓生は「朝鮮王朝時代に官妓として、公的儀式や官庁の宴席で歌舞音曲を提供する女性」を指すものであり、「身分的には賎民であっても特殊技能」を有する存在であったとされている(甲52)。
1910(明治43)年の韓国併合後に、朝鮮総督府では日本の法制度に準じた法整備を行っている。その後の1916(大正5)年に発出された「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)の第1条には、「藝妓(妓生ヲ含ム以下同シ)」と定義されており、朝鮮における「妓生」の位置付けが日本での「芸妓」と同一であったことがわかる。

(4)日本での「芸妓」と「娼妓」の相違
そこで、「芸妓」と対比される存在である「娼妓」の位置付けが、まず「日本において」どのようなものであったのかを検討する。
日本の「娼妓」については1900(明治33)年に出された「娼妓取締規則」があり、「芸妓」については1904(明治37)年の「藝妓取締規則」が制定されている(甲202)。
この両者の最大の相違は、娼妓は登録前(第3条3項)のみならず登録後においても、「廰府縣令ノ規定ニ從ヒ健康診斷ヲ受クヘシ」(第9条)とされ、定期的な健康診断の受診が義務づけられていた点である。
警察署の指定した医師の診断を受け、「疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者」あるいは「傳染性疾患アル者ト診斷シタル娼妓」は、治癒したとの医師の診断書がなければ、業務を続けることが禁止されていた(第10条)。これに違反すると、「二十五圓以下ノ罰金又ハ二十五日以下ノ重禁錮」に処せられた(第13条第2号)。
これに対して「藝妓取締規則」には、このような健康診断に関する規定はない。芸妓には性売買が予定されていなかったので、健康診断を義務づける必要もなかったのである。

(5)朝鮮での「芸妓(妓生)」と「娼妓」の相違
これに対して、妓生について定めた朝鮮総督府における上記の「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)においては、「警察署長ハ藝妓又ハ酌婦ニ對し其ノ指定スル醫師又ハ醫生ノ検診ヲ受ケシメ又ハ健康診斷書ノ提出ヲ命スルコトヲ得」(第8条)として、芸妓(妓生)の健康診断に関する規定がいちおう定められていた。
この規定は日本本国の娼妓取締規則第9条に近い定めと言えるが、朝鮮では娼妓にのみ健康診断の実施について、さらに詳細な規定があった。
それが「娼妓健康診斷施行手續」(甲204)である。ここでは、警察署において娼妓の健康診断を担当する医師、場所と定期健康診断日を指定する(第1条)ものとし、娼妓の健康診断を慎重に実施すべきことを定めている。第2条では、受診していない者(1号「不参者」)や替え玉受診(2号「人違ノ有無」)がないかどうかまでチェックすべきと指示している。
さらに健康診断を実施した際には、「健康」「入院」「通院」「休業」「治癒」の5区分の分類を診断書に記載すべきものと定められている。
こうした健康診断の記録については、様式(雛形)まで詳細に指定され、また各警察署はその結果を警務部長に報告することとも規定されてある(第7条)。

(6)「妓生」に性売買の前提なし
このように朝鮮においても、芸妓(妓生)と娼妓とは明確に区別され、娼妓には詳細な健康診断の定めがあったが芸妓にはそうした規定がない。これは、芸妓にそもそも性売買が予定されていなかったことを示している。

3 芸能人としての「妓生」の活躍
(1)妓生出身の芸能人
朝鮮において芸妓すなわち妓生は性売買が予定されておらず、むしろ歌や踊りに秀でた芸人とでもいうべき存在であった。そのため、朝鮮においても1920年代にレコード産業や映画産業が発達してくると、メディアで広く知られる妓生出身の歌手や女優が活躍するようになる(甲52)。

