2019年12月16日月曜日

東京控訴審が結審!

 東京 第2回口頭弁論 卯植村氏

神原弁護士、植村氏最後の弁論

双方の主張激しく対立のまま結審

東京3月3日、札幌2月6日

2020年高裁判決に注目を

植村裁判の東京訴訟控訴審第2回口頭弁論は12月16日午後、東京高裁(第2民事部、白石史子裁判長)で開かれ、植村氏側、西岡氏・文春側がそれぞれ最終書面を陳述(提出)して、すべての審理を終えた。白石裁判長は判決言い渡し日時を2020年3月3日(火)午後2時と指定した。

この日の口頭弁論は午後3時30分に開廷。植村弁護団は13人が、西岡・文春側はいつものように2人が席に着いた。西岡氏の姿は今回もなかった。定員90人の101号法廷は70人ほどの傍聴者でほぼ席が埋まった。

開廷してすぐに、植村弁護団事務局長の神原元弁護士が立って、意見陳述(読み上げ)を行った。神原弁護士は、「本件の真相」として、植村氏の記事が捏造だとは到底言えないこと、植村氏が記事を捏造する意図も動機、目的もまた到底あり得ないことを挙げて、一審判決を強い口調で批判した。控訴審の締め括りにふさわしい、簡にして要を得た弁論が、法廷に響いた。
西岡氏をはじめ慰安婦問題を否認する人々は、金学順さんの妓生学校の経歴を売春婦に結びつけようとしている。これは裁判でも重要な争点になったことだが、神原弁護士は米国の市議会議員の有名な発言を引いてこう批判した。
――2015年9月、サンフランシスコ市議会の公聴会において、元慰安婦を「売春婦で嘘つきだ」などと攻撃する者に対し、地元のカンポス議員は、こう述べました。
「恥を知りなさい」。
議員は自己のスピーチを、マハトマ・ガンディーの言葉を引用して閉じています。
「真実は正しい目的を損なうことはない」

続いて植村氏が立ち、意見陳述書を読み上げた。法廷での意見陳述は植村氏もこれが最後となる。植村氏が怒りをこめて述べたのは、この裁判の核心となっている次の3つの重要な事実についてである。植村氏と家族、勤務先(北星学園大学)が受けた物心両面での被害は甚大であり、殺害予告の恐怖はまだ続いている。また、1991年に書いた記事で使った「挺身隊」という言葉は当時、韓国では慰安婦の意味で使われており、植村氏だけでなく日韓のメディアもそう書いていた。さらに、金学順さんが慰安婦とされた経緯については金さん自身が「強制連行」と認識していた――
植村氏は最後に3人の裁判官に向かって、「これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただければ、真実は私の側にあることが分かると思います」と訴えた。

今回植村氏側が提出した書面は8通である(準備書面4、反論書1、陳述書3)。対する西岡氏・文春側からは2通(準備書面)にとどまった。しかしその内容は、非を認めず一歩も譲らぬ強硬なものである。新しい証拠(金学順さん証言録音テープ)や「捏造」決めつけの根拠をめぐる双方の主張と反論は激しくぶつかり合ったまま、結審に至った。
神原、植村両氏の陳述が終わると、裁判長は提出書面と証拠の確認手続きを行った。西岡・文春側の喜田村洋一郎弁護士の発言はなかったので、裁判長は「弁論を終結します」と宣言し、判決言い渡し日時を明らかにした。閉廷は3時48分だった。

裁判のあと、報告集会が参議院議員会館101会議室で開かれた。弁護団報告の後、ジャーナリストの江川紹子さんが「金学順さんテープの意味するもの」と題して講演し、最後に植村氏が支援に感謝する挨拶をした。 
※弁護団報告と江川さんの講演要約は後日掲載予定

■神原弁護士の意見陳述(全文)

▼本件の真相
植村氏の91年12月の記事は、冒頭において、「(金学順氏の)証言テープを再現する」と断っています。私たちは、当該「証言テープ」を法廷に証拠提出致しました。
西岡氏らは「妓生の経歴が書かれていないから捏造だ」と言ってきました。しかし、当該証言テープには、妓生の証言は一切ありません。「証言テープを再現する」と断って書いた記事に、証言テープにない証言が書かれていないからといって、それが捏造記事になる等ということは絶対にあり得ません。極めて当たり前のことであります。

それだけではありません、証言テープの内容は、記事の記載と、細部に至るまで詳細に一致していました。このことは、植村氏において、義母の裁判を有利にする等の目的で、捏造記事を書くという意図が、一切なかったことをも意味します。
そして、金氏の裁判が始まった91年12月の時点でそのような意図がなかったのですから、金氏の裁判の予定すらなかった8月の時点で、そのような意図がなかったことも、極めて自明のことであります。

西岡氏らは、91年8月の記事の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」という文言を捉え、慰安婦強制連行の吉田証言を裏付ける記事だ等と主張しています。
しかし、8月の記事には、「だまされて慰安婦にされた」と明確に記載されているではありませんか。どうして、強制連行を裏付ける記事になるのでしょうか。
吉田証言とは、「(朝鮮人女性を)殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、(中略)連行し」たというものです。これは、「だまされて慰安婦にされた」という状況とは、全く違うではありませんか。
そもそも、仮に、植村氏において、強制連行をでっち上げようという悪しき意図があったならば、「だまされて慰安婦にされた」等と書くはずがないではありませんか。

