2020年3月5日木曜日

高裁判決の注目個所

update 2020/3/6 9:30am
東京控訴審判決の注目部分、4項目を抜粋して収録します。書式は変えてあります。 

【判決書28ページ25行目~31ページ7行目】
(1)は、控訴審で最重要証拠として提出した「金学順さんの証言テープ」についての裁判所の判断。
植村氏は、金学順さんがキーセンについてひとことも語っていなかったことを強調し、西岡氏の「捏造決めつけ」根拠が崩れた、と主張した。しかし、裁判所は、「聞き取り調査の際の金学順の証言の全てを記録したものとは認め難い」「キーセン学校に通っていたとかキーセンに身売りされたなどの韓国各紙の報道等もあった」として、植村氏の主張を退けた。植村氏は証言テープの取得経緯や内容構成について、本人尋問によって詳細な説明をしたいと控訴審で求めていたが、裁判所はそれを却下した上で、証言テープが持つ意味をも否定した。
(2)は、ネット上に現在も掲載されている西岡氏の記事についての裁判所の判断。
植村氏は「金学順さんの証言テープ」などを根拠として記事の削除を求めていたが、裁判所は、「(西岡本人のサイトではないから)容易に記事を削除できる立場にあると認めるに足りる証拠もない」などどして、請求を斥けた。 

第3 当裁判所の判断
3 控訴審における控訴人の主張に対する判断

(1) 平成3年11月25日の証言テープについて
控訴人は、令和元年8月22日になって、平成3年11月25日に金学順の証言を直接聴取した際の「証言テープ」(甲196ないし199)が、関係者宅から偶然発見されたところ、上記「証言テープ」には「キーセン学校に通った」 とか「キーセンに身売りされた」 旨の証言はなく「キーセン」という単語さえ出てこなかったから、これを再現した原告記事Bで「キーセンに身売りされた」事実を記載しなかったことは当然であって、「意図的に事実と異なる記事を書いた」とはいえない旨主張する(なお、被控訴人らは、上記「証言テープ」及びこれに基づく主張は、時機に後れた攻撃又は防御の方法と言わざるを得ないから却下すべきである旨主張するが、上記攻撃防御方法の提出が控訴人の故意又は重過失により時機に後れたとか、これにより訴訟の完結を遅延させることになるなどと認めるに足りる証拠はないから、上記主張には理由がない。) 。
しかしながら、上記聞き取り調査に同席した市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(代表である臼杵敬子が通訳として立ち会った。控訴人理由補充書(1))の同証言の記録(「ハッキリ通信」1991年第2号。甲14)においても、金学順は、義父を好きになれず反発して何度か家出した末「結局、私は平壊にあったキーセンを養成する芸能学校に入」ったとの経緯(これは平成3年8月当時の韓国内の新聞報道の内容に整合している。前記認定事実(4)ア)が記載されていることに照らすと、上記「証言テープ」が上記聞き取り調査の際の金学順の証言の全てを記録したものとは認め難い(上記「証言テープ」に録音されていない証言内容があること自体は、控訴人も認めている[甲220]。また、控訴人自身、反論の手記[甲9]、陳述書[甲115]及び原審における原告本人尋問において、金学順は「養父」については「全く語らなかった」とする一方、「キーセン学校」については「あまりキーセンということに重きを置いていなかった」、「キーセン学校に通ったという事実は述べられていたと思うが、キーセン学校に通ったことと慰安婦にされたことを結びつけて考えなかった」ので記載しなかった旨述べており、上記主張とは整合しない。甲9、115)。
加えて、前記のとおり、原告記事B の執筆時点においては、金学順の経歴につき、キーセン学校に通っていたとかキーセンに身売りされたなどの韓国各紙の報道等もあったのであるから、被控訴人西岡が、控訴人がこの経緯を知っていたが、このことを記事にすると権カによる強制連行との前提にとって都合が悪いためにあえてキーセンに関する経緯を記載しなかったと考えることには相応の合理性があるというべきである。控訴人の上記「証言テープ」に基づく主張には理由がない。


