2019年10月29日火曜日

決定的な新証拠提出


 速報    第1回東京控訴審


金学順さんが語った証言テープに、キーセンという言葉はひとこともなかった。だから植村氏はキーセンのことを記事に書かなかった。取材相手が言わなかったことを書かなかった記事がなぜ「捏造」呼ばわりされるのか!
 
植村裁判東京訴訟控訴審の第1回口頭弁論は29日午前、東京高裁で開かれた。
植村弁護団は、控訴審の開始にあたり、一審判決後に新たに発見、発掘した37点の証拠を提出した(甲176~212号証)。その中には、植村氏の記事が「捏造」ではないことを証明する具体的で決定的な証拠がある。西岡力氏が植村氏の記事を「捏造」ときめつけた根拠は完全に崩れたといっていいだろう。書面に基づく意見陳述では、一審判決には法理論と判例に照らして重大な誤りがあり、異常な判決であることを具体的に指摘した。
西岡力氏の責任を免じた東京地裁判決から4カ月。舞台を高裁に移した東京訴訟は、決定的な証拠が提出されたことで、大きな転機を迎え新しいフェーズに入った。
次回は12月16日(月)午後3時30分に開かれ、同日に結審する見通しとなった。

■2時間にわたる生々しい証言
決定的な証拠は、金学順さんの証言が録音されたテープである。
金さんは1991年11月、日本政府に補償と謝罪を求めた戦後補償裁判の原告に加わり、その裁判の弁護団の聞き取りに応じて証言をした。録音テープはそのときのものである。金さんは約2時間にわたり、弁護団長の高木健一弁護士の質問に対して、時に口ごもりながら、怒りと悔恨の気持ちを交え、慰安婦とされた経緯、慰安所での生活、性暴力被害を語っている。植村氏はこの時、取材記者として弁護団に同行していた。録音は植村氏がした。高木弁護士と金さんの一問一答が終わった後の最後の約5分間には、植村氏が金学順さんと韓国語で直接交わしたやりとりも収められている。
植村氏はこの録音テープをもとに、金さんの半生を紹介する記事を書いた。91年12月25日付の朝日新聞大阪本社版「語りあうページ」の記事で、見出しは「かえらぬ青春 恨の反省――日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、前文には「弁護士らの元慰安婦からの聞き取りに同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する」とある。
この記事を、西岡氏は「捏造」と決めつけた。西岡氏は「この12月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関するキーセンに売られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」と断定している(『増補新版 よくわかる慰安婦問題』草思社)。この記事が、植村記事の捏造決めつけの重要な根拠とされているのである。
ところが、このテープで金さんは「キーセン」という履歴を語っていない。いや、それどころか、「キーセン」という言葉すらひとことも発していない。金さんが言わなかったことを植村氏は書かなかった。それがどうして捏造とされるのか。

植村弁護団の事務局長、神原元弁護士は、法廷でこう陳述した。「植村さんは取材相手が話さなかった事実を記事にしなかったに過ぎない。それが捏造といえるはずがないではないか。それだけではない。証言テープの内容は記事の内容と詳細に一致している。これは、植村さんには事実をねじ曲げる意図がなかったことの端的な証であり、記事が捏造ではないことの具体的かつ決定的な証拠である」。植村氏の怒りも大きい。植村氏はこう述べた。「金学順さんがテープの中で語っていないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、捏造だと言えるはずがないではありませんか」。(神原弁護士と植村氏の陳述全文は後掲)

■金さんの遺族会入会の日付
決定的な証拠はまだある。金さんは、戦後補償裁判に原告として参加する際に、植村さんの義母が役員を務める韓国太平洋戦争犠牲者遺族会に入会した。その時に提出した入会願書も今回、証拠として提出された。重要なのはその日付である。日付欄には1991年11月とある(日にちの記載はない)。西岡氏は植村氏が同年8月に書いた記事について、「義母の裁判を有利にする意図があった」とし、それも捏造決めつけの根拠とした。しかし、植村氏は義母から取材の便宜を受けたことはなく、金学順さんを取材したのは朝日新聞ソウル支局からの情報によってだった。入会願書の日付からみて、植村氏が記事を書いた時、金学順さんは義母の裁判にかかわっていなかったことも明らかであり、西岡氏の主張はここでも崩れるのである。

このほか、キーセンという職業が戦前の朝鮮でどのように見られていたかがわかる資料(雑誌、報告書、取締規則など7点)も証拠提出された。キーセンは、戦前の韓国社会では歌舞音曲に秀で、教養も備えた女性が就く職業(芸妓)として認められていた。売春を業とした娼妓とは異なっていた。証拠資料はそのことを具体的に示している。西岡氏は金学順さんが「キーセン学校に通っていた」「キーセンに身売りされた」などと語ったということにこだわり、慰安婦になった売春婦、という言説を執拗に繰り返している。これらの証拠は、そのような偏見に満ちた差別意識を否定するものである。

■次回12月16日の結審の可能性大
法廷は午前10時30分に開廷した。この日、東京は朝から晩秋の冷たい雨が降っていた。
開廷に先立って傍聴するための抽選が予想されたが、整列した希望者は101号法廷の定員(90人)に満たなかったため、約60人が無抽選で傍聴席に座った。
定刻に裁判官3人が入廷した。中央の裁判長は白石史子・高裁民事第2部総括判事。左右に角井俊文、大垣貴靖両判事が陪席した。白石裁判長は、さいたま市の公民館が憲法九条について詠んだ俳句の月報掲載を拒否したことをめぐる損害賠償訴訟で、掲載拒否に正当な理由はないとして表現の自由の侵害を認めた一審判決を支持し、さいたま市に賠償を命じている(昨年5月。賠償額は5万円から5千円に減額)。また、日本郵便の契約社員3人が手当てや休暇付与で正社員と格差があるのは不当だと訴えた裁判では、損害賠償を命じた一審判決を変更し、賠償額を増額した(昨年12月)。
弁護団は、中山武敏弁護団長はじめ、宇都宮健児、梓澤和幸、黒岩哲彦弁護士ら17人が勢ぞろいし、札幌弁護団からも秀嶋ゆかり弁護士が参加した。一方、西岡氏・文春側は喜田村洋一弁護士ともうひとりの計2人。いつものように西岡氏の姿はなかった。

植村弁護団の意見陳述は、穂積剛弁護士、神原元弁護士、植村氏の順で行われた。穂積弁護士は、一審判決に欠落している重大な問題点を中心に、控訴理由の骨子の核心部分を約10分にわたって論述した。神原弁護士と植村氏は、金学順さんの証言録音テープがきわめて重要であることを中心に陳述した(神原弁護士4分、植村氏7分)。西岡弁護団からは意見の開陳はなかった。
この後、裁判官はいったん退廷して合議に入ったが、1分後に戻り、次回期日について協議をした。結果、第2回口頭弁論は12月16日(月)午後3時30分から開くことになった。白石裁判長は、「書面は11月中に提出して下さい。次回で結審することもあり得ます」と述べ、午前11時ちょうどに閉廷した。

裁判報告集会は午後2時過ぎから、参議院議員会館会議室で開かれた。
この日の裁判について神原、穂積両弁護士が解説をまじえて報告し、札幌の秀嶋弁護士は札幌訴訟の結審までの足取りを報告した。新たに提出された証拠の重要な意味については、ジャーナリストの長谷川綾氏もポイントをわかりやすく解説した。映画「標的」の短縮版も上映され、西嶋真司監督が解説トークを行った。
午後4時過ぎに閉会。雨の平日の午後、参加者は約60人だった。

小雨の中、裁判所に向かう。前列左から、中山武敏弁護団長、
植村氏、神原弁護士(東京高裁前で、高波淳・撮影、29日)
報告集会は参議院会館で開かれ、約60人が参加した

■神原弁護士の意見陳述(全文)
高裁において提出する新証拠について若干ご説明した上で、意見を申し上げます。
なにより重要なのは、91年11月の、金学順氏の証言テープであります。当該「証言テープ」には「妓生」に関する証言はありません。西岡氏は「妓生」の記載がないことを理由に植村記事を「捏造」と決めつけてきました。しかし、控訴人は取材相手が話さなかった事実を記事にしなかったに過ぎません。それが「捏造」等といえるはずがないではありませんか。それだけではありません。「証言テープ」の内容は、記事Bの内容と詳細に一致しております。これは、控訴人には事実をねじ曲げる意図がなかったことの端的な証であり、この証言テープは、記事が「捏造記事」ではないことの具体的かつ決定的な証拠であります。