以上、本件の真相は全て明らかになりました。植村氏が、意図的に記事を捏造したという事実は、一切ないのであります。

▼原判決の根本的誤り
原判決は、「キーセンの経歴を記載しなかった」という不作為を捉え、「事実と異なる記事を書いた」、そう信じたことに相当な理由がある等と認定しています。
原判決の認定で、もっともおかしな部分は、この部分です。

伊藤詩織さんという方がいます。この方は、ピアノ・バーで働いている際に出会った男性にレイプされたと訴えております。
では、このケースで、「ピアノバーで働いていた」との経歴を書かなければ「捏造記事」になるのでしょうか。そんなことはありえません。
妓生学校の経歴についても同じです。「書かない」という不作為が、理由なく、「捏造」という作為に転化することは、通常あり得ません。
経歴を書く「べき」だというのは、一つの意見に過ぎません。書く「べき」だという一方的な意見のみを証拠にして、「捏造」という事実は認定できません。一方的な意見のみを根拠にそう信じたとしても、相当な理由があるともいえないはずです。

慰安婦問題を否認する人々は、妓生の経歴に、なぜこれほど拘るのでしょうか。
産経新聞の阿比留瑠比氏は「売春婦という場合もあります(中略)キーセンに40円で売られた段階で」と述べています(甲71号証2頁目)。池田信夫氏は「慰安婦は売春婦です。」と述べています。
伊藤詩織さんの事件の被告となった男性は、「あなたはキャバクラ嬢でしたね」と書いています。これも似たような心理かも知れません。
2015年9月、サンフランシスコ市議会の公聴会において、元慰安婦を「売春婦で嘘つきだ」などと攻撃する者に対し、地元のカンポス議員は、こう述べました。
「恥を知りなさい」

しかし、ここでは、一歩譲って、西岡氏らの歴史観を前提にしてみましょう。
植村氏に対して向けられた批判は「捏造」記事を書いた、というものです。「捏造」の意味について、西岡氏は、極めて明快に定義しております。
「植村記者の捏造は(中略)、義理のお母さんの起こした裁判を有利にするために、紙面を使って意図的なウソを書いたということだ」
この「捏造」が意見なり論評なりということはありえません。意図的に事実と異なる記事を書いた、という事実の摘示そのものです。西岡氏は、「捏造した事実は断じてある」と述べ、89年の珊瑚記事捏造事件より悪質だと言っているのです。
仮に西岡氏らの歴史観を前提にしたとして、果たして、珊瑚記事捏造事件と同じ意味において、「植村氏が捏造記事を書いた」という事実と認定できるでしょうか。あるいは、そう信じたことに理由があるといえるでしょうか。
答えは、断固として、絶対に、「否」であります。「捏造」が事実を示す言葉だとすれば、そのような事実が認定できるはずがないことは既に証拠上明らかであり、そう信じたとしても相当性がないことも明らかであり、その結論は、いかなる歴史観を前提としても、変わらないのであります。

▼結論
先にあげたカンポス議員は自己のスピーチを、マハトマ・ガンディーの、以下の言葉を引用して閉じています。
「真実は正しい目的を損なうことはない」
司法の使命とは、事実と証拠のみに基づき、判決を下すことです。本件においては、慰安婦問題を巡る歴史観の対立に踏み込むことなく、どちらにも偏らず、曇りなき目で、事実と証拠のみに基づいて、事実の有無を判断することです。そうすれば、植村氏は記事を捏造していないという事実は、真実として認定されるものと確信しています。慰安婦に関する歴史の事実を認定しなくても、本件における真実を認定することは、十分可能なのであります。
我々弁護団は、裁判所に、事実と証拠のみ基づく、正しい判決を下されんことを、切にお願いする次第であります。

以上

■植村氏の意見陳述(全文)

update 2019.12.17   8:20am
▼2014年1月31日の出来事
「週刊文春に出た記事のことで、『なぜこんな者を教授にするのか』などと抗議の電話が来ている。この件で話をしたい」。こんな内容の電話が私の携帯にかかってきました。いまから6年近く前、2014年1月31日の夕方でした。当時、私は朝日新聞函館支局長で、取材先にいました。電話をしてきたのは、その年の4月から私が転職することになっていた、神戸松蔭女子学院大学(神戸松蔭)の事務局長でした。その電話で不安が広がってきました。見上げた空がどんよりと曇っているように見えました。今もあの日のことを思うと、ひりひりとした心の痛みを感じます。

前日に発売された「週刊文書」に「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事(文春記事A)が出ました。私は1991年8月11日付の朝日新聞大阪本社版で元日本軍慰安婦が証言を始めたと伝えていました。文春の記事は、私のその記事(記事A)を「捏造」だと決めつけていました。私は記事の前文で「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」と書きました。また、この女性が慰安婦になった経緯については、「だまされた」と書きました。文春記事Aに談話を載せた西岡力氏は、こう指摘していました。

「挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」。

しかし、西岡氏は私が記事Aの中で、「だまされて慰安婦にされた」と書いていることには全く言及していませんでした。
この西岡氏のコメントを載せた記事がきっかけで、激しい「植村捏造バッシング」が起き、神戸松蔭にも抗議が殺到しました。結局、大学側が震え上がってしまい、私を守ってはくれませんでした。そして、私はその転職先のポストを失うことになりました。朝日新聞は予定通り、早期退職したため、残った仕事は、札幌の北星学園大学(北星)非常勤講師だけでした。

