2017年8月10日木曜日

灘中攻撃事件に思う

これは北星・植村バッシングの再来だ!

神戸の灘中学校が右翼勢力から有形無形の圧力と攻撃を受けていたことが、ネット上で話題になっている。同校が使っている歴史教科書が反日極左だ、と右翼が騒いだのである。8月2日にジャーナリストの津田大介さんがツイッターで紹介し、すぐに拡散が始まった。神戸新聞や毎日新聞も後追いする形で報じた。 
津田さんは、「灘校の校長が歴史教科書採用を巡って同校に有形無形の『圧力』がかかっていることを具体的に開示、かつ極めて冷静に分析し、いまこの国で起きている『歴史情報戦』がどのような段階にあるのかがわかる声明文。全国民必読の文章では。立派な校長である」とツイッターで書いた。

津田さんが紹介したのは、灘中学高校の和田孫博校長の文章である。その文章は、「謂れのない圧力の中で ~ある教科書の選定について」と題したA4判4ページにわたる長文である。声明文ではなく、研究者グループの定期刊行物に発表した所感というべき文章で、インターネットにもリンクがあり、公開されている(こちら)。
和田校長が克明に書いている経過は、要約するとこうである。
学校への圧力は、ある会合で地元の県会議員が校長を詰問したことから始まった。同校出身の自民党衆院議員による電話質問が続いた。そして、多数の抗議ハガキ投書が届くようになった。連動するように、産経新聞やチャンネル桜、月刊誌WiLLが、抗議行動を煽るようなキャンペーンを繰り広げた。
一部メディアが報じ、それに煽られた人たちが脅迫めいた圧力と攻撃を加える風景は、北星学園と植村隆さんへのバッシングの再現そのものである。リベラルを標的にして萎縮効果を狙うという朝日新聞叩きにも構図がよく似ている。

和田校長は、「この葉書は未だに散発的に届いており、総数二百枚にも上る。届く度に同じ仮面をかぶった人たちが群れる姿が脳裏に浮かび、うすら寒さを覚えた」と書いている。そして、灘中への攻撃は正体不明の人間や組織ではなく、公然と名乗る人物の呼びかけによって行われていることも明らかにしている。

その人物は、自称近現代史研究家の水間政憲氏だという。水間氏は「WiLL」2015年6月号に「エリート校麻生・慶應・灘が採用したトンデモ歴史教科書」という20ページにおよぶ記事を掲載し、CSテレビ「文化チャンネル桜」でも同様の内容を話した。さらに「水間条項」という自身のブログで、具体的な文例を複数示して抗議のハガキを送るように呼びかけ、送り先(採択校)の学校名、住所、理事長名、校長名、電話番号を列挙した。

和田校長はこれらの経過を振り返り、「検定教科書の選定に対する謂れのない投書に関しては経緯がほぼ解明できたので、後は無視するのが一番だと思っているが、事の発端になる自民党の県会議員と衆議院議員からの問い合わせが気になる」とし、「多様性を否定し一つの考え方しか許されないような閉塞感の強い社会」の到来に警鐘を鳴らしている。和田校長は灘中、灘高から京大に進み、卒業後は灘中高で英語を教えてきた。この文章から、教育者としての強い信念と気骨が伝わってくる。実名で公表するその勇気。東の前川さん(前文科次官)、そして西の和田さん。拍手を送ります。

ところで、右翼が騒ぐこの教科書とは、どういうものか。
「学び舎」という出版社(東京・立川市)が発行している「ともに学ぶ人間の歴史――中学社会/歴的分野」である。A4、オールカラー、324ページの大型教科書である。重量は865グラム、ズシリと重い。文部科学省公認の検定教科書である。灘中のほかに麻生、慶応、筑波大付属駒場、学芸大附属など有名私立、国立中学校など約40校で採用されているという。執筆陣は「子どもと学ぶ歴史教科書の会」の会員32人で、中学・高校の教員とOBが多い。2015年秋に初めて検定を通り、翌年度から採択が始まった。

では、この教科書で慰安婦はどう扱われているのか。
詳細を知りたくて、アマゾンから現物を取り寄せてみた。すると意外なことに、「慰安婦」という言葉は目次にも索引にもなく、本文にわずかに1カ所あるだけなのである。それも、地の文ではなく、1993年の河野官房長官談話の一部要約(281ページ)に「調査の結果、長期に、広い地域に、慰安所が設けられ、数多くの慰安婦が存在したことが認められる。朝鮮半島からの慰安婦の募集、移送などは、総じて本人たちの意思に反して行われた」とあるのみ。しかも、この記述には※印の注記(「現在、日本政府は慰安婦問題について、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない、との見解を表明している」)が付けられている。注記の不自然なレイアウトからすると、検定作業の段階で付記の追加が求められたことがうかがわれる。

