2019年11月7日木曜日

重要証拠解説その3


 「挺身隊」呼称表記に関する証言・意見・記述 


西岡力氏が何と言おうと、「女子挺身隊」「戦場に連行」は、植村氏の記事だけではなく、韓国紙も日本のメディアも、そう書いていた。金学順さん自身もそのように語っていた


甲211の表紙(左)と甲212の扉頁(右

植村氏が書いた記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という記述は、西岡氏が植村記事を「捏造」と決めつけた根拠のひとつだった。
西岡氏はこう書いている。《記事のなかで植村氏は、はっきりと強制連行の被害者として金氏を紹介している。しかし、金氏自身は「女子挺身隊として連行された」などとは一度も言っていないのである。これは悪質な捏造ではないか。》(「中央公論」2014年10月号)
これに対し、植村弁護団は一審で多数の証拠を提出し、こう主張した。

▽女子挺身隊あるいは挺身隊という呼称は、韓国社会では従軍慰安婦をさすものとして用いられていた
▽日本のメディアでも、「挺身隊の名で」「挺身隊の名の下に」などという表現は定着していた
▽金学順さん自身も「挺身隊だった」と記者会見や取材などで語っている

植村氏と西岡氏の主張は裁判で真っ向から対立した。ところが一審判決は、西岡氏の主張を認めた。「植村が、意図的に、金学順が女子挺身隊として戦場に連行されたとの、事実と異なる記事を書いた」という事実は、「その重要な部分について真実性の証明があるといえる」という判断だった。
この判断を植村弁護団は控訴にあたって強く批判した。控訴理由書の第7項(174~198ページ、「『女子挺身隊』との表記」に関する免責事由)でその理由を詳細に論述した上で、「(真実性を)判示した部分には、重大な事実誤認があり、判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、取り消されるべきである」と主張した。
今回提出された証拠のうち次の4点は、この主張をさらに補強し裏付けるものである。

▽京郷新聞元記者の陳述書(甲209)=金学順氏の「挺身隊」「キーセン学校」発言についての証言
▽和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)=慰安婦の定義、「挺身隊」呼称の経緯、植村攻撃についての意見=編注1
▽冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」(甲211)=関東軍では「特別女子挺身隊」と呼んでいたとの証言
▽書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」(甲212)=終戦直後に設けられた進駐軍施設を「挺身隊」と呼んだ関係者の証言

控訴審第1回口頭弁論(10月29日)に提出された「控訴理由補充書(1)」はその第4項「『女子挺身隊』との表記に関する免責事項」で、各証拠のもつ意味をつぎのように説明している。以下に、原文を引用する。(控訴人とあるのは植村氏、被控訴人は西岡氏を指す)


京郷新聞元記者の陳述書(甲209)
韓国・京郷新聞の韓惠進・元記者は、1991年8月14日、金学順氏がソウル市内で初めて「挺身隊だった」と自ら名乗り出た記者会見を取材した記者のうちの一人であり、陳述書において、「金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました」と明確に証言している。金学順氏本人が従軍慰安婦の意味で「挺身隊」と述べていた事実に関してはすでに多くの証拠(甲20、21、50、112=編注2)を提出しているが、この事実をさらに裏付けるものである。
韓惠進・元記者は、控訴人が記事Aで書いた「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」との記述について、「なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります」と述べており、記事Aにおいて被控訴人西岡が問題としている記述が、新聞記事としておかしな表現にはあたらず、「捏造」と非難されるような表現ではない事実を裏付けるものである。
また、「金学順氏が慰安婦にさせられた経緯」に関する免責事由に関することであるが、韓惠進・元記者は、金学順氏が平壌妓生検番に通った話を記者会見記事に書いた理由について、「検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います」と述べている。ここで韓惠進・元記者が述べている妓生検番とは妓生学校のことだと思われるが、金学順氏は、妓生学校に通った事実について、当初、自らすすんで話していたわけではなく、記者から質問されて初めて答えた事実であるから、記者会見よりも前に録音され控訴人が聞いた録音テープにおいて、金学順氏は妓生学校に通った事実を語っていなかったことが容易に推測される。
※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)
今回、控訴人は、歴史学者であり、アジア女性基金において呼びかけ人、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事を務め、2005年から07年には専務理事、事務局長を務めた和田春樹・東京大学名誉教授の意見書を提出した。この意見書において、和田名誉教授はまず、アジア女性基金と日本政府が協議の上定めた慰安婦の定義に触れ、「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」と述べている。
河野内閣官房長官談話とこの定義をもとに、日本政府は、アジア女性基金の取組みを中心として、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗及び小泉純一郎の各内閣総理大臣の時代に、元慰安婦に対する償い事業(償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援300万円相当の支払及び内閣総理大臣が自署したお詫びの手紙の交付)を行ってきたのであるが、河野内閣官房長官談話は、現在も外務省ホームページに掲載されている慰安婦問題に対する日本政府の公式見解である。和田名誉教授の意見書を理解する一助として、同談話の一部を以下に引用しておく。(掲載略)
ちなみに現在の安倍政権下においても、2015年(平成27年)12月28日に日韓両政府の合意が発表された際、岸田外務大臣は韓国に対して「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安部内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と表明し、河野談話の内容を継承している。
和田名誉教授は、意見書において、2007年(平成19年)6月14日、日本の団体がアメリカの新聞ワシントン・ポストに掲載した意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃を受けたと述べている。
この広告は、櫻井よしこ氏らが執筆し、被控訴人西岡らが名前を連ねたもので、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。この定義は、まさに原判決が認定した慰安婦の定義と同義であり、日本政府が慰安婦問題における償い事業のために設立したアジア女性基金の定義と真っ向から衝突する内容である。
このことからも、原判決が、公知の事実ともいうべきアジア女性基金における慰安婦の定義を無視して、櫻井よしこ氏や被控訴人西岡らが主張している定義を無批判に受け入れ、控訴人の主張を退けようとした姿勢がうかがわれるのであり、原判決は取り消しを免れないのである。
また和田名誉教授は、意見書において、「日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった」と述べるとともに、慰安婦を「挺身隊」と呼ぶことの歴史的な経緯を説明している。
そして、「慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたとう面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである」とされる。
和田名誉教授は、意見書の最後にこう書いている。「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」。

冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」の記述(甲211)
1918年生まれで関東軍司令部の内務班に所属していた山岸益栄さんの証言が掲載されている。山岸さんは、慰安所には憲兵が深く関わっていたことを明かすとともに、そこでは慰安婦のことを「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼んでいたと証言している(同冊子16頁)。

書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」の記述(甲212)
敗戦直後、設立された特殊慰安施設協会(略称R・A・A)の話が「進駐軍慰安作戦」と題して掲載されている。特殊慰安施設協会は、日本を占領する連合国軍兵士による一般女性への強姦や性暴力を防ぐために内務省警保局が全国の警察に指示し、政府金融機関の融資を受けてつくられた組織であり、東京料理飲食業組合をはじめとする接客業者の協力を得て慰安婦を集めて慰安施設を設置した。
同書籍147頁では、特殊慰安施設協会の鏑木清一情報課長が、慰安婦のことを正式には「特別女子挺身隊員」と呼んでいたと証言している。また同課長は「挺身隊員ですね。戦争中の意気ごみと同じ気分だったのです。」とも証言している。

以上から、戦時中の関東軍司令部において、慰安婦を指して「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼び、敗戦直後にも日本国内で占領軍向けの慰安婦を指して「特別女子挺身隊」と呼んでいた実例が明らかとなった。
「売春」を「援助交際」と言い換えるように、日本語において、口にすることが憚られる表現を婉曲的な表現に言い換える場合があることは経験則上認められることであり、「慰安婦」を「女子挺身隊」「挺身隊」という婉曲的な言葉に言い換えることがあったことは経験則上も十分に推測できることである。
つまり、「女子挺身隊」という言葉は、戦時中及び敗戦直後の時期に慰安婦を指す意味で使われていた実例がある以上、被控訴人らが主張し原判決が認定する女子挺身勤労令により定められた工場などで労働に従事する女性としての意味だけではなく、「慰安婦」の意味で使われることがあったということである。
したがって、真実性の抗弁の判断において、慰安婦を指す意味で「女子挺身隊」という表現が使われたとしても、「捏造」と非難できるような誤りではないことが明らかになったといえる。
(転載おわり)

※編注1
和田氏の同文の意見書は札幌控訴審でも提出されている。抄録と解説はこちら
※編注2
甲20=1991年8月15日付、東亜日報の記事
甲21=同日付、中央日報の記事
甲50=同年8月18日付、北海道新聞の記事
甲112=東亜日報・李英伊記者の証言(甲20関連※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

右ページ10行目に「関東軍戦時特別女子挺身隊」とある
(『軍隊慰安婦―元日本兵ら10人の証言』)

左ページ最終3行に「挺身隊員」の記述がある
(『新篇私の昭和史4 世相を追って』)