「遺族会入会願書」(甲201)も重要です。甲201の日付けからすれば、記事Aが発表された段階で、金学順氏は「義母の裁判」に関わっていなかったことが明らかです。ならば、記事Aを執筆するに際し、控訴人において「義母の裁判を有利にする意図」等あるはずがないではありませんか。
このように、植村氏の記事を「捏造」とするのは事実として間違いです。しかし、被控訴人らは、それでも、妓生の経歴こそ「事柄の本質」だと主張するかもしれません。この点、私たちは、妓生は性売買が予定された存在ではなかったこと、むしろ歌や踊りに秀でた芸人であったことを示す多くの証拠を提出しました。妓生は公娼(売春婦)でもなければ、慰安婦でもありません。妓生の経歴に触れずに慰安婦の証言を書くことは、歴史的にみて、何の問題もありません。まして「捏造」とされる謂われがあるはずないではありませんか。

百歩譲って、「妓生=公娼(すなわち売春婦)」という西岡氏の思い込みを前提にしたとしましょう。甲196号証の、金氏の証言内容をご覧ください。28年前に植村氏が聞いたのは、戦争当時17歳の少女が受けた、生々しい、戦時性暴力の被害証言です。性犯罪の被害者の証言を記事に書く際に、「彼女は実は公娼(すなわち売春婦)だった」等と普通書くでしょうか。それを書かかなければ「捏造」だ等というのは言いがかり以外のなんなのでしょうか。

植村氏の記事を「捏造」だ、などと決めつけるのは、事実としても、歴史としても、そして、倫理的にも、誤ったことであります。戦時性暴力に厳しく向き合うのは90年代以降の世界の趨勢であり、性暴力被害証言を歪める東京地裁の判決は、まさに世界の恥さらしであります。
今回提出した新証拠に正面から向き合って頂き、公正な判決を下すよう、お願いする次第であります。


■植村隆氏の意見陳述(全文)
私はこの夏、「捏造」という、私の記事に対する西岡力氏のレッテル貼りが間違いであることを証明する、決定的な証拠を発見しました。元日本軍「慰安婦」金学順(キム・ハクスン)さんに対する弁護団の聞き取り調査を録音した、28年前のテープです。この聞き取り調査に私は同席していました。そこでの金さんの話を再現する形で、1か月後の1991年12月25日付の朝日新聞大阪本社版の「語り合うページ」に「帰らぬ青春 恨(ハン)の半生」という記事を書きました。記事Bのことです。

西岡氏は「増補新版 よくわかる慰安婦問題」という文庫本を出しています。西岡論文Aのことです。西岡氏はこの論文で、「朝日新聞の悪質かつ重大な捏造」という見出しをつけて、私の記事Bをこう批判しています。
「この十二月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関係するキーセンに売られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」。
しかし、この聞き取りテープを丹念に調べたところ、金学順さんは弁護団に対し、ひとことも、「キーセン」という言葉を語っていないことが確認されたのです。本人が語っていなかったことは記事には書けません。
私は記事Bのリードで、「証言テープを再現する」と書いています。金学順さんがテープの中で語っていないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、「捏造」だと言えるはずがないではありませんか。
裁判官の皆様、どうかご理解ください。私は「捏造」などしていないのです。

西岡氏は論文Aで、こうも書いています。「朝日新聞は今日に至るまでも一切の反論、訂正、謝罪、社内処分などを行っていない。それどころか、後日、植村記者を、こともあろうにソウル特派員として派遣し、韓国問題の記事を書かせたのだ。この開き直りは本当に許せない」。
「この開き直りは本当に許せない」。西岡氏が、私だけを「標的」として、執拗に攻撃を繰り返してきたその背景に、この「憎悪」があるのだと知り、ぞっとしました。西岡氏は私への処罰を求めているのです。

私は、西岡氏から記事を「捏造」と断定され、繰り返し誹謗中傷されました。そして、西岡氏の言説の影響を受けた無数の人々からの激しいバッシングにあい、私の人生は狂いました。
就任が決まっていた神戸松蔭女子学院大学専任教授のポストは失われ、日本の学生たちと共に学ぶという夢が絶たれました。それだけではありません。当時非常勤講師をしていた札幌の北星学園大学には抗議のメールや電話が殺到しました。「売国奴、国賊の(中略)植村の居場所を突き止めて、なぶり殺しにしてやる」などの脅迫状も送られてきました。私を誹謗中傷する言説がインターネットにあふれました。
記事執筆当時は生まれてもいなかった私の娘まで、インターネット上に名前と写真を晒され、「自殺するまで追い込む」等と書き込まれました。あげくには、娘の殺害を予告する脅迫状まで届くようになりました。
これらは全て、私の記事が「捏造」だと信じた人々の行動なのです。そして、西岡氏は私の記事を「捏造」と名指しした元祖であります。

私は自分の名誉だけでなく、家族の命を守るためにも、裁判に立ち上がらざるを得なかったのです。裁判官のみなさん、このことを、どうかご理解ください。
私は「捏造記者」ではありません。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。最後には司法による救済が必ずあると信じています。これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただき、「捏造記者」という私に対する汚名を晴らしてください。どうか、お願い申し上げます。


きょう東京控訴審!


慰安婦の記事を「ねつ造ではない」と植村隆さんが訴えている裁判は、札幌に続いて29日(火)に東京高裁でも控訴審第1回口頭弁論が始まります。
これまでの裁判では 
・義母からの情報提供はなかった
・金学順さん本人が「挺身隊だった」「連れていかれた」と話していた
・西岡力氏は植村攻撃の論拠にしていた韓国の新聞記事を改ざんしていた
・櫻井よしこ氏もTVニュースキャスターだった当時、「強制連行された慰安婦」と述べていた
などの新事実が明らかになっています。  
今回の法廷には、植村さんが1991年に初めて金学順さん本人を取材した時の詳細な記録が新しい証拠として提出される予定です。
金さん自身が植村さんの取材にどう答えていたのか、その詳細が明らかにされれば、植村記事が「ねつ造」であるかが明確になるはずです。
 西岡・櫻井両氏だけでなく、朝日新聞社の第三者委員会も、植村記事が「金学順さんがキーセン学校に通っていた経歴に触れていない」ことを批判しました。
しかし、新証拠によって、この朝日新聞社の第三者委員会報告の批判が妥当なものであったか、再検討が求められると思います。
事実を伝える報道機関として、決してゆるがせにできないポイントです。

法廷の後の報告集会では、これらの新証拠の意味について説明があるほか、植村さんの記録映画の上映、監督の西嶋真司さんのトークなどが予定されています。
傍聴や集会での激励をよろしくお願いいたします。

控訴審第1回口頭弁論
日時 1029日(火)午前1030分開廷
場所 東京高裁101号法廷
*傍聴は整理券の発行と抽選が予想されます。30分前までにはお越しください。
報告集会(申込は不要。無料)
日時 1029日(火)午後2時~4時
会場 参議院議員会館101会議室
弁護団報告+映画「標的」(短縮版)上映と監督トーク+「新しい証拠と証言の意味」(長谷川綾+植村隆+新崎盛吾)
 

2019年10月28日月曜日

29日、東京控訴審

東京控訴審の第1回口頭弁論は10月29日(火)、東京高裁101号法廷で開かれます。開廷(午前10時30分)に先立って、傍聴整理券の発行と抽選が行われる予定です。
報告集会は同日午後2時から、参議院議員会館101会議室で開かれます。弁護団の報告、映画「標的」短縮版の上映、控訴審で新たに提出する証拠・証言についての説明があります。

2019年10月26日土曜日

歴史家の真摯な思い

 札幌控訴審 新証拠解説その3 

朝日新聞の報道への攻撃は、金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てであり、多少のミスが仮にあったとしても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います(和田春樹・東大名誉教授の「意見書」から)


札幌訴訟の控訴審第3回口頭弁論(10月10日)で、植村弁護団は和田春樹・東大名誉教授の意見書と同氏の論稿2点を提出した(甲183~185号証)。このうち、意見書は慰安婦への「償い事業」に取り組んだ経験と歴史学者の知見をもとに、慰安婦と女子挺身隊の呼称についての考えを、弁護団の求めに応じて明らかにしたもので、A4判11ページの小論文という体裁をとっている。

和田氏は1995年に政府が設立した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の呼びかけ人となり、以後、2007年に同基金が解散するまで、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事、専務理事、事務局長の要職をつとめた。途中、98年に東大の社会科学研究所教授を定年退職してからは、同基金の仕事に専念し、「償い事業」の推進に力を尽くした。※注1