(2)妓生「王寿福」の活躍
その代表例とされるのが、妓生出身の歌手・モデルである王寿福である。王は1917年に平安南道で生まれ、1928年に平壌の妓生学校に入学し、唱、琴、絵画、書道を習うが、特に書画に才能を発揮して、平壌名妓9人のうちの一人に選ばれたとされる。王は1931年に妓生学校を卒業して、2年後の1933年に妓生として本格的に稼働し始めた。
王はこの1933年にはレコードを吹き込み、妓生出身の歌手として活躍するようになる。曲は「古都の静閑」「人生の春」といったもので、当時の最高売上を記録したという。
1934年には京城(ソウル)の放送局でオーケストラの演奏のもとで独唱して、これが日本にも中継放送された。さらに1935年に全国巡回公演を成功させ、日本や中国でも公演して大スターになったとされている。絵はがきや絵画の題材としても売り出され、俳優としても新聞雑誌のモデルとしても大活躍していた。
王はその後、芸妓の籍を返上して、東京音楽学校で本格的に音楽を学んだ。朝鮮の伝統歌謡を西洋の唱法で歌い、話題になったという。

(3)王寿福の雑誌記事
このように世上に広く知られるようになった王寿福が、1934(昭和9)年11月4日の『週刊朝日』11月増大号で紹介されたのが、甲205の記事である。
右頁の見出しには「明麗! 朝鮮圓盤界のドル箱妓生」として紹介され、左頁の本文では本人の写真とともに「美貌と美聲と 王壽福」としてその活躍する記事が書かれている。
この週刊朝日の記事が1934年11月、そして王寿福のオーケストラ独唱が同じ年、さらに全国公演の実施が1935年である。そしてこの1935年に金学順は、妓生学校に通うようになっている。こうした人気者になる道も開ける進路として、金学順が将来に期待を持っていたとしてもおかしくない。

(4)妓生学校についての紹介
この当時に平壌にあった妓生学校について、朝鮮総督府が1932(昭和7)年に発行した『平壤府』という調査報告書は、次のように記述している(甲206)。

「妓生の養成
朝鮮人藝妓は妓生と稱するが、古來平壤は妓生の本場にして、歴史上有名なる妓生の輩出したことが尠なくない。京城に於ける妓生の中にも平壤出身のものが頗る多く、平壤は妓生の産地として夙に喧傳されて居る。現在平壤に於ける妓生には、箕城・大同兩券番の設けがあり、彼等は内地人藝妓の如く抱主に自由を束縛せらるゝことなく、大部分は自前にして、各自券番の組合員として、役員選擧、其他の發言權を有し、その自宅に於ける生活は概ね中流以上の堂々たるものである。一般に平壤の妓生は、容姿・技藝・客扱ひ等に卓越して居るが、これは妓生の養成方法の組織的なことにも大に原因して居ると思ふ。」(114~115頁)

(5)平壌にあった「妓生養成所」の実態
こうした指摘のうえでこの報告書では、当時の平壌の妓生学校がいかに優れたものであったかについて、「平壤箕城養成所規程要領」を紹介している。
教員としては学問のほかに「歌舞」、「雜歌」、「音樂」、「書畫」、「日本唄」などがあり(同115頁)、本格的な教育体制となっている。6項では、「本養成所に入らむとする者は普通學校第四學年修業若くは同程度以上の學力を有し身體發育完全なる者に限る」とされている(同116頁)。
さらにこの冊子では、わざわざ「妓生學校」の写真まで掲載して紹介していた(写真ページの78頁以下)。
このように妓生学校に進学できることは、当時の平壌においては権威のある進路であったと認識されていた。