いったい右翼が標的としなければならない記述はどこにあるのだろうか。
ページを何度めくってみてもわからない。何か別の理由があるのかもしれない。そういえば、和田校長は、こんなことも書いている。
「産経新聞がこのことを記事にしたのには、思想的な背景以外に別の理由もありそうだ。フジサンケイグループの子会社の「育鵬社」が『新しい日本の歴史』という教科書を出している。新規参入の「学び舎」の教科書が予想以上に多くの学校で、しかも「最難関校と呼ばれる」(産経新聞の表現)私学や国立大付属の中学校で採択されたことに、親会社として危機感を持ったのかもしれない」。
なあんだ、古手の出版社の親会社が新参のライバル出版社をいじめているということなのか。せこい話ではないか。

さて、これからは余談である。この教科書にざっと目を通してたいへん驚いたことがある。有名進学受験校が競って採用するからには、受験用知識とノウハウがてんこ盛りの教科書かと思いきや、そうではなく、従来の教科書とはまったくちがったコンセプトで作られているのである。太古から現代までを連続した通史として書くのではなく、歴史上の大きなできごとを時代順に見開き2ページにおさめる構成で、写真や囲み記事もふんだんに使われており、ビジュアルな歴史図鑑といったほうがいい。目次から、各記事の見出しをいくつかピックアップしてみよう。
▽家族と別れる防人の歌……奈良時代の庶民▽岩に刻んだ勝利……土一揆と戦乱▽裏長屋に住む棒手振……江戸の町の暮らし▽バスチーユを攻撃せよ……フランス革命▽政治が売り切れた……江戸幕府の滅亡▽民衆がつくった憲法……五日市憲法▽土地を奪われた朝鮮の農民……韓国併合▽パンを、平和を、土地を……ロシア革命と平和▽独立マンセー……民族運動の高まり▽始まりは女一揆……米騒動と民衆運動▽鉄道爆破から始まった……日本の中国侵略▽餓死、玉砕、特攻隊……戦局の転換▽荒れ狂う鉄の暴風……沖縄戦▽にんげんをかえせ……原爆投下▽もう戦争はしない……日本国憲法▽ゴジラの怒り、サダコの願い……原水禁運動▽国会を包囲する人波……日米安保条約の改定▽問い直される戦後……日中国交正常化と東アジア▽平和という言葉……人間らしく生きる

ここで際立つのは、歴史的な事実を無味乾燥に羅列するのではなく、その時代を生きた民衆、市民、弱者に重きを置く視線と平和主義を貫く姿勢である。いずれも、老境のわが記憶の中ではすっかり風化してしまった史実ではあるが、右翼にとっては子どもたちに知ってほしくない史実にちがいない、だから執拗に騒ぐのだろう。それにしてもこの教科書のどこが反日極左なのか。騒いでいる人たちの読解力の低さに呆れるしかない。そして、灘中への圧力と攻撃は、北星・植村バッシング、朝日叩きと同じ根っこでつながっている、と思う。
(文・北風三太郎)

以下は和田孫博校長の文章の全文引用です
書式は変えてます
本年とあるのは2016年、昨年は2015年です
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謂れのない圧力の中で
―ある教科書の選定について
和田孫博