慰安婦の実体と女子挺身隊の呼称は、金学順さんが慰安婦とされた経緯とともに、真っ向から対立し続けた重要な論点である。
櫻井氏の主張は、①慰安婦とは、公娼制度の下で戦場に出かけて行った売春婦である、②金学順さんは親に身売りされてキーセンの修業をした後慰安婦になった、③挺身隊という呼称は、戦時中の国家総動員法が規定する労働に工場などで従事した女性をさすもので、慰安婦と混同するのは誤りである、というものだった。※注2
このうち、①③は、いわゆる「歴史修正主義」に基づくもので、河野談話をはじめとする日本政府の見解や国連人権機関の報告書など、国内外の公的な文書に反することは明白だった。櫻井氏はこれらの主張をもとに、植村氏の記事を「捏造」と決めつけた。
ところが、一審判決は櫻井氏の主張を認めた。判決文は、「慰安婦ないし従軍慰安婦とは、太平洋戦争終結前の公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性などの呼称のひとつであり、女子挺身隊とは異なるものである」とはっきり書いている。 <この項、下線部の誤記を訂正しました>

植村氏にとっても弁護団にとっても、これは驚くべきことだった。裁判官の歴史感覚を疑わざるを得ない、これはネトウヨそのものではないか、という声が弁護団や支援グループの間であがった。その誤りを、植村弁護団は控訴審開始時に提出した控訴理由書と控訴理由補充書(2)の中で厳しく指摘しているが(※注3)、さらに和田氏に意見書の提出を依頼したところ、快諾を得た。和田氏は意見書の中で、「慰安婦を「公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性」にすぎないとする記述を本裁判札幌地裁判決に見出したとき、当惑する気持ちを禁じえなかった」と書いている。

意見書は、「慰安婦の定義」と「慰安婦を挺身隊とよぶ呼称について」の2つの標題について詳細に説明している。とくに中国、朝鮮、フィリピン、インドネシアにおける慰安婦の被害実態(※注4)と、挺身隊の呼称が韓国内で伝説化した事情の説明が詳しい。アジア女性金の調査活動や交渉の過程で生じた疑問や批判も、標題とのかかわりで書かれ、櫻井氏が2007年に米国紙に出した意見広告に「衝撃をうけた」ことも明かしている。
全体に抑制的で率直な筆致からは、歴史学者の真摯な思いが強く伝わってくる。裁判官には判決書を書く前にぜひ精読してほしいと願う。

以下に、和田氏の許可を得て意見書の主要部分を抄録する。(小見出しは編者が付けた)

■アジア女性基金の事業
アジア女性基金は、河野洋平官房長官談話にもとづいて、1995年に日本政府によって設立された。そのときから2007年の解散時までに、韓国、台湾、フィリピンの慰安婦被害者、それぞれ60人、13人、211人に、各々総理の謝罪の手紙、理事長の手紙、国民募金からの償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援(韓国台湾300万円相当、フィリピン120万円相当)をお渡しした。インドネシアで抑留中、慰安婦として被害にあったオランダ人79人に対しては各々医療福祉支援金300万円が支払われた。インドネシアの慰安婦被害者に対しては、同国政府の要請に応じて、被害者個人への事業は行われず、老人福祉施設建設のために、政府拠出金から3億7000万円が提供された。

■慰安婦の定義
この事業をおこなうにあたって、アジア女性基金は日本政府との協議の上、事業対象者としての慰安婦についての定義を定めた。この定義は、1995年10月25日に基金の活動を説明するために出版されたパンフレット『「従軍慰安婦」にされた方々への償いのために』の冒頭に発表された。その後、現実の事業の展開の中で微調整がくわえられたが、基本的に基金の活動の終了まで維持された。当初の定義は次のようなものである。
「『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
事業過程での調整が加えられた結果、この定義は最終的には次のようになった。これは基金が作成したデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の展示の冒頭に記されている。
「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」

■日本軍の慰安所
この定義で決定的なことは、「日本軍の慰安所」、「日本軍の慰安所等」に集められた女性であるという認定である。「慰安所」は、その当時の軍のさまざまな文書では、「特殊慰安所」、「性的慰安所」、「性的慰安ノ設備」などと呼ばれている。軍が戦争遂行のため、軍の将兵の性的欲望を充足させ、一般婦女に対する強姦などの行為を減らす等の目的のために、戦争の現場、軍の駐屯地の内外に設置した設備である。

■暴力的な連行
日本軍慰安所にはさまざまな方法で女性たちが集められた。女性たちが朝鮮の農村や都市から官憲の手によって暴力的に連行されたということも多く語られたが、アジア女性基金の調査では、朝鮮半島においてはそのような事実を確認していない。日本政府が集めた資料は、アジア女性基金の手によって、悉皆的に出版されている。そこからは、女性たちを慰安所に集めたいくつかの事例が確認される。

■強制をともなう行為
軍の慰安所は、当然ながら、通常の公娼制度を前提として、制度設計されたものであろう。しかし、戦争を行っている軍が戦争をしている軍の将兵のために戦場の近くに組織した施設であれば、そこで女性たちがさせられた行為は通常の公娼制度にもとづく売春とは異なり、さまざまな強制の要素をともなう行為であったと考えられる。そのような状況の中で自分たちは日本軍の将兵に性的な行為、奉仕を強いられたと感じ、苦痛と感じたケースが普遍的に認められる。

■総理大臣のおわびと反省
いずれにしても、慰安婦犠牲者はすべて、日本軍との関係で、「性的慰安」の奉仕を強制され、被害をうけ、苦しかったと訴える人々であった。であればこそ、日本国家はこの人々に対し、総理大臣の手紙を送り、次のように、おわびと反省の気持ちを表明した。
「このたび、政府と国民が協力して進めている『女性のためのアジア平和国民基金』を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。」
この手紙に署名したのは、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各総理大臣である。

■櫻井氏らの連署広告
2007年6月14日、ワシントン・ポスト紙に日本の団体、歴史事実委員会の意見広告“The Facts(これが事実だ)”が掲載された。櫻井よしこ氏らが執筆し、西岡力氏らが連署したこの意見広告は、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。私は、米国の新聞に掲載された日本の団体の意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃をうけた。これは世界に向けて、1995年以来、日本政府とアジア女性基金がつくりあげてきた慰安婦認識とそれにもとづく事業活動を全否定すると主張しているものと考えられた。
しかし、アジア女性基金はすでに解散しており、この意見広告に反論を表明するすべはなかった。その当時は日本政府とアジア女性基金の慰安婦認識は、アジア女性基金の解散後、ウェッブ上にのこしたデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の中に展示されていたのである。

■「挺身隊」呼称の吟味
この慰安婦という存在を認識し、慰安婦問題が日本政府によって取り組まれるべき問題であることを自覚する過程で、日本軍慰安婦はしばしば「挺身隊」とよばれ、問題として認識するように求められた。日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった。そこで、この「挺身隊」という呼称を吟味することは、日本政府とアジア女性基金にとって避けて通れないことであった。

■高崎宗司氏の論文
韓国で「慰安婦」問題を提起し、アジア女性基金が発足すると、厳しい批判をくわえ、その速やかな解散を求めて、交渉をつづけてきたのは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)であった。この団体は、1990年11月16日に結成され、基金が誕生した1995年当時もそのままの名称で活動をつづけていた。
交渉相手の団体が「慰安婦」でなく、「挺身隊」を名称にいれていることには、アジア女性基金の側も当然意識していた。その結果、1996年10月に「慰安婦」関係資料委員会が生まれて、調査研究を行うようになると、「慰安婦=挺身隊」という呼称の問題をとりあげて、研究することになった。その結果、高崎宗司氏が「『半島女子勤労挺身隊』について」という表題の論文をまとめ、『「慰安婦」問題調査報告・1999』に発表するに至った。高崎氏は当時津田塾大学教授で、アジア女性基金の運営審議会委員、同資料委員会委員長であった。

■朝鮮での強い警戒感
高崎論文によれば、太平洋戦争の危機段階で、1943年9月13日、日本政府次官会議が「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」を決定し、それに基づいて女子勤労挺身隊が日本の内地でも朝鮮でも組織された。「一四歳以上の未婚者等の女子」を動員して、「女子勤労挺身隊」を結成させ、「航空機関係工場、政府作業庁」などに派遣したのであった。44年2月までに日本全国では16万人が編成されたといわれる。朝鮮ではおくれて募集がはじまったが、44年4月には第一陣、慶尚南道隊100人が日本本土の沼津市の工場に派遣されている。このような事実を確認して、高崎氏は、「挺身隊」の名で「慰安婦」にされたケースを発見できなかったと述べている。しかし、高崎氏は、朝鮮では「未婚者等の女子」という募集要件に強い警戒心、反発がおこり、44年4月には、挺身隊動員からのがれるために結婚をいそぐ風潮が現れた。『京城日報』44年4月22日号は「街は早婚組の氾濫」と報じている。この動きは、挺身隊に行くと、慰安婦にされるという噂と結びついていた。総督府が提出した44年6月の資料には、「未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ」とある。このようなパニックが広がる中で、当局が否定すればするほど、女子挺身隊と慰安婦は一体のものであるという考えが広まったのである(高崎宗司論文、44、47、57-58頁)。