(6)妓生学校についての金学順の認識
現に金学順は妓生と妓生学校への入学について、東京地裁での尋問に際して次のように説明している(甲148)。

 「厳しい入学試験がありましたので、かなり頭も良くないと入れませんでした。」(4頁)
 「歌も実際に歌わせて、かなり声も良くないと入学できませんでした。」(5頁)
 「この平壌の妓生というのは、伝統的に非常に誇り高いもので、そして韓国内でも非常に有名でした。だれでもこの妓生になれるわけではありませんで、賢くてそしてしっかりしていて、かなりの容姿端麗な、そういうところまで備えていなくては入れませんでした。」(5頁)
 「妓生というのは、官で主催する宴会とか、そして長官とかに呼ばれて、歌とか伝統的な歌舞、歌、踊り、時調とかそういったものを披露する、そういう役目でした。卒業のときは非常に厳しい実技の試験とかもありまして、それに合格しなければ妓生になることはできませんでした。妓生は非常に誇り高い存在でした。」(5~6頁)

(7)妓生学校進学は「身売り」ではない
妓生及び妓生学校に対する認識が、1935年当時には非常に権威のあるものだったことがわかる。この学校に進学できたことについて、金学順自身も誇りに感じていたことが明らかである。
このように金学順が1935年に妓生学校に進学したことは、当時の状況からすれば、性売買業に「身売り」されたなどと評価されるような内実のものではなかった。

4 40円は身売りの「前借金」ではない 
(1)問題の所在
この点に加えて、さらに金学順が「身売り」されたものとは考えられない事情がある。それは、「月刊宝石」(乙10)記事の「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たとの記述のうち、この40円という金額の問題である。
そもそもこの記事を書いた臼杵敬子自身が、この40円という記述の根拠について記憶していないという問題がある。今回発掘された録音テープにも、こうした「身売り」の話がなかったことはすでに述べてきたとおりである。

(2)低額すぎる前借金
その点は別としても、端的にいえばこの金額は、当時の本当の「身売り」の金額としては、あまりに低額に過ぎるのである。
この点については甲52でも同様の指摘がされている。
 「当時の物価でいえば四〇円は米一四〇キロに当たる金額で、現在の貨幣価値で換算して概算七万円から八万円にしかなりません。朝鮮における前借金の相場は一九二〇年代後半でも、日本女性は約一七〇〇円、朝鮮女性は約四二〇円となっています。」(38頁)
前借金の相場は、これによれば1920年代後半の時期でも日本人女性で約1700円、朝鮮人女性が約420円とされている。

(3)全借金額の平均
実際にも、1937年に内務省警保局が発行した『極秘 貸座敷ニ関スル調査 保安課』という資料がある(甲207)。ここに「第十五 娼妓稼業申請より廃業に至る迄の状況調」との項目があって、当時の娼妓の前借金の金額について調査結果が記載されている。
この資料の82頁の「六、前借金(含別、新借)完済に至る迄に要したる期間」との表によると、日本での前借金の額は750円~1860円という範囲であり、これを平均すると1212円となる。

(4)当時の物価からの推察
市井の研究者である白川忠彦の調査によると、1935年当時の白米の相場は、10㎏で2.4円であった(甲208)。40円という金額は当時の米170㎏程度の価値となる。
現在白米10㎏で4000円程度と考えると、当時の40円は現在の価格で6万8000円にしかならない。これは、「身売り」の金額としては明らかに低額に過ぎる。
(5)前借金と評価できない「40円」

このように、40円という金額が事実だったとするなら、これが「身売り」の前借金だったとは到底考えられないことになる。この場合に、40円という金額が実際に何であったのかまでは明らかではないが、少なくとも金学順の境遇について、これを「身売り」だと評価することはできない。