本校では、本年四月より使用する中学校の歴史教科書に新規参入の「学び舎」による『ともに学ぶ人間の歴史』を採択した。本校での教科書の採択は、検定教科書の中から担当教科の教員たちが相談して候補を絞り、最終的には校長を責任者とする採択委員会で決定するが、今回の歴史教科書も同じ手続きを踏んで採択を決めており、教育委員会には採択理由として「本校の教育に適している」と付記して届けている。
ところが、昨年末にある会合で、自民党の一県会議員から「なぜあの教科書を採用したのか」と詰問された。こちらとしては寝耳に水の抗議でまともに取り合わなかったのだが、年が明けて、本校出身の自民党衆議院議員から電話がかかり、「政府筋からの問い合わせなのだが」と断った上で同様の質問を投げかけてきた。今回は少し心の準備ができていたので、「検定教科書の中から選択しているのになぜ文句が出るのか分かりません。もし教科書に問題があるとすれば文科省にお話し下さい」と答えた。「確かにそうですな」でその場は収まった。
しかし、二月の中頃から、今度は匿名の葉書が次々と届きだした。そのほとんどが南京陥落後の難民区の市民が日本軍を歓迎したり日本軍から医療や食料を受けたりしている写真葉書で、当時の『朝日画報』や『支那事変画報』などから転用した写真を使い、「プロデュース・水間政憲」とある。それに「何処の国の教科書か」とか「共産党の宣伝か」とか、ひどいのはOBを名乗って「こんな母校には一切寄付しない」などの添え書きがある。この写真葉書が約五十枚届いた。それが収まりかけたころ、今度は差出人の住所氏名は書かれているものの文面が全く同一の、おそらくある機関が印刷して(表書きの宛先まで印刷してある)、賛同者に配布して送らせたと思える葉書が全国各地から届きだした。文面を要約すると、

「学び舎」の歴史教科書は「反日極左」の教科書であり、将来の日本を担っていく若者を養成するエリート校がなぜ採択したのか?こんな教科書で学んだ生徒が将来日本の指導層になるのを黙って見過ごせない。即刻採用を中止せよ。

というものである。この葉書は未だに散発的に届いており、総数二百枚にも上る。届く度に同じ仮面をかぶった人たちが群れる姿が脳裏に浮かび、うすら寒さを覚えた。
担当教員たちの話では、この教科書を編集したのは現役の教員やOBで、既存の教科書が高校受験を意識して要約に走りすぎたり重要語句を強調して覚えやすくしたりしているのに対し、歴史の基本である読んで考えることに主眼を置いた教科書、写真や絵画や地図などを見ることで疑問や親しみが持てる教科書を作ろうと新規参入したとのことであった。これからの教育のキーワードともなっている「アクティブ・ラーニング」は、学習者が主体的に問題を発見し、思考し、他の学習者と協働してより深い学習に達することを目指すものであるが、そういう意味ではこの教科書はまさにアクティブ・ラーニングに向いていると言えよう。逆に高校入試に向けた受験勉強には向いていないので、採択校のほとんどが、私立や国立の中高一貫校や大学附属の中学校であった。それもあって、先ほどの葉書のように「エリート校が採択」という思い込みを持たれたのかもしれない。
三月十九日の産経新聞の一面で「慰安婦記述三十校超採択̶̶「学び舎」教科書灘中など理由非公表」という見出しの記事が載った。さすがに大新聞の記事であるから、「共産党の教科書」とか「反日極左」というような表現は使われていないが、この教科書が申請当初は慰安婦の強制連行を強くにじませた内容だったが検定で不合格となり、大幅に修正し再申請して合格したことが紹介され、本年度採用校として本校を含め七校が名指しになっていた。本校教頭は電話取材に対し、「検定を通っている教科書であり、貴社に採択理由をお答えする筋合いはない」と返事をしたのだが、それを「理由非公表」と記事にされたわけである。尤も、産経新聞がこのことを記事にしたのには、思想的な背景以外に別の理由もありそうだ。フジサンケイグループの子会社の「育鵬社」が『新しい日本の歴史』という教科書を出している。新規参入の「学び舎」の教科書が予想以上に多くの学校で、しかも「最難関校と呼ばれる」(産経新聞の表現)私学や国立大付属の中学校で採択されたことに、親会社として危機感を持ったのかもしれない。
しかしこれが口火となって、月刊誌『Will』の六月号に、近現代史研究家を名乗る水間政憲氏(先ほどの南京陥落写真葉書のプロデューサー)が、「エリート校―麻布・慶應・灘が採用したトンデモ歴史教科書」という二十頁にも及ぶ大論文を掲載した。また、水間政憲氏がCSテレビの「日本文化チャンネル桜」に登場し、同様の内容を講義したという情報も入ってきた。そこで、この水間政憲氏のサイトを覗いてみた。すると「水間条項」というブログページがあって、記事一覧リストに「緊急拡散希望《麻布・慶應・灘の中学生が反日極左の歴史教科書の餌食にされる;南京歴史戦ポストカードで対抗しましょう》」という項目があり、そこを開いてみると次のような呼びかけが載っていた。