▼私は「標的」にされた
「週刊文春」はさらに、2014年8月14日・21号で、「慰安婦火付け役朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」という記事(文春記事B)を書き、私が北星学園大学で非常勤講師をしていることを報じました。すると、北星にも電話やメールなどによる激しい抗議が相次ぎました。脅迫状が送られてきたり、脅迫電話がかかってきたりしました。このため、大学は警備を強化せざるを得ず、教職員も疲弊しきっていました。

北星への攻撃に対し、市民たちが立ち上がり、「負けるな北星!  の会」ができました。しかし、私の雇用継続に反対する教員も多数出ました。2015年度の雇用は継続されることになったものの、「次年度の雇用はない」という危機的な状況でした。そうした中で、北星の提携校である韓国カトリック大学が、私を客員教授として招いてくれ、2016年春からは韓国で教鞭をとっています。その後も、日本の大学への教員公募に応募していますが、書類審査で落とされています。

私の記事で使った「挺身隊」という言葉は、当時、韓国で、慰安婦の意味で使われていました。私の記事の3日後、この元慰安婦の女性は「金学順(キム・ハクスン)」と実名を名乗って、記者会見をしました。その際に、金さんは自分のことを「挺身隊」と呼んでいました。会見を報じた韓国紙の記事や、金さんに単独会見した北海道新聞の記事にも、本人が語った「挺身隊」という言葉が出ています。その記者会見では、金さんは「16歳ちょっと過ぎたくらいの(私を)引っぱって。強制的に」と述べています。金学順さん自身は自分が強制連行されたと認識していたのです。産経新聞は少なくとも二度にわたって、金さんを日本軍の強制連行と伝えています。このように当時の各紙の報道状況をみれば、私の記事はごく普通の記事でした。なのに、私だけが西岡氏と週刊文春に「標的」にされたのでした。

▼裁判官の皆様へ
「週刊文春」の記事で私の人生は狂いました。「捏造」というのはジャーナリストにとっては死刑判決にも等しいものです。この記事のせいで、日本の大学で教えるという、私の夢は奪われてしまいました。それだけでなく、「娘を殺す。期限はもうけない」と脅迫状まで送りつけられたのです。こんな内容です。「『国賊』植村隆の娘である⚫⚫⚫⚫⚫を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」。娘のことを思うと、いまでも不安にかられます。

私は自分の名誉だけでなく、家族の命を守るためにも、裁判に立ち上がらざるを得なかったのです。裁判官のみなさん、このことを、どうかご理解ください。私は「捏造記者」ではありません。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。最後には司法による救済が必ずあると信じています。これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただければ、正義は私の側にあることがわかると思います。「捏造記者」という私に対する汚名を晴らしてください。どうか、よろしく、お願い申し上げます。 
以上

※書式は提出正本と異なります。証拠番号の記載は略しました。
             

2019年12月1日日曜日

東京結審、16日に

長い裁判もいよいよ大詰めです。東京訴訟の控訴審第2回弁論が1216日(月)午後3時半から開かれ、植村さんの本人陳述が予定されています。結審すれば来春に判決言い渡しになります。午後4時半からの報告集会(参議院議員会館101会議室)では、朝日新聞社の「信頼回復と再生のための委員会」の委員も務めたジャーナリスト江川紹子さんが、新証拠の9111月の「金学順さんへの取材テープ」の意義などについて講演します。
チラシPDF

 東京訴訟 第2回口頭弁論 
12月16日(月)午後3時30分開廷
東京高裁101号法廷
◆傍聴抽選が予想されます、早めにお越しください

 裁判報告集会       
同日 午後4時30分~6時
参議院議員会館101会議室
講演 江川紹子さん
「金学順さんへの取材テープ」の意味

入場無料
主催 植村訴訟東京支援チーム
共催 新聞労連、メディア総合研究所、日本ジャーナリスト会議(JCJ)
後援 日本マスコミ文化情報会議(MIC)
問い合わせ 日本ジャーナリスト会議 電話03-3291-6475(月水金の午後) 

 「金学順さんへの取材テープ」とは   
update:2019.12.2 pm4:10
199111月に金学順さんが日本政府を相手取った賠償請求訴訟の準備としてソウルを訪れた日本の弁護団から初の聞き取り調査を受けた際に、植村さんが同行取材を許可されて金学順さんとのやり取りの一言一句を録音したテープです。金学順さんが実名で名乗り出た後、初めて日本からきた弁護団に自らの辛い体験を詳細に語った「肉声」です。この記録は植村訴訟だけでなく、慰安婦問題の発端を考えるための第一級の史料とも言えます。
この時の金学順さんの発言をまとめたのが、植村さんの記事B「手紙:女たちの太平洋戦争――かえらぬ青春 恨の半生/ウソは許せない 私が生き証人」911225日付け 大阪本社「語り合うページ」)なのです。

植村さんの記事は、前文でこう書いています。
「裁判の準備のため、弁護団と「日本の戦後責任をハッキリさせる会」は四度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する」

これに対して、「ねつ造」と攻撃する西岡力氏はこの記事Bについて、こう書いています。

この十二月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関するキーセンに売
られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」

西岡氏が言うように、植村記事は金学順さんの発言を「意図的にカットした」のでしょうか?
法廷に提出されたテープ(韓国語からの反訳)で、金学順さんは一度も「キーセン」という言葉を語っていません。植村さんは「本人が語っていなかったことは記事に書けません」と陳述しています。

私は記事Bのリードで、「証言テープを再現する」としています。金学順さんがテープの中で語ってないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、「捏造」だと言えるはずがないではありませんか(本人陳述書より)

