2018年7月6日金曜日

最終意見陳述の全文

2018年7月6日、札幌訴訟第12回口頭弁論(結審)

■伊藤誠一弁護士(植村弁護団共同代表)

口頭弁論の終結に当り、本事案の審理の初頭から今日まで参加させていただいた原告代理人の一人として、2、3申し上げる。

第1.
本事案の、第1回から第12回の本口頭弁論期日まで、傍聴人の抽選が行われ、傍聴席が埋まった。法廷の空気は、毎回緊張感に満ちたものであったといえる。
合議体におかれては、過ぎた緊張感を和らげていただくべく傍聴席への語りかけを含み、的確な訴訟指揮を貫いていただいた。
傍聴券を得るために、その都度、長時間列をつくって並ばれた市民のみなさんの思いには、共通するものがあったであろう。それは市民社会の自由の淵源である言論、表現の自由に関る、平易とは思われない事案の審理を、司法がどのように指揮し、どう裁くのであろうか、という一点に関心を集中させていた、ということではなかったか。

第2.
原告が本事案の審理の対象としたのは、本来、自由・闊達・柔軟であるべき言論空間が、四半世紀前の日本軍慰安婦報道の、記事表現に対する強迫的言辞・威嚇によって歪められ、萎縮させられ、狭隘化させられていた、言論空間において、被告らによって繰り返された原告に対する名誉毀損行為の違法の程度である。

1)本事案の審理を通じてジャーナリズムに期待される清廉性・インテグリティ(integrity)の内容が、本事案の審理を通じて具体的に明らかになったと考える。
まず、原告の記事について、取材の経過とその内容が明らかになった。それを要約すると、原告は真摯な取材に基づいて「確認されうる限り、真実とほとんど同じ真実を伝える」(1933年にユージン・メイヤーが起草したというワシントンポストの基本方針の一つ。ビル・コヴァッチほか編『ジャーナリズムの原則』日本経済新聞社2011年8月、49頁から)という、ジャーナリズムの基本に則って記事を書いた、ということが改めて示された。この四半世紀、その取材方法の正統性や内容の正確性が合理的な根拠をもって問われたことはなかったということがこれを裏付ける。
これに対し、被告櫻井の論文はどうであったであろうか。被告櫻井は、日本軍慰安婦問題について自らとイデオロギーを共有するらしい1、2の研究者と面談し、その書いたものを参照したことはあったようであるが、その余の客観的資料に直接当って、これを読み込むというジャーナリストとして最も基本的な営為を怠ったことが明らかになった。

2)日本軍慰安婦にされた被害者が、いわゆるカミングアウトしたとして、日本で広く報道された初めは、1991年8月14日の金学順さんへの単独インタビュー、金さんによる記者会見以降の、北海道新聞記事、あるいは記者会見を受けた国内報道からである。
被告らは、その数日前に、録音テープの聴き取りなど全う限りの取材にもとづいて書いて成立した記事の、「女子挺身隊の名で戦場に連行され(た)…『朝鮮人従軍慰安婦』のうち一人が」という表現を標的にして、責め立てる。
ところで、真摯な取材結果に基づくこの記事の表現が、何故、読者を誤導させるというのであろうか。被告らは多弁を用いたが、説得的であったとは到底いえなかった。大体において、朝日新聞の購読者のうち、この記事をリアルタイムで目にすることができる人は限られていた。少なくとも関東圏に住む市民は、翌日、東京版の編集された記事によって、はじめて概要を目にすることができたのであり、しかも、被告らが執拗に問題にするその表現の前段はそこになかったのであって、読者はこの表現が前日付けの大阪版の記事に含まれているなどということは知る由もなかったのである。
被告らは、自由であるべき言論空間が、記事をめぐり、原告、その家族や勤務先に危害を加えるという脅迫、暴力的言辞を含み、醜く歪められていたとしか評することができない状況の下で、これを知りつつ、およそ半年間にわたり、6本もの論文によって、「捏造」と断定し、虚偽報道と決めつけて、集中的に攻撃し続けたのである。
しかし、原告への記事と前後して報道された、同じ表現をもってなされた他の複数の報道への批判は全くなかった。被告櫻井は、これらを自らのオフィシャルサイトに今も掲載し続けている。なぜであろうか。それは、朝日新聞記者による朝日新聞の記事であったからに他ならない。
そこに、原告に対する被告櫻井の言説とこれらを媒介する被告出版各社の私的で、特殊扁頗といえる特徴をもつことが見てとれる。換言すると、被告櫻井らによる言論表現に公共性も公益性も読み取ることは困難であるということが、証拠調べの結果明らかになったといえる。