5 まとめ
(1)法制度上の「妓生」
以上に述べてきたとおり、金学順が金泰元の養子となって妓生学校に入学した1935年当時において、妓生は法制度上「芸妓」とされており、芸妓は娼妓と違って性売買が予定されていなかった。
日本においても朝鮮においても、芸妓と娼妓は明確に異なる職業として法律上で規定されており、性売買業をしていたのであれば特に重要というべき行政機関による健康診断の定めについても大きな差異があった。これは、「妓生」が性売買を前提とした制度でなかったことを示している。
(2)朝鮮社会における妓生の位置付け
また1935年当時において、妓生出身の王寿福がスターとされ、多数の絵はがきや絵画が発売されたり、雑誌の記事として取り上げられ、モデルとしてあるいは歌手として大活躍していた。このように知性と容姿の双方を備えた存在として妓生という仕事があり、実際にも朝鮮では養成所まで設置して妓生を育成していた。そうしたことがあったため、金学順も自己が妓生学校に進学したことに誇りを有していた。
この点でも、当時において妓生となることは、性売買業に「身売り」されることを意味するものではなかったのである。
(3)前借金ではない40円
さらに「身売り」の代金とされた40円という金額は、現在の通貨価値で7万円程度の金員に過ぎず、そもそも「身売り」の前借金と評価できるような額ではない。当時の相場は、日本人女性で1700円、朝鮮人女性でも420円程度であった。
40円はこれに比してあまりに低額すぎ、この点でも「身売り」の前借金と評価することはできない。
(4) 結論
以上の諸事情に照らしてみれば、1935年に金学順が養子となり妓生学校に進学したことをもって、これを「性売買業に身売りされた」と理解することは、明らかな誤りというべきである。このような誤った認識を前提として、本件事案の事実認定がなされてはならない。


『平壌府』から妓生の修養(右2点)と日常(左2点)

『平壌府』から妓生の舞踊(右2点)と居住ぶり(左2点)

『平壌府』から妓生学校の様子(4点とも)

週刊朝日1934年11月4日号表紙(上)と王寿福を紹介する記事(下)






2019年11月5日火曜日

重要証拠解説その1

金学順さんの「証言録音テープ」が証拠提出された東京控訴審の第1回口頭弁論(10月29日)では、ほかにも重要な証拠が多数提出された。金学順さんの「遺族会入会願書」と、戦前の韓国社会におけるキーセンに関する文献資料、「挺身隊」という呼称表記に関する証言・意見・記述などである。それらのもつ重要な意味を植村弁護団は「控訴理由補充書(1)」(同日提出)で詳しく説明し、一審判決が認定した事実が「真実とはいえない」ことの「確実な根拠・資料」である、と主張している。
「控訴理由補充書(1)」の記述に沿って、新提出証拠の内容詳細と意味を、3回連載で紹介する。


金学順さんの証言録音テープ(中央上)と遺族会入会願書(下)。
左は植村氏が1991年12月に書いた記事B、右は8月の記事A。


 金学順さんの証言録音テープと遺族会入会願書 

西岡氏の「捏造」説への重要な反証

録音テープに「妓生に身売りされた」との証言はない。
録音テープの内容と記事の内容は詳細に一致している。
遺族会入会願書の日付には重要な意味がある。
これらは、西岡が植村氏や遺族会の取材をきちんとしていれば知り得たことだが、西岡は最低限の取材も尽くさずに、思い込みだけで「捏造」と決めつけたのである。

編注】「録音テープ」「遺族会入会願書」「社内報告文書」について「控訴理由補充書(1)」が述べている部分(7~15ページ)を以下に抄録する。
書面中、控訴人とは植村隆氏をさす。(甲)数字は証拠番号を示す。一部割愛した部分がある。原文の小見出しは省略した。
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■金学順さんの証言録音テープ(甲196~199号証)
本年8月22日、控訴人が1991年に金学順氏の証言を直接聴取した際の「証言テープ」が、関係者宅から偶然発見された。この証言テープは、1991年11月25日、控訴人がソウルにおいて金学順氏に対する弁護団の聞き取りに立ち会った際、金学順氏の証言を録音したテープである。
テープを収録したのは控訴人本人であり、テープに収録された音声は、金学順氏と、聞き手の高木健一弁護士、通訳の臼杵敬子氏の3名のものであった。
記事Bの冒頭には「その証言テープを再現する」とあるが、ここにいう「証言テープ」が、今回発見された「証言テープ」である(なお、厳密にいうと、「証言テープ」の原本をダビングしたものである)。