この重要なテープがなぜ、今になって発見されたのでしょうか?
テープは植村記事B前文で紹介されている「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子代表の和歌山県の自宅で8月に見つかりました。臼杵代表はジャーナリストで、9111月の弁護団の聞き取りで通訳を務めました。
西岡氏が92年春に月刊『文藝春秋』で最初に植村「ねつ造」攻撃の論文を書いた後、朝日新聞大阪本社は社会部員だった植村さんに対して社内調査を行いました。植村さんは当時は手元に保管していた録音テープをダビングして臼杵さんに送り、自らの記事が金学順さんの発言を正確に反映していることを確認してもらったのです。その時、臼杵さんに送ったテープが今回、見つかったのです。

朝日新聞社のこの時の社内文書「調査報告」は、次のように述べています。

「この記事について西岡氏は、『韓国では(金さんは)キーセンに売られていったと報道されている。植村記者は、それを書いていない』と指摘していますが、金さんは、この聞き取りの時には、この点は話していません。」

当時から、植村さんはもちろん、朝日新聞社も、西岡氏の『文藝春秋』での主張が事実に基づかない「言いがかり」にすぎない、と確認していました
一審の判決は、朝日新聞社と植村さんが西岡氏に対して反論や説明をしなかったことを非難して、西岡氏が「ねつ造記事」と思い込んでも「もっともである」=相当性があるとして免責しました。
ところが、西岡氏は臼杵さんの書いた記事を歪曲して引用して「ねつ造」攻撃の論拠にしながら、臼杵さん本人には一度も取材せず、臼杵さんが保管していた金学順さんの肉声テープを聞くこともなく、「意図的にカットした」と決めつけているのです。

2019年11月29日金曜日

福島議員が完全勝訴


参議院議員の福島瑞穂氏が評論家の屋山太郎氏を訴えていた名誉毀損裁判で、11月29日、東京地裁は屋山氏に330万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。賠償額は満額で、福島氏の完全勝利です。以下は、「弁護士ドットコムニュース」の全文引用です。 
  


屋山太郎氏「福島瑞穂氏の妹が北朝鮮に」→妹は実在せず、名誉毀損で賠償命令
政治評論家、屋山太郎氏が新聞で発表したコラムに事実に反する記述があり、名誉毀損にあたるとして、社民党副党首で参院議員の福島瑞穂氏が330万円の損害賠償を求めた裁判で、東京地裁(沖中康人裁判長)は11月29日、屋山氏に330万円の支払いを命じる判決を言い渡した。
コラムは今年2月、静岡新聞に掲載されたもので、徴用工訴訟についてふれ、「この訴訟を日本で取り下げさせたのは福島瑞穂議員。福島氏は実妹が北朝鮮に生存している。政争の具に使うのは反則だ」などと書いていた。
訴状によると、屋山氏のコラムは「ギクシャクし続ける日韓関係」と見出しで、静岡新聞に掲載されたもの(静岡新聞はすでに訂正・謝罪している)。
福島氏側は、「まるで身内を利するために、政治活動を行なっていたかのような印象を読者に与える」「(そのように書くことは)全国民の代表たる地位や政党の要職者たる立場を踏みにじり、社会的評価を著しく低下させるもの」と指摘。
さらには、福島氏側は「そもそも妹はいない」として、屋山氏の名誉毀損を訴えていた。一方、屋山氏は「他の人と取り違えていた」などとして、争っていた。
●「政治家としての社会的評価を低下させた」
判決では、屋山氏のコラムについて、憲法43条1項で「全国民を代表する」と定めた国会議員である原告(福島氏)が、「身内を利するためにまたは公私を混同させて政治活動を行なっているとの印象を与えるものであり、原告の政治家としての社会的評価を著しく低下させるものである」と指摘。屋山氏の賠償責任を認めている。
また、他にもこのコラムが「新聞という多数の読者が想定され、信憑性が高いとされる媒体に掲載された」ことや、屋山氏が福島氏について「その真偽を調査・確認することなく」執筆したことなどから、静岡新聞で訂正記事が掲載されたことを考慮したとしても、「慰謝料は300万円を相当と認める」(弁護士費用を含めると330万円)と結論づけた。
判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで、福島氏の代理人である佃克彦弁護士が会見、福島氏のコメントを次のように発表した。
「虚偽を書かれた私の怒りや苦しみを裁判所が正面から受け止め、判決を出してくださったことに感謝をいたします。今後は名誉毀損のない社会になるよう頑張っていきます」
判決が請求額を満額認めたことについて、佃弁護士は「裁判所は、きちんと評価してくださったと思っています。これだけひどいケースであれば、請求通りに認めるというのが紛争解決として妥当という、裁判所の配慮があったのではと解釈しています」と話している。

(引用終わり) 

提訴時に掲載した当ブログ記事「屋山太郎の名誉毀損」(2019年3月9日付け)は こちら

2019年11月20日水曜日

植村さん韓国で受賞

植村隆さんが韓国の「李泳禧賞」の第7回受賞者に選ばれました。
同賞は、韓国民主化運動で知識人や学生に大きな影響を与えた李泳禧氏(1929~2010年)を記念し、すぐれたジャーナリストを顕彰する賞です。植村さんの韓国での受賞は昨年5月の「キム・ヨングン民族教育賞」に次いで2度目です。今回の受賞を報じる「ソウル聨合ニュース」11月18日付け記事を転載します。

