2016年12月26日月曜日

札幌12.16集会

札幌訴訟の第5回口頭弁論の後に開かれた報告集会の詳報です。弁護団報告のあと、植村隆さんの韓国報告と、渡辺美奈さんの講演「『慰安婦』問題の現在」がありました。(2016年12月16日、札幌市教育文化会館、参加120人)

植村さんは報告の中で、韓国カトリック大学客員教授としての雇用が来年度も継続されることを公表し、参加者の大きな拍手を受けていました。また、教員生活の充実感や、パク・クネ政権のスキャンダルに揺れる韓国現代史の現場にジャーナリストとして立ち会える喜びを語り、「植村バッシングをした人に感謝しなければならないかも」とジョークを交えて参加者を笑わせていました。

渡辺さんは、10月にあったwamへの攻撃、1970年代にあった「慰安婦」報道の経過などを語った後、アジア各国に広がる被害の実態を細かく紹介し、wamの活動への支援を呼びかけました。

植村隆さんの報告 ―― 「今日まで、そして明日から」

■7という数字と韓国との縁
韓国で9月、手記『真実』の韓国語版が出たおかげで(新たな)人の輪ができた。韓国の有名な元新聞記者で私立大の副総長をしている方が植村の話を聞く会を開いてくれた。(9月末の記者会見の写真を示し)韓国メディアからも好意をもって受け止められた。

大学の授業のテーマは「東アジアの平和と文化」。後期は30数人が受講し、1213日が最後の授業だった。火曜日の3時間授業で、1時間はみんなで新聞を読む。「韓国経済新聞」を教材として無料で提供してもらっている。授業では討論し、記事のスクラップが宿題。最後の授業では学生たちから感謝された。

11月の帰国時にショックを受けた。wam(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」)に爆破予告はがきが来たという。私が受けたのと同じパターンの脅迫。「日本の戦争責任資料センター」の季刊誌にwamへの攻撃について書いた。どんどん書いて連帯をアピールしていきたい。

1981年に初めて韓国に行った。韓国の問題を一生考えていこうと思った大きな機会。それがまた来た。7という数字に縁がある。87年に韓国に語学留学した。87年は民主化運動が盛り上がった。6月の民主化宣言を機に大統領直選制の導入言論の自由の承認金大中氏の政治的自由(復権)――ということが起きた。
97年にソウル特派員になり、金大中氏を追いかけた。金大中氏が9712月の大統領選挙で当選したニュースを1面に署名入りで書いた。韓国現代史を最前線で記録したいという大きな願いが実現した。
授業で韓国現代史を取り上げている。金大中大統領時代、日韓共同宣言が出された。日本は小渕首相。植民地支配を初めて謝罪し、「未来志向の関係を」と約束した。日本の大衆文化が韓国で開放され、韓国からは冬ソナが日本に入ってきた。南北首脳会談もあった。学生に課した後期のレポートのテーマは「金大中について」とした。

■韓国現代史、3つの現場に
韓国ではパク・クネ大統領の親友による国政介入などさまざまな問題が噴出し、市民がローソクを持ってデモをしている。それを見に行っている。驚くのはデモ・集会の最前線でも警察とぶつかっていないこと。87年の留学時、まちのいたるところで毎日のように催涙弾が発射されていた。
市民は「下野しろ」「逮捕しろ」と叫んでいるが、警察は武力で鎮圧していない。韓国の現代史では珍しい。あまりにもたくさんの人が立ち上がっているから力で弾圧できない。平和的に政治を変えようという大きな動きは市民革命ではないかとまで言われている。
たまたま、父親が娘らしい少女とローソクを持って写真を撮っていた。この娘は大人になってどのようにこの場面を記憶するのだろうか。歴史を動かす主人公は人々、ファミリーなんだと感動した。