「証言テープ」には「妓生に身売りされた」という証言がない。「妓生学校に通った」との証言もない。「妓生」という単語すら出てこない。つまり、金学順氏は、控訴人の前で「妓生に身売りされた」とは証言しなかったのである。
記事Bの冒頭には「その証言テープを再現する」とあるから、「証言テープ」にない証言が記載されているわけがない。記事Bに「金学順氏は妓生に身売りされた」との記載がないのは、金学順氏がそのように証言せず、したがって、「証言テープ」中にそのような証言がなかったために過ぎないことが明らかになった。
証言テープは、記事Bに関し、原判決のいう「控訴人が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実1)、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実2)が真実とはいえないことの「確実な資料・根拠」である。

それだけでなく、「証言テープ」の内容は、記事Bの内容と詳細に一致している。
別紙添付「記事・証言テープ対応表」のうち、「植村記事」の縦列は植村12月25日記事を73分割したもので、その横の「証言テープ」の縦列は73分割した植村記事の各記載に対応したテープ中の証言である。「反訳書頁」のうち、①②③は対応するテープのテープ番号であり、横の数字が日本語訳のページ数である。
たとえば、記事Bのうち、「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました」(⑥)という部分に対応するのは、証言テープ中、以下の部分である。

Q臼杵 どんなことが起こりましたか?
A金学順 はい、私はお金を稼ぐといえば、お金と言えばいつも、人の家の手伝いをして回り、お金をかせいでいたので、お金と言えば。その時は、何と言うか、部落で仕事を引き受けてくる人がそんな話をしたんです。そこに行きさえすれお金も稼げるし、後々立派になれると。良くなると、そう言いながら、そこに行けと言って。
Q臼杵 どこに行けといいましたか?
A金学順 その時は何と言ったか。何と言ったか、それをはっきり覚えていません。いまでは。
Q臼杵 誰がそう言ったんですか?
A金学順 その、仕事をしている人たちです。部落の仕事をする人たちです。
 (以上、テープ①、日本語訳6頁)

Q臼杵 ところで、話をした人は日本人だったと?
A金学順 その人に話をした人が日本人だったのかは知りません。ところで、私に話をしたのは朝鮮人でした。いまで言えば、区長のような人です。部落の仕事をする人。
Q臼杵 日本人が言った?
A金学順 村の里長、面長、そんな人です。
Q高木 口長は日本人? 朝鮮人?
A金学順 朝鮮人。
 (以上、テープ①、日本語訳7頁)

このほか、記事Bを73に分割してそれぞれ証言テープを比較してみたが(別紙添付「記事・証言テープ対応表」参照)、分割された記事Bの記載は全て証言テープ中に根拠のある記載であることが分かる。控訴人は記事Bの冒頭で「証言テープを再現する」と断っているとおり、証言テープ以外の情報源から情報を得ていないのである。 編注=対応表PDF

この点からしても、記事Bに「金学順氏は妓生に身売りされた」との記載がないのは、「証言テープ」中にそのような証言がなかったために過ぎないことが明らかである。したがって、控訴人が悪しき意図をもってあえて事実と異なる記事を書いた事実はないから、記事Bに関し、「控訴人が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実1)、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実2)が真実とはいえないことがより明白となる。
この点からしても、証言テープは、記事Bに関し、裁判所認定摘示事実1及び2が真実とはいえないことの「確実な資料・根拠」である。

■聞き取りに関する社内報告文書(甲200号証)
なお、控訴人の所属していた朝日新聞大阪社会部は、被控訴人西岡による記事「慰安婦問題とは何だったのか」(文芸春秋92年4月号)の批判を受け、1992年3月11日付けで「『文芸春秋』記事について」と題する社内文書を作成しているが、ここには以下の記載がある。
   