慰安婦証言を最初に報じた元朝日新聞記者 韓国でジャーナリズム賞受賞
【ソウル聯合ニュース】韓国・李泳禧(リ・ヨンヒ)財団の李泳禧賞審査委員会は18日、今年の第7回李泳禧賞受賞者に元朝日新聞記者で、韓国・カトリック大兼任教授の植村隆氏が選ばれたと発表した。
同賞は真実の追求に努めたメディア関係者などに授与されるもので、植村氏は旧日本軍の慰安婦被害者である金学順(
キム・ハクスン)さん(1997年死去)の証言を確保し、91811日付の朝日新聞で記事にした。
この記事の3日後に金さんの記者会見が行われ、慰安婦問題に対する日本政府の謝罪と賠償を要求する国内外の運動につながった。 
これに対し日本の右翼勢力は植村氏の転職を妨害するなど、植村氏とその家族に圧力を加えた。
植村氏は著書「
真実 私は『捏造記者』ではない」を発表し、日本の右翼勢力からの非難や脅迫に反論したほか、自身を誹謗(ひぼう)中傷したメディアなどを相手取り訴訟を行っている。
審査委員会は「歴史修正主義を掲げた安倍政権が慰安婦問題や強制労働問題などの歴史に対する一切の反省を拒否し、韓日間のあつれきを引き起こす今、植村記者に声援を送るのは李泳禧先生が生涯を捧げて追求してきた北東アジアの平和のための道」と説明した。
植村氏は受賞について、負けずに頑張れという韓国ジャーナリズム界からの激励と考えるとし、この受賞を機に韓国と日本のリベラル勢力の交流が一層深くなることを願うと話した。 授賞式は来月4日午後に韓国プレスセンター(ソウル市中区)で、李泳禧氏の死去9年の追悼行事とともに開かれる。受賞者には賞牌(しょうはい)と賞金1000万ウォン(約93万円)が贈られる。
※昨年5月の記事 こちら


update 2019/11/23 pm5:50
おことわり■
上記の「聨合ニュース」の記事の見出しは「慰安婦証言を最初に報じた元朝日新聞記者 韓国でジャーナリズム賞受賞」となっていますが、正確には、植村さんは「慰安婦証言を最初に報じた元朝日新聞記者」ではなく、「韓国内で初めて名乗り出た元慰安婦(金学順さん)の証言を最初に報じた元朝日新聞記者」です。韓国外では金学順さんよりも先に名乗り出た元慰安婦がおり、沖縄在住の裵奉奇(ペ・ポンギ)さんやタイ在住の蘆寿福(ノ・スボク)さんの証言と境遇は、日本では1970年代後半から80年代にかけて、共同通信や朝日新聞(松井よやり記者)、ドキュメンタリー作家(川田文子氏)、映像作家(山谷哲夫氏)らによって報じられています。

なお、この見出しに似た「慰安婦証言を最初に報じた植村記者」という表現は、櫻井よしこ、西岡力氏らが植村さんを攻撃するさいにも用いられるものです。櫻井、西岡氏らは、「強制連行された慰安婦」というのは朝日新聞が作りだした虚像に過ぎない、という印象を世論に刷り込むために、吉田清治氏による「加害者証言」と植村記者による「被害者証言」をセットにして「捏造」と決めつけ、日本の国益が損じられたと主張しています。その主張をもっともらしく見せかけるために、植村記者の記事が慰安婦報道で初めてのスクープであるかのように誇大表現しているのです。ふたりのキャンペーンによって「慰安婦報道=吉田清治=植村捏造記事」という思い込みが多くの人に刷り込まれた、と『慰安婦報道「捏造」の真実』(花伝社刊)で水野孝昭氏が指摘しています(同書第2章、p6~8)。

2019年11月15日金曜日

道新に映画「標的」

植村隆さんの裁判の日々を追う映画「標的」が11月14日付の北海道新聞(夕刊、芸能文化面)で紹介されています。西嶋真司監督のインタビューとともに、映画の一場面として植村さんが韓国のナヌムの家を訪れて李玉善さんと対面する写真も掲載されています。植村さんの写真が地元紙道新に載るのは2014年に植村・北星バッシング事件が起きて以降、おそらく初めてといわれています。
※記事PDF こちら

2019年11月7日木曜日

重要証拠解説その3


 「挺身隊」呼称表記に関する証言・意見・記述 


西岡力氏が何と言おうと、「女子挺身隊」「戦場に連行」は、植村氏の記事だけではなく、韓国紙も日本のメディアも、そう書いていた。金学順さん自身もそのように語っていた


甲211の表紙(左)と甲212の扉頁(右

植村氏が書いた記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という記述は、西岡氏が植村記事を「捏造」と決めつけた根拠のひとつだった。
西岡氏はこう書いている。《記事のなかで植村氏は、はっきりと強制連行の被害者として金氏を紹介している。しかし、金氏自身は「女子挺身隊として連行された」などとは一度も言っていないのである。これは悪質な捏造ではないか。》(「中央公論」2014年10月号)
これに対し、植村弁護団は一審で多数の証拠を提出し、こう主張した。

▽女子挺身隊あるいは挺身隊という呼称は、韓国社会では従軍慰安婦をさすものとして用いられていた
▽日本のメディアでも、「挺身隊の名で」「挺身隊の名の下に」などという表現は定着していた
▽金学順さん自身も「挺身隊だった」と記者会見や取材などで語っている