カトリック大学校内の雑誌にパク・クネの特集とともに私の記事もある。「ファイティング・フォー・ジャスティス 決然とした日本のジャーナリスト」という過大な評価。本質を見抜いているなあ(笑い)という歴史的な雑誌だ(笑い)。
パク・クネが政治家になった時、日本の記者で最初にインタビューした。孤独な人という印象がある。大統領選挙が早まり、2017年春には大きな動きがある。私は実は来年もカトリック大学校で教えることになった(会場拍手)。1987年は留学生、1997年は特派員として、2017年は大学教員兼フリージャーナリストとして韓国現代史の中で現場を見られる。植村バッシングをした人に感謝しなければならないかもしれない(笑い)。こんな時期に韓国にいられるのはラッキーなこと。ますます日韓を行ったり来たりすることになるだろう。
生まれ変わった気持ちで来年も頑張ろうと思う。皆さん、今年1年間、お世話になりました。日韓を結ぶ橋の役割をしながら、裁判闘争を来年も頑張るつもりでいる。

渡辺美奈さんの講演 ―― 「慰安婦」問題の現在 


<わたなべ・みな アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)事務局長。日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の共同代表>


■正論、櫻井らが名指しでwam攻撃 
先日wamに爆破予告のハガキが届きました。文面は「爆破する 戦争展示物撤去せよ 朝日赤報隊」。警察への被害届と別に「言論を暴力に結びつけない社会」の実現を各メディアに呼びかけたところ、植村裁判を支える市民の会から心強い応援声明を受け取りました。
amは、女性国際戦犯法廷(2000年)を提案・主導した松井やよりさんの遺言で05年に開設しました。この法廷で有罪とされた日本軍性奴隷制の責任者、天皇裕仁ら9人の写真パネルなどを常設展示しています。当初から様々な攻撃を受けてきましたが、ユネスコの世界記憶遺産に「日本軍『慰安婦』の声」の登録申請が5月末公表されてから、様相が変わって来ました。
登録を推薦した日本側委員会の住所と代表はwamとダブります。産経新聞や月刊誌『正論』、週刊新潮などに櫻井よしこらが名指しでwam攻撃を書き続けています。ネットに「日本の中の敵はこいつらだ」という書き込みもあります。爆破予告は初めてでしたが、支える会の声明で、みんなが関心を持って見てくれていると感じました。ありがとうございます。

この運動に20数年かかわっていますが、植村隆さんの名前を聞いたのはバッシングが始まっていた数年前です。その後朝日新聞の慰安婦問題検証特集が出ましたが、中途半端で奥歯に物が挟まったような説明でした。けんかの仕方を知らず、ヤクザ相手に「話せば分かる」と出掛けてボコボコにされた、ナイーブなエリート集団という感じです。

昨年1月、植村さんが東京地裁に提訴した日の報告集会で「これは報道の自由の問題だ」「民主主義の問題なんだ」と強調する発言が大変気になりました。勝つためには色々な闘い方があります。しかし「慰安婦」問題は、女性に対する重大な人権侵害であること、日韓の首脳が両国の安全保障についても話し合えない事態を生んでいるという問題意識を、感じられませんでした。

■70年代には「慰安婦」報道はあったが議論はなかった
韓国に住んでいる元朝鮮人従軍慰安婦の証言を初めて書いた植村さんの朝日新聞記事(1991年8月11日付)は、韓国紙に転載されることもなく、運動に影響を与えることはなかった。3日後に金学順さん本人が名乗り出た記者会見は韓国で大きく報道されましたが、読売新聞も毎日新聞もほとんど書いていません。
1970年代から新聞、テレビの報道、ルポ、書籍などで「慰安婦」として被害を受けた女性たち(渡辺さんはそれぞれのケースを説明)の具体的な存在が、顔や住所と一緒に紹介されてきました。ベストセラーになった本もあります。しかしちゃんとした議論がされず問題性を理解されずに来たため、この記者会見が日本できちんと報道されなかったのだと思います。