■伝説となって定着
挺身隊に動員された娘たちが慰安婦にさせられたという観念は検証されないまま、朝鮮社会の伝説となって定着した。実際に挺身隊行きをのがれるために学校を退学して、結婚した人々は自分たちだけが災難を免れたといううしろめたさを感じていた。挺対協の初代代表をつとめた梨花女子大教授尹貞玉氏は、そのような経験をしばしば語ることがあった。

■朝鮮戦争当時の事情
1945年以後の韓国で、日本軍慰安婦を「挺身隊」とよぶことが定着するようになったことについては、以上のような事情があったためであろう。しかし、これにはもう一つ別の事情が影響したかと考えられる。朝鮮戦争当時、韓国軍は旧日本軍にならって、軍の将兵に対する性的慰安のために、「慰安婦」を確保し、「慰安部隊」を組織したことが韓国の歴史研究者の研究で明らかにされるようになった(金貴玉「朝鮮戦争と女性――軍隊慰安婦と軍慰安所を中心に」立命館大学シンポジウム発表文、2002年)。そして停戦後韓国に駐留した米軍の基地のまわりに集まる売春婦がこの延長線上で「慰安婦」とよばれるようになったのである。1957年の新聞を見ると、「慰安婦が嬰児誘拐」(京郷新聞、2月11日)、「二米軍慰安婦身勢悲観自殺」(東亜日報、7月21日)などの記事が出ている。1981年には「基地村慰安婦、米軍相手に九億ウォン分のヒロポン」を密売という記事がある(東亜日報、9月26日)。朝鮮日報を「慰安婦」で検索すると出る記事は1957年から1976年までに88件あるが、すべて米軍将兵を相手とする売春婦の記事であった(和田春樹『アジア女性基金と慰安婦問題』(明石書店、2016年))。
そこで、1980年代末から、韓国で新しく日本軍慰安婦に注目を向け、その人々の問題を社会化しようとした記者たちは、被害者を「慰安婦」とは呼ばず、「挺身隊」と呼ぶことに傾いたのであろう。

■金学順氏の登場
団体が設立された段階では、挺対協は国内に生き残っていた慰安婦被害者のハルモニの誰一人とも接触ができていなかった。その状況が翌91年には劇的に変わった。挺身隊問題対策協議会の設立が報じられると、女子勤労挺身隊に動員された女性とともに、慰安婦にされた女性たちがつぎつぎに連絡をとってくるようになったのである。
その第1号が金学順氏だった。彼女は1991年8月14日、挺対協で記者会見した。慰安所で日本軍の将兵に性的な奉仕をさせられた女性が、みなの前に進み出て、「自分は被害者だ」と述べ、「わが国の政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府から公式の謝過を受けなければならない」と語った。金学順氏の登場は慰安婦問題を世にだすのに決定的な影響を与えたのである。

■金学順氏の苦しみと勇気
アジア女性基金の関係者は金学順氏の家を訪問し、基金の目的、事業の内容を説明したが、彼女は、自分はこの事業をうけないと明言した。それは残念なことであったが、金学順ハルモニが名乗り出て、日本政府に対して自身の言葉で謝罪を要求されたのはアジア女性基金にとって重要な出来事であった。基金の理事長が慰安婦被害者に送った手紙には、「貴女が申し出てくださり、私たちはあらためて過去について目をひらかれました。貴女の苦しみと貴女の勇気を日本国民は忘れません」と書かれている。その気持ちは最初に名乗り出た金学順ハルモニにも向けられている。

■慰安婦報道の意義
日本軍慰安婦がその時期に「挺身隊」と呼ばれたのは、朝鮮の歴史的事情の流れの中で理由のあったことである。慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたという面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである。

■非難されるべきことは全くない
このことと関連して、私は2014年9月26日に東京大学の駒場キャンパスで行われた研究会で次のように発言したことを思い出す。その言葉を書きつけて、意見書を終わりたい。
「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」

※注1=和田氏が深くかかわったアジア女性基金は、「償い事業」の資金の拠出方法をめぐる対立を克服できず、日韓両国内でともに、幅広い支持や賛同は得られなかった。和田氏はリベラル勢力の対立と分裂の実相を、ことし6~7月に朝日新聞デジタル「WEB論座」のインタビューで語っている。
 「日韓の亀裂の拡大」を和田春樹さんと考える こちら
 「日韓の亀裂の迷走」を和田春樹さんと考える こちら
※注2=櫻井氏の主張に対する植村氏の見解は、①慰安婦とは、戦場で自分の意思に反して将兵に性行為を強いられた女性である、②金学順さんは、だまされて戦地に連れて行かれた、③挺身隊という呼称は、記事を書いた1991年当時、韓国では慰安婦を意味するものとされており、日本の報道でも一般化していた、というものである。
※注3=控訴理由補充書(2)は、むすびでこう書いている。
「原判決の判断は、元日本軍慰安婦の受けた被害実態を直視せず矮小化し、あるいはないものにしようとする国内の一部の政治的主張にくみするものと評価されてもやむを得ないものであり、国連の公式文書や日本政府が従来とってきた公式見解、裁判例からもかけ離れたものである。原判決は、櫻井の主張を無自覚に受け入れたあまりに、制度としての日本軍慰安婦に関する様々な人権侵害から目をそらし、人身売買であれば売春婦であるというような誤った認識に基づき、櫻井の名誉棄損行為を免責する判断を行った。
その意味でも、原判決の事実認定の誤りは顕著であり、速やかに破棄されるべきである」
※注4=抄録では省略。アジア女性基金が調査結果と関連資料を収録したWEBサイト「デジタル記念館」に詳細な記録が保存されている こちら
アジア女性基金デジタル記念館のトップページ(表紙)





















text by H.N.


2019年10月22日火曜日

櫻井流はウソも変転


 札幌控訴審 新証拠解説その2 

どっちが本当? 「強制連行」を唱えていた櫻井さん。「ただ読むだけにスタジオにいるわけではない」と自慢していたのに、法廷では「ニュース原稿を読み上げたもの」と弁解


櫻井氏の言説には誤りだけでなく、変遷と矛盾もある。これは、札幌控訴審の3つの重要な論点のひとつである。植村弁護団は控訴審で、慰安婦問題と植村氏の記事に関する櫻井氏の意見や主張が大きく変遷していることを、次の7点の証拠で指摘した。6点は櫻井氏本人の著作と執筆記事、1点は本人の発言。その内容はこうである(著作発表順、カッコ内の甲数字は証拠番号)。

▽週刊誌「週刊時事」1992年7月18日号=金学順さんを含む元慰安婦が日本政府を訴えたことについて、「強制的に旧日本軍に徴用された彼女らの生々しい訴え」と表現した(甲124号)
▽書籍「櫻井よしこが取材する」1994年、ダイヤモンド社刊=週刊時事の記事を収録(甲123号)
▽書籍『寝ても醒めても』1994年、世界文化社刊=日本テレビ「きょうの出来事」のキャスターとして番組内容に関与できたことを明かしている(甲137号)
▽書籍「直言!日本よ、のびやかなれ」1996年、世界文化社刊=強制連行について、「軍や政府の方針だったという確信を持てないのです」と書き、疑問を呈している(甲138号)
▽週刊誌「週刊新潮」1998年4月9日号=植村氏の記事について「訂正されない誤報」「女子挺身隊と慰安婦と直結するかのように報道」「日韓の世論に大きな誤解を与える誤りを犯した」と批判している。しかし、「捏造」という表現は用いていない(甲125号)
▽書籍『迷わない』2013年、文藝春秋刊=日本テレビ「きょうの出来事」キャスターとして、ニュース原稿を読み上げるだけでなく、原稿に変更や修正を加えていたことを明かしている(甲165号)
▽記者会見映像記録、2018年、日本外国特派員協会で=一審判決を受けての会見で、言説の変遷を問われた時の短いやりとりが記録されている(甲142号)

植村氏が慰安婦だった金学順さん名乗り出の記事を書いた1991年当時、櫻井氏は日本テレビのニュース番組のメインキャスターをつとめ、同時にジャーナリストの肩書で時事問題をテーマに執筆活動もしていた。慰安婦問題が日本国内でも大きなニュースとなり、櫻井氏も番組で取り上げ、記事も書いた。その軌跡を上記証拠でたどると、最初は慰安婦に心を寄せ、被害に同情していたが(1992~96年)、次第に「強制性」に疑問を持ち始め(96年)、植村氏の記事を「誤報」と批判するようになり(98年)、ついには慰安婦=売春婦説を唱えて植村記事を「捏造」と攻撃するに至った(2014年)。