植村氏と西岡氏の主張は裁判で真っ向から対立した。ところが一審判決は、西岡氏の主張を認めた。「植村が、意図的に、金学順が女子挺身隊として戦場に連行されたとの、事実と異なる記事を書いた」という事実は、「その重要な部分について真実性の証明があるといえる」という判断だった。
この判断を植村弁護団は控訴にあたって強く批判した。控訴理由書の第7項(174~198ページ、「『女子挺身隊』との表記」に関する免責事由)でその理由を詳細に論述した上で、「(真実性を)判示した部分には、重大な事実誤認があり、判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、取り消されるべきである」と主張した。
今回提出された証拠のうち次の4点は、この主張をさらに補強し裏付けるものである。

▽京郷新聞元記者の陳述書(甲209)=金学順氏の「挺身隊」「キーセン学校」発言についての証言
▽和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)=慰安婦の定義、「挺身隊」呼称の経緯、植村攻撃についての意見=編注1
▽冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」(甲211)=関東軍では「特別女子挺身隊」と呼んでいたとの証言
▽書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」(甲212)=終戦直後に設けられた進駐軍施設を「挺身隊」と呼んだ関係者の証言

控訴審第1回口頭弁論(10月29日)に提出された「控訴理由補充書(1)」はその第4項「『女子挺身隊』との表記に関する免責事項」で、各証拠のもつ意味をつぎのように説明している。以下に、原文を引用する。(控訴人とあるのは植村氏、被控訴人は西岡氏を指す)


京郷新聞元記者の陳述書(甲209)
韓国・京郷新聞の韓惠進・元記者は、1991年8月14日、金学順氏がソウル市内で初めて「挺身隊だった」と自ら名乗り出た記者会見を取材した記者のうちの一人であり、陳述書において、「金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました」と明確に証言している。金学順氏本人が従軍慰安婦の意味で「挺身隊」と述べていた事実に関してはすでに多くの証拠(甲20、21、50、112=編注2)を提出しているが、この事実をさらに裏付けるものである。
韓惠進・元記者は、控訴人が記事Aで書いた「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」との記述について、「なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります」と述べており、記事Aにおいて被控訴人西岡が問題としている記述が、新聞記事としておかしな表現にはあたらず、「捏造」と非難されるような表現ではない事実を裏付けるものである。
また、「金学順氏が慰安婦にさせられた経緯」に関する免責事由に関することであるが、韓惠進・元記者は、金学順氏が平壌妓生検番に通った話を記者会見記事に書いた理由について、「検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います」と述べている。ここで韓惠進・元記者が述べている妓生検番とは妓生学校のことだと思われるが、金学順氏は、妓生学校に通った事実について、当初、自らすすんで話していたわけではなく、記者から質問されて初めて答えた事実であるから、記者会見よりも前に録音され控訴人が聞いた録音テープにおいて、金学順氏は妓生学校に通った事実を語っていなかったことが容易に推測される。
※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

和田春樹・東京大学名誉教授の意見書(甲210)
今回、控訴人は、歴史学者であり、アジア女性基金において呼びかけ人、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事を務め、2005年から07年には専務理事、事務局長を務めた和田春樹・東京大学名誉教授の意見書を提出した。この意見書において、和田名誉教授はまず、アジア女性基金と日本政府が協議の上定めた慰安婦の定義に触れ、「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」と述べている。
河野内閣官房長官談話とこの定義をもとに、日本政府は、アジア女性基金の取組みを中心として、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗及び小泉純一郎の各内閣総理大臣の時代に、元慰安婦に対する償い事業(償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援300万円相当の支払及び内閣総理大臣が自署したお詫びの手紙の交付)を行ってきたのであるが、河野内閣官房長官談話は、現在も外務省ホームページに掲載されている慰安婦問題に対する日本政府の公式見解である。和田名誉教授の意見書を理解する一助として、同談話の一部を以下に引用しておく。(掲載略)
ちなみに現在の安倍政権下においても、2015年(平成27年)12月28日に日韓両政府の合意が発表された際、岸田外務大臣は韓国に対して「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安部内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と表明し、河野談話の内容を継承している。
和田名誉教授は、意見書において、2007年(平成19年)6月14日、日本の団体がアメリカの新聞ワシントン・ポストに掲載した意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃を受けたと述べている。
この広告は、櫻井よしこ氏らが執筆し、被控訴人西岡らが名前を連ねたもので、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。この定義は、まさに原判決が認定した慰安婦の定義と同義であり、日本政府が慰安婦問題における償い事業のために設立したアジア女性基金の定義と真っ向から衝突する内容である。
このことからも、原判決が、公知の事実ともいうべきアジア女性基金における慰安婦の定義を無視して、櫻井よしこ氏や被控訴人西岡らが主張している定義を無批判に受け入れ、控訴人の主張を退けようとした姿勢がうかがわれるのであり、原判決は取り消しを免れないのである。
また和田名誉教授は、意見書において、「日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった」と述べるとともに、慰安婦を「挺身隊」と呼ぶことの歴史的な経緯を説明している。
そして、「慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたとう面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである」とされる。
和田名誉教授は、意見書の最後にこう書いている。「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」。

冊子「『軍隊慰安婦』元日本兵ら10人の証言」の記述(甲211)
1918年生まれで関東軍司令部の内務班に所属していた山岸益栄さんの証言が掲載されている。山岸さんは、慰安所には憲兵が深く関わっていたことを明かすとともに、そこでは慰安婦のことを「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼んでいたと証言している(同冊子16頁)。