(2) インターネット記事による名誉棄損行為(西岡論文B)について
控訴人は、インターネット記事による名誉棄損行為は、名誉段損に該当する言質を日々公開し続けているという意味で、投稿日から削除日までーつの行為が継続しており、全体で一個の継続的不法行為であると解すべきであり、その当然の帰結として、相当性の判断時点は、名誉段損を内容とする記事の公表が終了した時点(削除時点)となる、本件訴訟で提出された全ての資料、とりわけ、控訴審で提出した金学順の「証言テープ」(甲196ないし199)により、①原告記事Bは「事実と異なる記事」ではないこと、②金学順は、名乗り出た当初から、キーセンの検番に売られたという事実を一貫して述べていたわけではないこと、③控訴人に「事実と異なる記事を書く」意図がないことの3つが確実に立証されたから、少なくとも、この点について相当性が認められる余地はなく、いまだ削除されていない西岡論文Bについての削除請求及び損害賠償は認められるべきであるなどと主張する。
しかしながら、本件ウェブサイトへの西岡論文Bの掲載は一回的な行為でーあり、当初の執筆・投稿で終了している上、被控訴人西岡が本件ウェブサイト(被控訴人西岡とは別の主体である「歴史事実委員会」のサイトである。)から容易に記事を削除できる立場にあると認めるに足りる証拠もないから、本件ウェブサイト上から西岡論文Bが削除されていないことをもって、被控訴人西岡が継続的に掲載行為を行っているとは認め難い。また、この点を措いても、上記「証言テープ」に基づく控訴人の主張に理由がないことは前記(1)で述べたとおりであり、控訴人主張に係る上記各事実が確実に立証されたとは認められない。投稿時から現時点までにおける資料等をもとに判断したとしても、西岡論文Bの摘示事実については、真実相当性が認められるというべきである。


【判決書17ページ16行目~21ページ12行目】
判決の根幹となる西岡氏の名誉棄損表現の「真実相当性」についての判断部分。
判決は植村氏の記事について、キーセン身売りの経歴を知っていたとまでは認められない」「あえてこれを記事にしなかったとまで認めることは困難である」として、意図的な虚偽報道=捏造ではない、と明確に判断している(太色字部分)。その上で、一審判決と同じ論法で、当時、キーセン経歴にふれた報道や著作が多数あったことをあげて、西岡氏の「真実相当性」を認めている。
注=頁、行数の表記は一審判決のもの。 