この変遷ぶり。いや、変遷というよりは変転というべきか。地動説から天動説に変わるごとくである。しかし、その理由や根拠を櫻井氏はほとんど明らかにしてこなかった。植村弁護団は、一審法廷でのやり取りや書面で説明を求め続けたが、ゼロ回答に終わった。一審判決直後に東京の外国特派員協会で行われた記者会見でも質問が出た。しかし、櫻井氏は「時間がたつにつれていろんなことがわかってきて」と答えるのみで、何がわかったのか、とさらに問われても無言だった。
櫻井氏は一審で、2014年にとつぜん植村記事を捏造と決めつけた根拠として、1991~92年当時のハンギョレ新聞と月刊宝石の記事、金さんの訴状上の記載の3点をあげた。判決はこの3点セットに厳密な検討を加えないまま、櫻井氏の主張に寄り添うかのように「真実相当性」を認めた。
意見や主張が社会状況や個人的事情によって大きく変わることは、あってもおかしくない。しかし、ひとつの事象について意見や主張を変え、結果、ひとりの記者の名誉を大きく傷つけることになっても、その説明をきちんとしない。こんなことがあっていいのだろうか。ごく普通の市民感覚から生じるそんな疑問に、一審の裁判官は答えようとしなかった。

ところで、上記の証拠の内、今回の口頭弁論(10月10日)で提出されたのは書籍『迷わない』の1点である。これは、結審にあたって櫻井氏のウソを見事にあぶり出した証拠の決定版である。

櫻井氏は1992年12月9日、「きょうの出来事」の中で、「第二次世界大戦中に、日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たちが、当時の様子を生々しく証言しました」とアナウンスした。このニュースは当日東京で開かれた「日本の戦後補償に関する国際公聴会」の会場の様子を伝えるもので、映像では金学順さんら、韓国、北朝鮮、オランダの女性8人が壇上で証言し、日本政府に謝罪と補償を求めている。櫻井氏のアナウンスはこのニュースの冒頭に流れた。
植村弁護団は一審で、「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた」とのアナウンスをとらえ、櫻井氏は慰安婦に同情を寄せるだけでなく、強制連行説も認めていたのではないか、と迫った。これに対し櫻井氏は、控訴審第1回口頭弁論(4月25日)で提出した「控訴答弁書」で、「櫻井自身の認識として金氏が強制連行されたと述べたことは一度もない」「きょうの出来事の冒頭アナウンス部分は、ニュース原稿を読み上げたものであり、櫻井自身の認識を示すものではない」と応じた。説明は短く素っ気ないが、番組の内容や原稿については自分自身の考えや意見は反映していないというのである。
ところが、櫻井の著作『寝ても醒めても』と『迷わない』の2冊には、ニュースキャスター時代の現場を振り返り、制作責任者やスタッフと対立しながら自分の意思を貫き、自分の言葉で語っていたことが、誇らしげに書かれているのである。自身の著作だから、談話や伝聞ではない。櫻井氏自身の言葉である。6年前の著作『迷わない』から、その部分を抜き出してみよう。

▽「その件については、これも取材しなければいけないんじゃないですか」「こういう見方も必要ではありませんか」などと、意見を述べました。周囲の雰囲気が固くなっているのが、はっきり分かりました。(61ページ)
amazonのkindle版書影
▽私は、ただ読むためにスタジオにいるわけではありません。少なくとも自分ではそう心得ていましたので、原稿の中の言葉の使い方から、情報の過不足に至るまで、自分なりに判断して、変更や修正が可能なところは手を入れていました。すると、ある日、社会部の部長が怒鳴り込んできました。「何様だと思っているんだ」と大変な剣幕です。(62~63ページ)
▽けれど、3年目くらいでしょうか。件の社会部長がやって来て言いました。「わかった。櫻井さん、もうあなたね、全部変えていいよ。断らなくていい。あなたのすることは全部信頼するから。断らずに好きなように変えてください」と言ってくれたのです。(64ページ)
▽私はすぐに報道局長に会って、こう告げました。「あの人を辞めさせるか私を辞めさせるか、どっちかです」。局長もさぞ驚いたことと思います。結論からいえば、一度発表された人事が覆りました。(67ページ)
▽私は一人のフリーのジャーナリストとして日本テレビの報道に参加しましたが、その基本的立場は、大組織の日本テレビと私は対等ということです。私は本当は対決を好む人間ではありません。けれど、対決しなければならないときは怯まず対決しました。(68ページ)

この本『迷わない』(文春新書)の内容紹介文(アマゾン)には、「日頃、筆鋒鋭く国内外の諸問題に警鐘を鳴らすジャーナリストの櫻井よしこさん。」「TVキャスターに起用されたのは34歳のときでした。16年間のキャスター時代の間も、ニュース原稿をめぐって、辞任覚悟で番組のデスクとの大喧嘩に代表される「大組織とフリーランス」の苦悩に直面したこともあります」などとある。

自分の著作では、「ただ読むためにスタジオにいるわけではありません」と書き、法廷に提出した書面では、「ニュース原稿を読み上げたもの」と書くことにも、迷わない? ウソも方便とはこういうことをいうのだろうか。

text by H.N.

※次回は、その3「歴史家の真摯な思い」です

2019年10月21日月曜日

櫻井流は許されない

札幌控訴審第3回口頭弁論(10月10日)で、植村弁護団は3通の準備書面、2通の意見陳述書とともに47点の証拠を追加提出した準備書面2、3、4の概要と証拠一覧は既報。これらはすべて、控訴審の3つの重要な論点のどれかにかかわるものである。
3つの論点とは、
▽一審判決の真実相当性の判断は法理と従来の判例に反していること
▽櫻井よしこ氏の言説には誤りだけでなく、変遷と矛盾があること
▽植村氏が書いた記事は捏造ではなく、慰安婦報道に誤りはないこと
である。
新たな証拠の収集と整理作業にあたっては、弁護団事務局と支援グループ有志が、なにがなんでも原判決をひっくりかえすという強い決意を共有し、大きな労苦を重ねた。当ブログでは、新たに提出された証拠のうち主要なものの紹介を次の順で連載する。
その1 櫻井流は許されない=甲155~164号証、最近の名誉毀損訴訟判決9例
その2 ウソも方便?櫻井流=甲165号証、櫻井よしこ著「迷わない」(2013年、文藝春秋刊)
その3 歴史家の真摯な思い=甲183号証、和田春樹東大名誉教授の意見書

なお、同時に提出された「金学順さんの証言録音テープ」「韓国紙記者証言」などは東京控訴審(第1回、10月29日)で主張が展開されることになっているため、当ブログでの紹介は後日となる。


 札幌控訴審 新証拠解説その1 

裏付け取材のない記事に「真実相当性」は認められない。厳格な判断を下した高裁・地裁判決は、こんなにもある!

一審判決は櫻井氏の名誉毀損表現が真実と信ずるについて相当の理由があること(「真実相当性」)を認めて免責したが、その判断は間違っている。
植村弁護団は、すでに控訴理由書で50ページにわたる紙数を費やして、櫻井が根拠としてあげた資料や事実から「真実相当性」を認めることはできない、と述べている。今回提出した「準備書面2」は、その主張を繰り返したうえで、最近の判例の流れに照らしても一審判決は間違っていることを明らかにしている。
真実相当性の成立には「確実な資料、根拠」に基づき真実だと信じることが必要であり、単なる憶測や信頼性がない資料等では足りない、とするのが名誉毀損裁判の法理である。その上で「準備書面2」は、最近10年間の高裁、地裁の判決のうち、記事が正しいかどうか(「真実性」)に加え取材の正当さも争点となった9件をもとに、取材の重要性を次のように結論づけている。
(1)被害が重大である場合ほど慎重な裏付け取材が必要であり、(2)本人への取材の有無、及び(3)取材源の情報を裏付ける取材の有無や重要な関係者への取材の有無を重視している、また、(4)本人への取材や取材拒否があった場合であっても、裏付け取材が不十分であれば相当性は否定される。

記事が正しいかどうか、に加えて「取材」の内容や方法が問われた9件の判例は次の通り。いずれも原告が勝訴、メディア側被告の「真実相当性」は認められなかった。
① 貴乃花親方vs週刊新潮
② 石井一・元参院議員vs週刊新潮
③ 亀井郁夫・元参院議員vs週刊新潮
④ 読売新聞vs週刊ポスト
⑤ 橋下徹・元大阪市長vs週刊文春
⑥ 小西博之・参院議員vs阿比留瑠衣(産経新聞)
⑦ 徳洲会グループ元事務総長vs週刊文春
⑧ 松丸修久・守谷市長vsフライデー
⑨ 池田修一・元信州大医学部長vs月刊Wedge

各訴訟のポイントを「準備書面2」をもとに以下に紹介する。同書面では人名や媒体名が一部、英字で略記とされているが、事例をわかりやすくするために、当ブログでは当時の報道をもとに実名とした。(  )の数字は証拠番号。