書籍「新篇私の昭和史4 世相を追って」の記述(甲212)
敗戦直後、設立された特殊慰安施設協会(略称R・A・A)の話が「進駐軍慰安作戦」と題して掲載されている。特殊慰安施設協会は、日本を占領する連合国軍兵士による一般女性への強姦や性暴力を防ぐために内務省警保局が全国の警察に指示し、政府金融機関の融資を受けてつくられた組織であり、東京料理飲食業組合をはじめとする接客業者の協力を得て慰安婦を集めて慰安施設を設置した。
同書籍147頁では、特殊慰安施設協会の鏑木清一情報課長が、慰安婦のことを正式には「特別女子挺身隊員」と呼んでいたと証言している。また同課長は「挺身隊員ですね。戦争中の意気ごみと同じ気分だったのです。」とも証言している。

以上から、戦時中の関東軍司令部において、慰安婦を指して「関東軍戦時特別女子挺身隊」と呼び、敗戦直後にも日本国内で占領軍向けの慰安婦を指して「特別女子挺身隊」と呼んでいた実例が明らかとなった。
「売春」を「援助交際」と言い換えるように、日本語において、口にすることが憚られる表現を婉曲的な表現に言い換える場合があることは経験則上認められることであり、「慰安婦」を「女子挺身隊」「挺身隊」という婉曲的な言葉に言い換えることがあったことは経験則上も十分に推測できることである。
つまり、「女子挺身隊」という言葉は、戦時中及び敗戦直後の時期に慰安婦を指す意味で使われていた実例がある以上、被控訴人らが主張し原判決が認定する女子挺身勤労令により定められた工場などで労働に従事する女性としての意味だけではなく、「慰安婦」の意味で使われることがあったということである。
したがって、真実性の抗弁の判断において、慰安婦を指す意味で「女子挺身隊」という表現が使われたとしても、「捏造」と非難できるような誤りではないことが明らかになったといえる。
(転載おわり)

※編注1
和田氏の同文の意見書は札幌控訴審でも提出されている。抄録と解説はこちら
※編注2
甲20=1991年8月15日付、東亜日報の記事
甲21=同日付、中央日報の記事
甲50=同年8月18日付、北海道新聞の記事
甲112=東亜日報・李英伊記者の証言(甲20関連※全文は別稿「韓国紙2記者の証言」に掲載 こちら

右ページ10行目に「関東軍戦時特別女子挺身隊」とある
(『軍隊慰安婦―元日本兵ら10人の証言』)

左ページ最終3行に「挺身隊員」の記述がある
(『新篇私の昭和史4 世相を追って』)


韓国紙2記者の証言

 京郷新聞と東亜日報 

「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだった(韓記者)

私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました(李記者)


植村氏の記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との記述を韓国紙の記者たちはどう受け止めているか。金学順さんの記者会見(1991年8月14日)を取材した記者、韓恵進さん(京郷新聞)と李英伊さん(東亜日報)は、弁護団の求めに応じて陳述書を提出した。

韓恵進さんが書いた記事の見出しは「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」だった。韓さんは陳述書で、金学順さんが何回も「挺身隊」と語っていたこと、妓生のことは金さんがすすんで話したのではなく質問に答えて話したこと、当時は「挺身隊」と「慰安婦」とが混用(混同して使用)されていたこと、などを明らかにしている。
韓さんは1984年から京郷新聞記者、98年に記者を辞め、外資系企業を経て、2015~17年、札幌の韓国総領事館で総領事を務めた。

李英伊さんは、記事で金学順さんの発言を「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた」「挺身隊自体を認めない日本政府」などと書いた。陳述書で李さんは、カギカッコで括った発言は取材相手が言ったとおりに書くものだと、明言している。
李さんは1988年から2005年まで東亜日報記者をした。96年から1年間、慶応大に語学留学、2000~03年に東京特派員を務め、現在医師。 

韓さんの陳述書は東京、札幌両訴訟の控訴審に、李さんの陳述書は同一審に提出された。陳述書は2通とも日本語で書かれた。その全文を以下に紹介する。


■韓恵進さん元京郷新聞記者の陳述書

1 私は、1984年から98年まで韓国の京郷新聞で新聞記者をしておりました。新聞記者を辞めてからは、外資系企業に就職し、その後、政府で働くようになりました。2015年から2017年までは、駐札幌韓国総領事として北海道に赴任しました。したがいまして、日本語はそれなりに話したり書いたりすることができます。私は、今回の裁判で問題になっている植村隆さんの記事について、1991年当時は知りませんでした。私が知ったのは植村さんの裁判が始まった後です。

2 私は、199114日、ソウル市内で金学順さんが行った記者会見を京郷新聞記者として取材し、記事を書きましたので、そのときのことも含めて慰安婦問題について、以下のとおり、陳述いたします。一言ことわっておきたいのですが、この陳述書は元外交官としてではなくて、元ジャーナリストとしての経験や意見に基づいて陳述しいることをご理解頂きたいと思います。

3 まず、199114日、私が金学順さんを取材したときのことを述べたいと思います。後で述べるとおり、韓国では、当時、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉が「従軍慰安婦」「慰安婦」と同じ意味で使われていましたので、金学順さんは記者会見で「私は挺身隊だったと言っていました。また、金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました。

4 また、私は、その記者会見の記事のなかで、金学さんが平壌妓生検番に通った話を書いています。この検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います。妓生は売春婦ではありませんが、貧乏な家の人が多く、あまり他人に自慢する話ではないのに、勇気を持って正直に話してくれており、金学順さんの話は信頼できると思ったので、あえて書いたのだと思います。妓生の経歴と慰安婦にされたこととの間にはなんら関係がありません。