3)言論空間が何人に対しても開かれていることは、民主主義が生命力を保ち続ける上で、絶対に欠かせないことである。日本軍慰安婦をめぐる事実、意見についても同じであって、これをタブー視することを私どもは認めることはできない。
ある歴史的な出来事、事実に言及することが、表現者やその周辺に対する暴力的言辞や強迫を招くということになれば、そのことをテーマにする表現行為が、これに脅え、萎縮してしまいかねない。言論空間に一度この意味での萎縮が生じてしまうと、これをあるべき健全な姿に復元するためには、多くの、並々ならぬ努力・エネルギーが必要であることは、経験的に誰もが知る。
4)話は、当時の言論空間のあり方そのものではないが、合議体には、甲第11号証の末尾に掲載された「負けるな!北星」のアピールについて、バッシングの只中にあって、顕名で賛同した1000名を超える人たちの勇気について思いを馳せていただきたい。
北星学園大学は、本事案にも関連する外からの謂れのない脅迫、暴力的言辞が直接加えられる中にあって、学生の安全と研究の持続をどう保障すべきか、原告の雇用を継続するのか否かを巡り、困難な状態に追い込まれていたことは広く知られたところであったが、北星学園大学は、「大学内外の力に支えられた」と公けに表明しつつ、自治的に雇用継続を決断した事実があったからである。

第3.
この訴訟では、言論の自由、表現の自由の侵害状態を排除して、自由の保証を実現する上で、司法が果たし得る役割も話題になった。
被告櫻井は、本訴訟について、「まるで運動論であるかのように司法闘争を持ち込んだ」とし、その手法は、「言論・報道の自由を害するもの」と述べる(乙イ39陳述書)。果たしてそうであろうか。この訴訟を傍聴された多くの方はそうは思わなかったのではないであろうか。

ちなみに、被告櫻井は週刊文春で、「暴力をあおったことなど一度もない」と述べる。西岡力氏との対談における発言であるが、そのように述べた後、「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」と発言している。これらの発言が、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい―“OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」と題された記事の中でなされていることをみると、それこそ一般の読者は、暴力をあおっていない、という先の言にも拘らず、被告櫻井が「報道の自由を脅かす暴力」を容認していると読み取るであろう。

最近、被告櫻井の訴訟代理人のお一人が、『反日勢力との法廷闘争―愛国弁護士の闘ひ』(展転社、平成30年3月)著書を上梓された。著者は、本訴訟に関連させて「匿名の者による誹謗中傷をとめるために、それとは無関係に堂々と論戦を挑んでいる者に対して裁判を起こすという方法は間違っている」(同書p219)と断定的に述べておられる。
著者が「堂々と論戦を挑んでいる」とされた被告櫻井の各論稿の評価は、これまで述べた言論のあり方をめぐる関係性の下で理解されるべきである、この点につき十分な掘り下げをすることを回避して、本訴訟を「言論の自由と個人の人格権がどのやうに調和されるべきかといふ訴訟である。」と規定しつつ、「どんな場合にも他人の人格権を傷つけてはならないとすると言論が大幅に制限されることになる。」と述べるところ(同書p215)は、遺憾ながら、法の支配の下、個別正義のありようを探る法的思考態度とは相容れないものである、と考える。

合議体におかれては、ジャーナリストである前に、一人の市民であり、生活者である原告が、ある歴史的事実に関ってした表現行為が、その事実の理解をめぐる特定の思潮の下にある人たちにとっては、受け容れ難い、という理由のみで、憎悪が、一瞬にして爆発的に増幅されて拡散するというインターネット社会の特徴が巧みに利用されて、名誉を傷つけられているというべき本事案について、司法的な解決を求めているこの訴訟に相応しい救済をしていただくよう、そして将来起こりかねない類似の例を予め防ぐに足る判断をしていただくよう、改めて求める。


■植村隆さん(植村裁判札幌訴訟原告)

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。
新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。
「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。
この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。
私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。
そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」
金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。
私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。
そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。
そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。
いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。
しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。
あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。
しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。
そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。