①週刊新潮敗訴=2011年7月28日、東京高裁判決(甲155)
大相撲の貴乃花親方夫妻が、相続問題などに関する「週刊新潮」の5本の記事で名誉を傷つけられたとして、新潮社に賠償などを求めた訴訟。賠償額は減額したが一審判決を支持した。記事のうち「父親に無断で権利証を持ち出した」という記述について一審判決は「当時の担当デスクは、元大関の断髪式に出席したベテラン記者、旧部屋後援者、フリーライター等からもたらされた情報に基づく記事であり、信頼すべき人物から取材した、と供述するが、裏付け取材をしていないこと、権利証持ち出しの具体的内容や理由が明らかでないことを自認しており、情報源の存在やその信頼性を認めるに足りる証拠はない」として「確実な資料、根拠に基づく相当の理由があったとは認めることができない」と認定し、真実相当性を否定した。賠償額は325万円。

②週刊新潮敗訴=2011年11月16日、東京地裁判決(甲156)
厚労省郵便不正事件に関する「週刊新潮」の記事で、「政治的影響力を行使して事件に関与した」などと書かれた石井一参院議員が名誉を傷つけられたと訴えた訴訟。判決は、取材経緯について「担当記者は原告の事務所に対し回答期限を設定して記事内容に関する質問を記載した文書をファクシミリ送信したが、期限までに回答はなく、また、被告の担当記者は原告の携帯電話に電話を掛けて取材を申し込もうとしたが、原告にはつながらなかった」と認定したが、「全国紙社会部デスク記者の見立てを取材により知ったものの、これらを裏付ける独自の取材を行った形跡はなく、原告に対する直接の取材も行わないまま、間接的な情報にすぎない上記の見立てに沿って」記事を掲載した、として真実相当性を否定した。また、政治資金監理団体の収支報告書に政治資金パーティーの収支の記載がない旨の記事(表題は「黒い政治献金疑惑」)についても、「原告の政治資金管理団体と東京都選挙管理委員会に対する調査も行わず,また、原告の事務所が「調査のうえ回答する」と述べていたにもかかわらず,設定した回答期限の経過後直ちに記事を執筆、掲載」したとして、取材の不十分さを理由として真実相当性を否定した。

③週刊新潮敗訴=2013年5月29日、広島地裁判決(甲157)
裏口入学の口利き名目で現金をだまし取ったと「週刊新潮」に書かれ名誉を傷つけられたと、亀井郁夫元参院議員が訴えた訴訟。判決は「詐欺被害を訴える被害者がいた場合には、まず、その主張が信じるられるかどうかについて疑いの目を向けて、その裏付け調査には一定の慎重さが要求される」とし、「本件記事作成のために取材を担当した記者とデスクは、取材過程で判明した関係者(故人)の主張の矛盾点をことさら無視」したなどと指摘し、本人への取材を行った事実についても「本件記事の内容を考慮すれば極めて短期間」と判断して、真実相当性を否定した。賠償額は330万円。

④週刊ポスト敗訴=2014年6月26日、東京高裁判決(甲158)
「海外取材してまで警視庁『2ちゃんねる潰し』を応援する読売の“見識”」との表題の記事について読売新聞社が訴えた訴訟。一審東京地裁は、「記事の内容の大半は抽象的な内容」などとして請求を斥けたが、控訴審判決は「裏付ける取材をしたことなどを伺わせる証拠はない」などとして真実相当性を否定し、一審を破棄し逆転判決を言い渡した。賠償額は100万円。

⑤週刊文春敗訴=2016年4月8日、大阪地裁判決(甲159)
顧問弁護士をしていた料理組合側から性的接待を受けていた、との「週刊文春」の記事で名誉を傷つけられたと橋下徹・元大阪市長が訴えた訴訟。判決は、「接客を行った女性の話が曖昧であり、客観的に裏付けるような資料がないことなどに加えて、料理組合に対して事実関係の有無を確認していない」として真実相当性を否定した。賠償額は220万円。

⑥産経・阿比留氏敗訴=2016年12月5日、東京高裁判決(甲160)
「官僚時代、意に沿わぬ部署への異動を指示された際、1週間無断欠席し、さらに登庁するようになってもしばらく大幅遅刻の重役出勤だったそうです」などとフェイスブックに投稿した阿比留氏(産経新聞政治部)を小西博之参議院議員が名誉毀損で訴えた訴訟。判決は「再伝聞のみに基づいて本件投稿を執筆した」として真実相当性を否定した。賠償額は110万円。(原判決は甲161)。

⑦週刊文春敗訴=2017年3月28日、東京地裁判決(甲162)
「徳洲会マネー100億円をむさぼる『わるいやつら』」と題した記事などで名誉を傷つけられたとして、徳洲会グループ元事務総長、能宗克行氏が訴えた訴訟。判決は、「徳洲会の内部事情を知悉している幹部等から取材したとしても、徳洲会と能宗氏との間には対立関係があり、能宗氏に有利な事情や徳洲会に不利な事情についてはあえて明らかにしないことがある。取材結果の評価については慎重な検討、分析が必要であった」として、取材内容が真実であると信じる相当な理由があるとはいえないと判断した。また、能宗氏が取材を拒否したとしても、週刊文春の取材の方法等を考慮すれば、真実相当性の根拠になるとは認められない、とも判断している。賠償額は198万円。

⑧写真週刊誌「フライデー」敗訴=2019年3月5日、東京地裁判決(甲163)
公共事業の入札をめぐり不正疑惑があると書かれた茨城・守谷市の松丸修久市長が名誉毀損で訴えた訴訟。判決は、「取材班は松丸氏本人には取材したが、松丸氏が代表取締役を務める会社との関係性に係る重要な関係者や同社には取材をしなかった」として真実相当性を否定した。賠償額は165万円。

⑨月刊「Wedge」敗訴=2019年3月26日、東京地裁判決(甲164)
「子宮頸がんワクチンの副反応の研究で捏造行為をした」と書かれた信州大学医学部教授、池田修一氏が名誉毀損で訴えた訴訟。判決は、「研究者にとって致命的ともいえる研究不正を告発するのであれば、その記事が原告に与える影響の重大さに鑑みて、関係者(同学部特任教授A氏)の発言を鵜呑みにするのではなく、より慎重に裏付け取材を行う必要があった」と指摘したうえで、「原告に対する取材を行っていない」「A氏の述べた内容を軽信し、実効的な裏付け取材を何ら行わなかった」ことを理由に、「捏造したと信じたことについては、相当の理由があったものということはできない」と判断した。賠償額は満額(330万円)を認めたほか、謝罪広告の掲載とネット記事の一部削除も命じた。月刊「Wedge」は控訴を断念したが、記事を書いたジャーナリスト村中璃子氏は控訴した。
※この判決の詳細は、当ブログが4月5日に報じています

名誉棄損訴訟では、取材対象者本人や重要な関係者への取材を怠った「櫻井流」が許されないことは、上記9例からも明らかだろう。

※次回は、その2「ウソも方便?櫻井流」

2019年10月19日土曜日

韓国言論の過去現在


シンポジウム「「いまこそ『報道の自由』を我が手に!」が10月11日午後、札幌市教育文化会館で開かれた。前日の植村裁判札幌控訴審の傍聴に来日した韓国の支援団体「植村隆を考える会」の2氏が、1980年代全斗煥軍事独裁政権下の言論統制・言論操縦との闘いと、現在の活動を語った。
写真は左から=金彦卿さん、慎洪範さん、文聖姫さん(通訳)と植村隆さん



■暴露された軍事独裁政権の「報道指針」

慎洪範(シン・ホンボム=79)さんは元朝鮮日報記者。1986年9月、政権が各新聞社に示してきた日々の秘密通信文「報道指針」を、民主言論運動協議会が機関紙特集号で暴露した。あったことをなかったことに、重要な事を些少なことに、たいしたことではない事をたいしたこととして報道するよう指示する内容。これは1面トップに、あれは見出し1段で扱えと、記事の位置、扱いの大きさまで強要していた。
慎さんは、言論の自由を求め解職された元記者たちが作る同協議会の、執行委員だった。国家機密漏洩罪、国家冒涜罪などで他の2人とともに逮捕された。
「韓国の国民は軍事独裁政権の下で、言論の暗黒時代を過ごしてきたが、その中でも全斗煥政権は、軍と警察、言論統制という2つの柱で成り立つ政権だった。民主化運動、人権運動、労働運動など政権に不利な報道を禁止し、大統領などの動きは大きく報道するように指示した。韓国の新聞6紙は同じような内容になってしまっていた」
慎さんは具体例を挙げる。

野党指導者が外国通信社の取材に応じた内容は報道するな金大中に関する記事は小さく扱い写真は載せるな国会議長の発言「政府は、国会議員の尾行・盗聴・張り込みなどをやめよ」は報道するな(宗教界や民衆運動団体、野党が共同で作った)拷問対策委員会のことは一切報道するな大統領の外国訪問はトップ記事で扱え、等々。