第3 当裁判所の判断
2 原判決の補正

(53)3924行目から4019行目の末尾までを以下のとおり改める。
「ア西岡論文について
上記2(2)で検討したとおり、西岡論文の各記述は、控訴人は金学順が経済的困窮のためキーセンに身売りされたという経歴を有していることを知っていたが、このことを記事にすると権力による強制連行との前提にとって都合が悪いため、あえてこれを記事に記載しなかった(裁判所認定摘示事実1)控訴人が、意図的に事実と異なる記事を書いたのは、権カによる強制連行という前提を維持し、遺族会の幹部である義母の裁判を有利にするためであった(裁判所認定摘示事実2)との各事実を摘示するものと解するのが相当である。
(ア)裁判所認定摘示事実について
前記認定事実(3)のとおり、平成11日付けの原告記事は、控訴人が挺対協の事務所において、金学順の発言が録音されたテープ及び尹や挺対協のスタッフからの聞き取り等の取材結果をもとに執筆した記事であるが、上記録音テープその他控訴人の取材内容を証するに足りる資料は現存せず、上記録音テープ等における、慰安婦になった経緯についての金学順の発言内容ほ必ずしも明らかではない。
もっとも、控訴人は、金学順からの聞き取りを行った尹からの「金学順はだまされて従軍慰安婦にされた」との取材結果(前記認定事実(3)イ)も踏まえ、原告記事Aにおいて「女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされた」と記載しているのであるから、金学順は、上記録音テープにおいて「だまされて慰安婦にさせられた」と発言していたものとみるのが自然である。
また、前記認定事実(4)ないし(6)のとおり、金学順が同月14日に開いた共同記者会見に関する韓国内の新聞報道、北海道新聞社による金学順に対する単独インタビューの報道、平成年訴訟の訴状における金学順に関する主張、「月刊宝石」(平成月号)の臼杵敬子の論文等における金学順の経歴に関する内容は、総じて「キーセンの検番」とか「キーセン学校」などの経歴に触れているものの、慰安婦になった直接の経緯については、養父ないし義父等が関与し、営利を目的として人身売買により慰安婦にさせられたことを示唆するものもあるが、養父等から力づくで引き離されたというものもあって必ずしも一致していない。
以上によれば、控訴人が原告記事A執筆当時、「金学が経済的困窮のためキーセンに身売りされた」という経歴を有していることを知っていたとまでは認められないし、原告各記事執筆当時、「権力による強制連行との前提にとって都合が悪い」との理由のみから、あえてこれを記事にしなかったとまで認めることは困難である。
しかし、被控訴人西岡が西岡論文を執筆するに当たって閲読した、ハンギョレ新聞の平成15日付けの記事(甲67) には「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあったキーセンの検番に売られていった。年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられて行った所が(中略)日本軍300名余りがいる小部隊の前だった。」との記載があること、平成年訴訟の訴状(乙22 )には「家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、14歳からキーセン学校に年間通ったが、1939年、17歳(数え)の春、『そこへ行け金儲けができる』と説得され(中略)養父に連れられて中国へ渡った」との記載があること、「月刊宝石」(平成月号)の臼杵論文(乙10)には「14歳のとき、母が再婚したのです。私は新しい父を好きになれず、次第に母にも反発しはじめ、何度か家出もしました。その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に40円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。ところが、17歳のとき、養父は「稼ぎに行くぞ」と、わたしと同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。」との記載があることからすれば、被控訴人西岡は、上記各資料等を総合して、金学順が経済的困窮のためにキーセンに身売りされ、養父により人身売買により慰安婦にさせられたものであり、金学順が自らその旨述べていると信じたと認められる。
そして、上記各資料のうち、上記は、金学順の共同記者会見の内容を報じだ韓国紙(民主化運動の中で創刊しリベラルな論調で知られる主要紙)の記事であり、同会見を報じた韓国各紙の報道ともおおむね一致する内容であったこ と、上記は、平成3年訴訟を提起するに当たり訴訟代理人弁護士らが金学順から聞き取った内容をまとめたものであること、上記は、平成年訴訟の支援団体の代表を務めるジャーナリストが金学順と面談した内容を論文にしたものであり、いずれもその性質上、あえて金学順に不利な内容を記載することは考え難いことからすると、被控訴人西岡が上記各資料等を総合して上記のとおり信じたことについては相当の理由があるというべきである。
そして、上記各資料の内容及び発表時期に加え、原告各記事の執筆当時、朝日新聞社は吉田供述を紹介する記事を掲載し続け、これに依拠して従軍慰安婦に関し日本軍等による強制連行があったとの立場を明確にして報道していたこと(認定事実(1)イ及びウ)、国会でも当時、強制連行の有無が大きな争点とされていたこと(同工(ア)及び(イ))、養父等による人身売買ということになれば、日本軍等による強制連行とは全く異なってしまうことを総合すると、被控訴人西岡が、控訴人は、金学順が経済的困窮のためキーセンに身売りされたという経歴を有していることを知っていたが、このことを記事にすると権力による強制連行との前提にとって都合が悪いため、あえてこれを記事にしなかったと考えたことは推論として相応の合理性があり、被控訴人西岡が上記各資料等を総合して上記のとおり信じたことについては相当の理由があるというべきである。
控訴人は、キーセンは芸妓であり、娼妓と違って性売買が予定されていなかったと主張する。しかし、本件検証記事(甲30)においても、「韓国での研究によると、学校を出て資格を得たキーセンと遊郭で働く遊女とは区別されていた。」としつつ、「中には生活に困るなどして売春行為をしたキーセンもおり、日本では戦後、韓国での買春ツアーが「キーセン観光」と呼ばれて批判されたこともあった。」と記載され、本件調査報告書(乙24)において「(原告記事)がキーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。植村による「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった」とされていることからも見とれるように、日本の新聞読者においては、「キーセンに身売りされた」との経歴は、(それが正しいかどうかはともかく)、「慰安婦として人身売買された者」とのイメージを抱かせ、このことは、日本軍による強制連行との前提に疑間を抱かせる事実であるから、少なくとも、被控訴人西岡において、上記のとおり信じたこと、には相当の理由があるというべきである。」