私学の歴史教科書の採択は、少数の歴史担当者が「恣意的」に採択しているのであり、OBが「今後の寄付金に応じない」とか「いつから社会主義の学校になったのか」などの抗議によって、後輩の健全な教育を護れるのであり、一斉に声を挙げるべきなのです。
理事長や校長、そして「地歴公民科主任殿」宛に「OB」が抗議をすると有効です。

そして抗議の文例として「インターネットで知ったのですが、OBとして情けなくなりました」とか「将来性ある若者に反日教育をする目的はなんですか。共産党系教科書を採用しているかぎり、OBとして募金に一切応じないようにします」が挙げられ、その後に採択校の学校名、学校住所、理事長名、校長名、電話番号が列挙されている。本校の場合はご丁寧に「講道館柔道を創立した柔道の神様嘉納治五郎が、文武両道に長けたエリート養成のため創設した学校ですが、中韓に媚びることがエリート養成になるような学校に変質したようです。嘉納治五郎が泣いていますね……」という文例が付記されている。あらためて本校に送られてきた絵葉書の文面を見ると、そのほとんどがこれらの文例そのままか少しアレンジしているだけであった。どうやらここが発信源のようだ。
この水間氏はブログの中で「明るい日本を実現するプロジェクト」なるものを展開しているが、今回のもそのプロジェクトの一環であるようだ。ブログ中に「1000名(日本みつばち隊)の同志に呼び掛け一気呵成に、『明るい日本を実現するプロジェクト』を推進する」とあり、いろいろな草の根運動を発案し、全国にいる同志に行動を起こすよう呼びかけていると思われる。また氏は、安倍政権の後ろ盾組織として最近よく話題に出てくる日本会議関係の研修などでしばしば講師を務めているし、東日本大震災の折には日本会議からの依頼を受けて民主党批判をブログ上で拡散したこともあるようだが、日本会議の活動は「草の根運動」が基本にあると言われており(菅野完著『日本会議の研究』扶桑社)、上述の「日本みつばち隊」もこの草の根運動員の一部なのかもしれない。
このように、検定教科書の選定に対する謂れのない投書に関しては経緯がほぼ解明できたので、後は無視するのが一番だと思っているが、事の発端になる自民党の県会議員や衆議院議員からの問い合わせが気になる。現自民党政権が日本会議を後ろ盾としているとすれば、そちらを通しての圧力と考えられるからだ。ちなみに、県の私学教育課や教育委員会義務教育課、さらには文科省の知り合いに相談したところ、「検定教科書の中から選定委員会で決められているのですから何の問題もありません」とのことであった。そうするとやはり、行政ではなく政治的圧力だと感じざるを得ない。
そんなこんなで心を煩わせていた頃、歴史家の保坂正康氏の『昭和史のかたち』(岩波新書)を読んだ。その第二章は「昭和史と正方形̶̶日本型ファシズムの原型̶̶」というタイトルで、要約すると次のようなことである。

ファシズムの権力構造はこの正方形の枠内に、国民をなんとしても閉じこめてここから出さないように試みる。そして国家は四つの各辺に、「情報の一元化」「教育の国家主義化」「弾圧立法の制定と拡大解釈」「官民挙げての暴力」を置いて固めていく。そうすると国民は檻に入ったような状態になる。国家は四辺をさらに小さくして、その正方形の面積をより狭くしていこうと試みるのである。

保坂氏は、満州事変以降の帝国憲法下の日本では、「陸軍省新聞課による情報の一元化と報道統制」「国定教科書のファシズム化と教授法の強制」「治安維持法の制定と特高警察による監視」「血盟団や五・一五事件など」がその四辺に当たるという。
では、現在に当てはめるとどうなるのだろうか。第一辺については、政府による新聞やテレビ放送への圧力が顕在的な問題となっている。第二辺については、政治主導の教育改革が強引に進められている中、今回のように学校教育に対して有形無形の圧力がかかっている。第三辺については、安保法制に関する憲法の拡大解釈が行われるとともに緊急事態法という治安維持法にも似た法律が取り沙汰されている。第四辺に関しては流石に官民挙げてとまではいかないだろうが、ヘイトスピーチを振りかざす民間団体が幅を利かせている。そして日本会議との関係が深い水間氏のブログからはこれらの団体との近さがにじみ出ている。もちろん現憲法下において戦前のような軍国主義やファシズムが復活するとは考えられないが、多様性を否定し一つの考え方しか許されないような閉塞感の強い社会という意味での「正方形」は間もなく完成する、いやひょっとすると既に完成しているのかもしれない。