85年10月19日から86年8月8日まで、10カ月間の「報道指針」は688件にのぼる。
「我々は国内のニュースを、岩波書店の『韓国からの通信』など、外国の報道で知る状態だった。韓国日報の金周彦(キム・ジュオン)記者は、指針が下されるたびにメモしていたが、韓国の言論が権力の広報機関に成り下がるという危機に絶望し、この資料を世に知らせることが自分の義務だと思った。またそれがどれほど危険な事かも知っていた」
資料を入手した同協議会は86年9月9日、言論統制・言論操縦の実態を暴露した。機関紙特集号2万2千部の爆発力、破壊力はすさまじかった。
「本当にありえることなのか」「だからすべての新聞が同じ内容だったんだ」「こんな報道をしていてメディアとはいえない」「政府が新聞を編集していたのも同然だ」。
驚きと怒りが一気に広がっていった。
年が明けた87年1月、3人は起訴された。弁護団は「金大中の写真が国家機密になるのか?」「世界の報道機関、通信社が報道し、韓国民だけが知らないニュースが国家機密か?」「言論を権力の広報誌に堕落させ、反文明国にしようとする政府こそ、国の名誉を傷つけ冒涜している」と反論。一審では有罪となったが、事件は翌年の民主化運動の導火線となったと言われる。

慎さんはその後、市民が出資して88年に創刊したハンギョレ新聞で論説主幹を務めた。「言論は良心と理性、知性によってのみ真実と正義を実現することができる。あのような指針は今はないが、経営幹部らの指示、広告主の意向という力が働いている」と強調した。
「いま壁が築かれている韓国と日本の間に、植村さんは橋を架けようとしている。この橋を渡って私たちが交流と連帯を深め、理解しあえればと願っています」

■市民が監視し、市民に表彰される韓国メディア

金彦卿(キム・オンギョン=51)さんは、元記者たちが作った民主言論運動協議会から引き継がれて、多くの市民が加わってメディア監視などを続ける民主言論市民連合の事務局長。
これまで数々の不正が行われてきた大統領選挙、国会議員選挙など選挙監視は、特に力を入れてきた取り組みだという。市民講座「言論学校」を作り、参加する市民を、日々の報道内容をチェックするモニターに育ててきた。
批判するだけでなく、すぐれた報道を毎月選考して公表。年末には最優秀報道を「王の中の王」として表彰してきた。各メディアからその受賞を目指される存在になっているという。
保守系新聞社に放送免許が与えられて、誕生したテレビ局の問題がある放送は市民連合が開いているフォーラムで取り上げ、「報道通信審議委員会」に問題提起している。「会員約5千人の毎月千円の会費で、すべての活動費がまかなわれています。地道に活動を続けてきた会は、年末に35周年を迎えます」と金さんは言う。


NGO「国境なき記者団」による2019年度報道の自由度ランキングでは、180カ国・地域の中で韓国は41位、日本は67位だった。忖度がまかり通る日本の厳しい言論状況を打ち破っていくための大きなヒントを、2氏の講演は示してくれた。


text and photo by H.H

2019年10月11日金曜日

控訴審最終意見陳述

櫻井を勝たせた札幌地裁判決は、間違っている。櫻井が捏造の根拠として示した訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点では、私の記事を「捏造」とか「捏造の疑い」とは絶対に書けない。「捏造」は誤報と違い、間違いであると知りながら意図的にでっち上げることである。「捏造」と断定するためには、私が間違いと知っていたかどうか、植村の認識が問われるのに、この訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点セットには、私の認識を示す記述が一切ないからだ。櫻井が、私の記事を「捏造」と断罪するからには、確かな取材と確かな証拠が必要だった。しかし、櫻井は私の記事を「捏造」と断定する直接的な証拠を何一つ示せていない。そのうえ、私に一切取材せず、金学順さんら元慰安婦に誰一人会いもせず、「韓国挺身隊問題対策協議会」にも、私の義母にも取材していない。櫻井には「真実性」はおろか、「真実相当性がある」と言えるファクトが、ひとつもないのだ。しかし、一審では「真実相当性」があるとして、櫻井を免責してしまった。極めて異常な判断だった。


■植村さんの意見陳述(全文)

この夏、私は30年ほど前の「私」に再会しました。1990年から91年にかけて、朝日新聞大阪社会部記者として、韓国ソウルで「慰安婦」問題を取材していた私の声が入った録音テープを見つけたのです。「慰安婦」問題に取り組んできたジャーナリストの臼杵敬子さんの自宅にありました。私が今回、証拠として提出したものです。

一つは、1990年7月17日、梨花女子大学教授で慰安婦問題の調査を続けていた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生に私がインタビューしている録音テープでした。こんなやり取りです。尹先生、「韓国でも挺身隊について関心が高まっていて、これがどんどん広がると、おばあさんたちも(中略)話をするようになるかもしれない」。私、「女子挺身隊問題は、日本では知られていないからもっと報道しなければならない。(中略)。おばあさんと会えますか」。私たちは「挺身隊」を「慰安婦」の意味で何度も使っています。

その翌年の91年2月、私は韓国人女性と結婚し、太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)幹部の梁順任(ヤン・スニム)さんが義母となりました。櫻井よしこさんは、91年12月に遺族会が日本を相手取った戦後補償の裁判を支援するために、私が記事を書いたと言いますが、そのずっと前から慰安婦の記事を書こうとしていたのです。

91年夏、元慰安婦の女性が、尹先生が共同代表を務める「韓国挺身隊問題対策協議会」に名乗り出て来ました。そのことを朝日新聞ソウル支局長から聞き、ソウルに出張しました。女性にはインタビューできませんでしたが、尹先生の調査と女性の録音テープをもとに91年8月11日付の朝日新聞大阪本社版の記事を書きました。この裁判で記事Aとされるものです。尹先生は、その女性についても「挺身隊」だと説明していました。

もう一つの録音テープは、日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になることを決めた金学順さんに対する弁護士の聞き取りを記録したものです。この裁判は、遺族会が起こそうとしたもので、聞き取りは91年11月25日にソウルで行われました。それを傍聴させてもらい、私は、91年12月25日付の記事Bを書いたのでした。金学順さんとの私の会話も録音されています。

私は金さんに名乗り出た時のことを聞いています。金さんは在韓被爆者の女性と一緒に「韓国挺身隊問題対策協議会」に行ったのです。金さんはこんな内容の話をしていました。「挺身隊問題の関連がある、いまそこに用事で行くと。そんな話を聞いて行ったんです」。

私はこう聞いています。「テレビに出たじゃないですか。それを見た町内の人たちに、おばあさんが昔、挺身隊にいたんだと知られましたか」。金さんは答えました。「知らない人は知りません」。金さんも私も「慰安婦」の意味で、「挺身隊」という言葉を使っています。

櫻井さんは、雑誌『WiLL』2014年4月号で、こう私を非難しました。(植村氏は)「慰安婦とは何の関係もない『女子挺身隊』と結びつけて報じた」。櫻井さんの論理は、私が読者に「女子挺身隊」を強制的に動員された「勤労女子挺身隊」と誤解させるため、本当は女子挺身隊と慰安婦は違うと知りながら、意図的に捏造記事を書いたというものです。しかし、今回証拠提出した二つのテープは、櫻井さんのその理屈が完全に破綻していることを客観的に証明しています。

櫻井さんは一審で矛盾だらけの陳述をしています。臼杵敬子さんが書いた月刊『宝石』1992年2月号の金学順さんの被害証言記事を読んだ当時の印象を、櫻井さんは一審の本人尋問でこう証言しました。「植村さんが朝日新聞に書いた女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春を強いられたという内容と全く違う(中略)ことに衝撃を受けました。強い印象を持ちました」。しかし、宝石の記事では冒頭で、挺身隊とは日本では軍需工場などで働く女子を指すが、朝鮮半島では違う、慰安婦を意味する、とはっきり書いています。さらに本文では、金さんがサーベルを下げた日本人将校に脅され養父と引き離され、強制的に慰安婦にさせられたと書かれています。この『宝石』の記事は私の記事Aと同じ内容になっています。したがって、櫻井さんが91年8月の記事Aを読んだ時に、「女子挺身隊」が、「勤労挺身隊」を指すと信じたとしても、92年の『宝石』の記事を読んだ後は、韓国でいう「慰安婦」を指すことに、容易に気づけたはずです。

それなのに、「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という表現で、「植村は、勤労挺身隊が慰安婦にされたと誤解させるような記事で、国の関与による強制連行説をでっち上げた」という主張をずっと続けているのは、自説に不利な要素を無視した理屈で、破綻しています。札幌地裁判決が認定した「挺身隊と慰安婦は無関係」も、この「宝石」の記事だけを読んでも、事実に反することは明らかです。
 