【判決書21ページ20行目~22頁5行目】
西岡氏の「捏造決めつけ」の根拠となっている「義母便宜説」についての判断部分。
植村氏の義母が役員を務める団体が日本政府に対して提訴することを、植村氏は知らなかった。だから、「義母の裁判を有利にするために事実と異なる記事を書いた」との事実は「真実であるとまで認めることは困難である」と断定している(太色字部分)。西岡氏の根拠は完全に崩れた。植村氏の記事は捏造ではない。
注=頁、行数の表記は一審判決のもの。 

第3 当裁判所の判断
2 原判決の補正

(56)41頁4行目の「原告の義母」から同6行目の「約4か月前に掲載され」までを以下のとおり改める。
原告記事の執筆時点において、控訴人が、義母の裁判(平成年訴訟)の提訴予定を知っていたことを認めるに足りる証拠はなく、控訴人が「義母の裁判を有利にするために事実と異なる記事を書いた」との事実が真実であるとまで認めることは困難である。
もっとも、控訴人の義母が幹部を務める遺族会の会員らは、平成1029日に日本政府を被告として公式謝罪と賠償を求める訴訟を提起していたこと(乙20)、さらに、平成12日には金学順も原告となって平成年訴訟を提起したこと、平成年訴訟の原告らは日本軍が従軍慰安婦を女子挺身隊の名で強制連行したと明確に主張していたこと、原告記事は平成年訴訟提起の約か月前に掲載され(遺族会の当時の活動状況等や平成年訴訟の内容等に照らすと、提訴までに相当長期間の準備期間を要したものと考えるのはむしろ自然である。)」



判決書を個条書きで書くことが許されるのか!
全32ページ(本文31、別紙1)の高裁判決書は、一審判決書に比べひとまわり小ぶりになっている(一審は63ページで、本文50、別紙13)。しかも、判決の本体をなす「第3 当裁判所の判断」(4~31ページ)の大半は、一審判決の補正(加筆と修正)を箇条書きにしたもので、その項目は73に及ぶ。
とくに加筆の多さが目立つ。
そのほとんどは、西岡氏の主張を合理づけるために一審判決が引用した同氏の著作や朝日新聞社の第三者委員会報告書の部分に、さらに引用を追加するものとなっている。たとえば、西岡氏が初めて植村氏の記事を批判した「文藝春秋」1992年4月号について、一審判決は5行でその内容を紹介しているが、高裁判決書は、「末尾に以下のとおり加える」として、35行も追加している。裁判所が屋上屋を重ねて、西岡氏の植村批判を援護しているのである。
一方、修正は不必要なものが多い。たとえば、「署名記事」を「署名記事(写真なし)」に、「新聞報道」を「新聞報道(いずれも金学順の写真付きで大きく扱われている)」としたり、植村氏の韓国語習得経歴について、「朝日新聞社に籍を置きつつ、ソウルで」を「朝日新聞の語学留学生として延世大学校で」とするなど、本筋からはずれる「修正」が次から次と出てくる。
加筆と修正の72項目は文字通り箇条書きで連続して書かれている。各項目をつなぐ、いわゆる地の文はまったくない。だから、高裁判決を正確に読み解くためには、一審判決書を手元に置き、加筆と修正をそれぞれの該当箇所に置き換えて読まなければならない。法律の門外漢とっては、初めて見る形式の判決書であり、たいへんな苦行を強いられる。それでも、法律のプロたちには通用する文書形式なのだろうか。
高裁判決書の根幹の「判断部分」で、「補正」とは別に、新たに書き下ろされているのは、上掲の「第3 当裁判所の判断 3 控訴審における控訴人の主張に対する判断(1)(2)」だけである。
オリジナルな判決書というよりは、校正指示書か、完成前の推敲版といったほうがいい。
これまでにない後味の悪さ、不快感がこの判決書には残る。判決の内容だけでなく、その書きぶりにもよるところ大である。
text by HN

写真=高裁判決書の一部(4~6ページ)