「この記事について西岡氏は、二番目の「」、どうやって慰安所に行ったかの部分について、『それまでの韓国の報道と違う。韓国では、キーセンに売られていったと報道されている。植村記者は、それを書いていない』と指摘していますが、金さんは、この聞き取りの時には、この点は話していません(テープもきちんと保存しています。弁護団がつくり、マスコミにも配布した聞き取り要旨にもそうなっています)」

ここで「この聞き取りの時」とあるのは1991年11月25日のソウルにおける聞き取りのことを指しているから、新聞社社内の報告文書では、金学順氏がキーセンについて話していなかったと報告されていることが明らかである。そうだとすると、本件「証言テープ」は当時の新聞社社内の報告文書の記載とも合致している。
なお、ここにいう「マスコミにも配布した聞き取り要旨」とは甲15を指す。ここには「キーセン」の記載はない。このとおり、客観証拠は全て整合しており、要するに、金学順氏はこの日「キーセン」について語らなかったのであり、記事Bに「キーセン」の記載がないのはそれゆえなのである。

■金学順氏の「遺族会入会願書」(甲201号証)
控訴人は、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(以下「遺族会」という)より、金学順氏が同会に入会を申し込んだ際の「遺族会入会願書」を入手した。
 「遺族会入会願書」の日付けは1991年11月となっている(日にちの記載はない)。
この日付は、金学順氏が遺族会に入会したのは1991年11月であり、それ以前は遺族会の裁判すなわち「義母の裁判」に関わっていなかったことの証拠である。ところで、記事A(甲1)が公表されたのは1991年8月11日だから、記事Aが発表された段階で、金学順氏は「義母の裁判」に関わっていなかったことが明らかである。
そうだとすると、控訴人が、記事Aで金学順氏の証言を記事にするのにあたり、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いた」と言えるはずがない。

■認定事実が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」
控訴理由書で詳細に述べたとおり、真実相当性の抗弁が成立するためには、摘示事実を真実と信じたことについて「確実な資料・根拠」が必要となる。ところが、本件では、裁判所認定摘示事実1及び2が真実であるという「確実な資料・根拠」が存在しない一方、裁判所認定摘示事実1及び2が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」が発見されている。

この点、真実性の判断資料の基準時点は口頭弁論終結時である一方、真実相当性の判断資料の基準時点は表現行為の時点である。しかし、被控訴人西岡は92年当時から本件について取材をしていたというのであるから、92年の段階で控訴人を取材すれば金学順氏の証言テープを聴取することは可能であった(記事Bの冒頭には「証言テープを再現する」との記載があるのだから、被控訴人西岡はその存在には当然気づいていた)。また、その当時に遺族会を取材すれば金学順氏の入会の日付けを知ることは容易であった。被控訴人西岡は、それら最低限度の取材も尽くさず思い込みだけで控訴人の記事を「捏造」と決めつけたのである。

前記のとおり、本件では、裁判所認定摘示事実1及び2が真実であるという「確実な資料・根拠」が存在しないのだから、真実性相当性が認められないことは当然であるが、他方で、裁判所認定摘示事実1及び2が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」が発見されたのであるから、控訴人の名誉権の要保護性は極めて高いというべきであり、その比較衡量からいっても相当性の抗弁を認めるべきでない。

【下の写真】金学順さんの証言を録音したカセットテープを当時ダビングしたテープ。ラベルには植村氏の字で「金学順ハルモニ③91.11.25」と書かれている。90分テープが2本あり、③は2本目のオモテ面を表す。



【下の写真】金学順さんの「遺族会入会願書」。最下段の日付欄に「91年11月」とある。中段の所属欄では「挺身隊」にマル囲みがある。漢字で氏名、住所が書かれているほか、「無子息単身」「零細民」「1942…供出…北支(中国)…日本軍野戦部隊…強制慰安婦…従事…事実」という記載もある。

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次回につづく

次回その2
キーセンは売春婦ではなかった! 
妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料

次々回その3 
慰安婦を挺身隊と呼んだ時代と社会 
「挺身隊」という呼称表記に関する証言・意見・記述