韓国で自ら名乗り出た日本軍「慰安婦」は初めてだったし、自分たちが受けた被害の責任を追及して日本政府を東京地裁に訴えた(91年12月)のも金学順さんたちでした。被害者が名乗り出たことは様々な国で報道されました。新聞を読めない人には、ラジオが有効な名乗り出呼び掛けの手段でした。
しかし「何で今ごろ」「安心できる人がちゃんと聞いてくれるだろうか」「周囲に知られ、さげすまれないか」「話した後ほったらかしにされるのでは」等々、呼び掛けに反応できなかった人は少なくなかった。被害女性を支える運動がないところでは、名乗り出られないのです。でもフィリピン、台湾、インドネシア人などの女性150余人が名乗り出ました。

amで第14回特別展「地獄の戦場 ビルマの日本軍慰安所」を開催中です。朝鮮半島から連行され慰安所で17歳になった女性の証言、大英帝国戦争博物館所蔵の日本軍駐屯地勤務規定、慰安所利用規定、軍指定の慰安所配置図、そこに入れられた女性の国籍や定休日表が展示されています。名乗り出がなく、ビルマ人女性の被害実態は分かっていません。
日本軍侵攻地域の慰安所はインドから東南アジア、南洋諸島まであり、船などで連れてこられました。目的地に到着させるには「いい仕事がある」「看護婦になれる」など夢を持たせる必要がありました。現地調達したインドネシアやフィリピンでは移動させる必要はありません。でも「意に反する連行」であることは同じでした。
「慰安婦」の総数は想像がつきません。日本兵300万人の侵攻地域で兵100人に1人の割合だったのか、200人に1人か、それとも30人に1人かで計算するしかなく「数は分かりません」と答えています。

■来年4月に「慰安婦」博物館会議を開催
インドネシア展を昨年度開きました。女性たちの被害証言と、元兵士が戦後書いた手記から「慰安婦」をどう記憶しているか比べるため、同じサイズで並べました。ある元軍医は、慰安所の部屋に入った兵士が出て来るまでの時間をストップウォッチで計ったら平均5分だったと書いていました。
鶴見俊輔は「18歳ぐらいの真面目な少年が戦地から日本に帰れないことが分かり、現地で40歳の慰安婦にわずか1時間でもなぐさめてもらう。そのことにすごく感謝している。そういうことが実際にあったんです。この1時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う」と97年に回想しています。

ある女性は突然家にやってきた5人の日本兵に「駐屯地で働け」とトラックに乗せられたこと、1年ぐらいで部隊は移動したが性病になっていたため残され、3カ月かかって帰宅したと証言しています。楽しそうに思い出している兵士の手記と被害女性の証言の、どっちを戦争の記憶として伝えたいか考えてもらうため、何の説明もつけませんでした。
「慰安婦」問題は90年代になって、戦時性暴力問題という国際的うねりに結びついていきました。旧ユーゴスラヴィアやルワンダの内戦は民族浄化という虐殺、おびただしい集団強姦を伴いました。しかし戦争によって女性に集中する性暴力の責任を女性が問うには、戦争が終わり、告発しても殺されない程度の平和が必要です。だからこれまで責任者は裁かれてきませんでした。

戦時性暴力が追及を受けずにいるのは、未来の戦争で起きても処罰されないということです。しかしアジアの女性たちは顔を見せ、堂々と50年前の被害を告発しました。内戦が続く旧ユーゴの被害者と日本軍「慰安婦」の出会いなどが国際的うねりとなり、人道に対する罪、戦争犯罪を犯した個人を訴追する国際刑事裁判所の誕生(98年)となりました。
「慰安婦」などなかったことにしようとする風潮が広がっており、被害の実態とその歴史を伝える日本軍「慰安婦」博物館の役割は、極めて重要になってきました。韓国、日本、中国、フィリピン、今月開館した台湾と計8館があります。博物館同士で情報を共有し連帯した活動を起こしていく場として来年4月1日、第1回日本軍「慰安婦」博物館会議を東京で開きます。みなさんのご支援をどうぞよろしくお願いします。

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報告と講演のまとめ text by T.Y & H.H