5 韓国において、慰安婦問題は、金学順さんが記者会見する以前にも、主婦向けの雑誌などで匿名の手記や海外からのルポルタージュとして取り上げられることが時々ありましたが、多くのメディアから本格的に注目されるようになったのは、やはり金学順さんが実名で記者会見をしてからだと思います。女性問題に対する関心がいまほど高くはなかったのです。

6 また、当時は、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉と「従軍慰安婦」「慰安婦」という言葉が混用されていました。慰安婦問題とそ被害者を発掘していた市民団体の名前も「挺身隊問題対策協議会」でした。それに対して、勤労女子挺身隊の被害者の側から、そのような言葉の使い方は、自分たちが「慰安婦」だったと誤解されることになりかねないから呼び方を変えた方がよいとの声があがるなどしたこともあって、徐々に「慰安婦」という言葉が浸透していったと覚えています。

7 そして、最初は「従軍慰安婦」という呼び方が主流でしたが、従軍記者などとは違って、慰安婦の場合には自発的な参加ではなくて強制的に連行されたのだから、「従軍」の表現は不適切だという声が大きくなり、「日本軍慰安婦」という言葉が使われるようになりました。

8 さらに、慰安婦<comfort woman>と言う暖昧な表現よりは、「戦時の性奴隷」という表現の方が明確だと指摘されました。特にアメリカのヒラリークリントン国務長官が<sex slave>の言葉を公式的に使ったことによって、この性奴隷の表現が広く使われてきました。しかし、慰安婦の被害者の中には、性奴隷という表現に心的な負担を感じる方もいらっしゃるので、両方の言葉が状況によって混用されることになったと思います。

9 日本帝国主義による植民地統治から解放されて40年も経ってから、慰安婦問題は金学順さんの記者会見以降、社会に広く問題として捉えられるようになり、それから20年のうちに社会の認識が高くなり、さらに議論が活発になって、言葉遺いも「女子挺身隊」「従軍慰安婦」「日本軍慰安婦「戦時の性奴隷」の順序で定着されていったと思います。

10 以上のとおりですので、1991年当時、韓国と日本のジャーナリストの中で「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだったと確信しています。

11 植村さんが書いた記事のリード部分にある「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という表現が問題とされているそうですが、なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ  涙の暴露」という同じ表現があります。
2019年9月15日 

■李英伊さん元東亜日報記者の陳述書

1 私は、現在医師をしていますが、1988年から2005年まで韓国の東亜日報で新聞記者をしていました。1996年から年間慶応大学に語学留学した後、2000年から2003年まで特派員として東京に住んでいましたので、日本語はだいたいわかります。199114日、元従軍慰安婦の金学順さんがソウル市内で初めて記者会見したとき、私はその会見場で金学順さんを実際に取材しましたので、そのときの様子をお話しします

2 私が書いた新聞記事(甲20) を読むと、まず行目に金学順さんが話したカギ括弧中の台詞として「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私がこうやってちゃんと生きているのに、日本は従軍慰安婦を連行した事実がないと言い、韓国政府は知らないなどとは話になりません」と書いています。また、終わりの方では、カギ括弧の中の台詞として「挺身隊自体を認めない日本を相手に告訴したい心境」「韓国政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして日本政府の公式謝罪と賠償を受けるべきだと書いでいます。

3 カギ括弧の中は、紙幅の関係から一部を省略することはあっても取材した相手が言ったとおりに書くものですから、取材対象者が言っていないとを書くことは基本的にはあり得ないことです。ですら、当時、金学順さんが記者会見で「挺身隊」という言葉を使ったのは間違いないことです。

4 当時の韓国では、挺身隊と慰安婦は同じ意味の言葉として使われていましたから、挺身隊と書かれた記事を読んだ場合に勤労挺身隊のことだと思う人は少なかったと思います。私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました

5 すでに述べたどおり、私の記事では、金学順さんの台詞として「挺身隊」 という言葉が回出てきますが、一番最初だけ「挺身隊慰安婦」という書き方をしています。これがどうしてなのか自分でもよく覚えていないのですが、ニつの可能性が考えられます。

6 の可能性は、デスクが書き直しだ可能性です。当時、私は生活部で女性問題を担当していましたが入社年目の若い記者でしたので、取材を終えて本社に戻ってから、この重要な記事の内容や書き方についてデスクや先輩記者3、4人と議論したことを覚えています。その議論のなかで、私が「挺身隊」とだけ書いていた文章を先輩のデスクが正確を期して「挺身隊慰安婦」と書き直した可能性があります。また挺身隊のくだりの後に従軍慰安婦という言葉が出てきますので、前後の文毒のつながりをよくするためにデスクが書き直したのかもしれません。

7 もうーつの可能性は、金学順さん自身が記者会見で実際に「挺身隊慰安婦」と話したので、私がその通りに書いた可能性です。

8 どちらにしろ、記者会見で金学順さんが使ったのは「挺身隊として苦痛を受けた私もしくは「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私という言い方であつて、「慰安婦として苦痛を受けた私という言い方ではありませんでした。

9 また金学さんは記者会見で、16歳になったばかりの私を強制に連れて行ったと語っていました。このときのKBSニュー久映像をYouTubeで見ましたが、私も映っでいます。顔は見えませんが赤い服を着て金学順さんの隣の席に座っているのが私です取材しながら涙がこぼれたことを覚えています。
2017年11月13日