そもそも、当時の日韓の報道を見れば、慰安婦の意味で、「挺身隊」「女子挺身隊」と呼んでいたのは、簡単にわかることです。金学順さん自身が「挺身隊」だと言い、強制的に連行されたことを語っているのです。当時の産経新聞や読売新聞も金さんについて、「強制連行」という表現を使い、北海道新聞や東亜日報も「挺身隊」という言葉を使っています。

「挺身隊」を辞書で引くと、「任務を遂行するために身を投げ打って物事をする組織」(大辞泉)とあります。鉄道挺身隊など、広い意味で使われていた言葉です。「関東軍戦時特別女子挺身隊」と日本軍が慰安婦の意味でも使っていたという証言もあります。ところが、櫻井さんは女子挺身勤労令に基づく法律用語に限定解釈し、それに基づいて私を「標的」にして、「捏造」と批判しているのです。重大な人権侵害になりかねない「捏造」という言葉を使うなら、他の意味で使っていないか、その場合も捏造と言えるのかを調べてみる注意義務があるはずです。

当時、京郷新聞記者として、金学順さんの91年8月14日の記者会見を取材した韓恵進(ハン・へジン)さんが今回、陳述書を出してくれました。こんな内容です。〈「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され,日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という表現が問題とされているそうですが,なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも,「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります。」〉

その時の会見や、金さんへの弁護団の聞き取りテープでは、金さんは、クリョカッタ(引っ張られた)と何度も証言していました。それは日本語に訳すと、「連行された」という意味です。記事Aで私が書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という表現を裏付ける内容です。

また櫻井さんは、雑誌『WiLL』2014年4月号で、金学順さんが日本政府を相手に裁判を起こしたことにこう言及しました。「訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと(中略)などが書かれている」。それが捏造のもう一つの根拠でした。しかし、実際の訴状にはその記述は一切なく、取材のずさんさが明らかになりました。櫻井さんは一審の本人尋問でその間違いを認め、雑誌や新聞での「訂正」に追い込まれました。

私は札幌高裁に新証拠などを提出しました。『週刊時事』という雑誌の1992年7月18日号と同年12月の日本テレビのニュースの録画です。『週刊時事』で櫻井さんは、金学順さんらの裁判に言及し、こう書いています。「強制的に旧日本軍に徴用されたという彼女らの生々しい訴えは、人間としても同性としても、心からの同情なしには聞けないものだ」。「売春という行為を戦時下の国策のひとつにして、戦地にまで組織的に女性たちを連れて行った日本政府の姿勢は、言語道断」。また櫻井さんはキャスターだった1992年12月に、「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たち」とテレビ報道しています。画面には金学順さんも映っていました。

それなのに、櫻井さんは2014年になって、金学順さんについて、「人身売買で慰安婦になったのに、植村はそれを隠して強制連行と書いたから捏造だ」というような内容を叫び始めます。では、自分も捏造したことにならないのでしょうか。櫻井さんの言い分は公正を欠き、矛盾だらけです。
櫻井さんを勝たせた札幌地裁判決は、間違っています。櫻井さんが捏造の根拠として示した訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点では、私の記事を「捏造」とか「捏造の疑い」とは絶対に書けません。「捏造」は誤報と違い、間違いであると知りながら意図的にでっち上げることです。「捏造」と断定するためには、私が間違いと知っていたかどうか、植村の認識が問われるのに、この訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点セットには、私の認識を示す記述が一切ないからです。

櫻井さんが、私の記事を「捏造」と断罪するからには、確かな取材と確かな証拠が必要でした。しかし、櫻井さんは私の記事を「捏造」と断定する直接的な証拠を何一つ示せていません。そのうえ、私に一切取材せず、金学順さんら元慰安婦に誰一人会いもせず、「韓国挺身隊問題対策協議会」にも、私の義母にも取材していません。櫻井さんには「真実性」はおろか、「真実相当性がある」と言えるファクトが、ひとつもないのです。しかし、一審では「真実相当性」があるとして、櫻井さんを免責してしまいました。極めて異常な判断でした。

この判決が高裁でも維持されれば、ファクトに基づいて伝えるジャーナリズムの根幹が崩れてしまいます。ろくに取材もせずに、事実に反し「捏造」と決め付けることが自由にできるようになります。第二、第三の「植村捏造バッシング」を生みかねない、悪しき判例になってしまいます。その先にあるのは「報道の自由」が弾圧されるファシズムの時代ではないでしょうか。

私は捏造記者ではありません。ファクトを伝えた記者が、「標的」になるような時代を一刻も早く終わらせて欲しい。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。司法による救済を期待しています。札幌高裁におかれては、これまでの証拠や新しい証拠を検討していただき、歴史の検証に耐えうる公正な判決を出していただきたいと願っております。


■渡辺達生弁護士の意見陳述(要約)

植村さんと弁護団は9月17日に3通の準備書面(2)、同(3)、同(4)を提出した。
渡辺弁護士は各書面の概略を説明し、さらに弁論の締めくくりとして、原判決の根本的な誤り、原判決が社会にもたらした影響、櫻井氏の政治的な言説についての見解を明らかにし、原判決の破棄を求めた。
以下は、要約である(文中敬称略、文責編者)。

▼準備書面(2)の主張
原判決は「真実相当性」の法理で櫻井を免責したが、それは、厳格な判断を求める最高裁判例を逸脱するものであった。この点については、すでに提出した控訴理由書で詳述しているが、準備書面(2)では、過去10年のマスコミ報道による名誉棄損の代表的な下級審判例10件を詳細に検討している。
この10件はいずれも、(1)被害が重大である場合ほど慎重な裏付け取材が必要であり、(2)本人への取材の有無、⑶取材源の情報を裏付ける取材の有無や重要な関係者への取材の有無、を重視している。また、(4)本人への取材や取材拒否があった場合であっても、裏付け取材が不十分であれば相当性は否定される例もある。
これらに本件を照らしてみると、櫻井が裏付け取材を全くしていないことが最大の問題であり、にもかかわらず櫻井の「真実相当性」を安易に肯定した原判決は、過去の下級審判例から見ても極めて異例であり、過去の判断枠組みを大きく逸脱している。

▼準備書面(3)の主張
原判決は、植村記事が「捏造」ではないことの重要な根拠となる喜多義憲証人の証言には言及しなかった。そこで、準備書面(3)は、植村と同時期にほぼ同内容の記事を書いた喜多の証言が重要な意味をもつことを強調している。また、新たに提出した韓国紙記者の陳述書2通と、原判決が判断の材料とはしなかった水野孝昭論考「慰安婦報道の出発点――1991年8月に金学順が名乗り出るまで」を引用し、朝鮮人慰安婦を「挺身隊」と関連づけて報じた記事は、植村記事が最初であったわけでもなければ、朝日新聞だけがとった表現でもない、と主張している。

▼準備書面(4)の主張
原判決は、「従軍慰安婦は性奴隷ではなく売春婦である」という櫻井らの政治的な主張に基づく資料により、「慰安婦ないし従軍慰安婦とは、太平洋戦争終結前の公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性などの呼称のひとつである」と認定した。植村と弁護団は原審で、本件は名誉毀損訴訟であることを重視し、従軍慰安婦の歴史的な問題についてはあえて触れずに訴訟を進めてきた。しかし、裁判所のこの認定は、河野談話やアジア女性基金の取り組みなどで日本政府が明らかにしてきた従来の認識に反するものである。
そこで、準備書面(4)は今回提出された和田春樹・東大名誉教授の意見書を引用し、原判決を強く批判している。和田は意見書で「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです」と述べている。この企てに加担したのが原判決である、と準備書面(4)は主張している。

▼原判決の根本的な誤り
原判決は、「金学順氏が継父によって人身売買され、慰安婦にさせられたという経緯を知りながらこれを報じなかったこと、慰安婦とは何の関係もない女子挺身隊とを結びつけ、金学順氏が「女子挺身隊」の名で日本軍によって戦場に強制連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」であるとすること、事実と異なる本件記事Aを敢えて執筆したこと」(裁判所認定摘示事実1)を櫻井が真実と信じたことについて相当な理由があるとして、植村の請求を棄却した。
しかしながら、櫻井がこの摘示事実を真実であると信じることはありえないことである。人身売買のことも女子挺身隊ということも櫻井の立場では重要な問題であり、その立場を前提にすればこれらの問題の虚偽が成り立ちうるが、植村や日本政府の立場を前提にすればこれらの問題は全く重要な問題ではなく、虚偽自体が成立しない。つまり、これは慰安婦問題に関する見解の相違に帰着する問題である。そのことを櫻井は熟知していたのであるから、摘示事実1を真実だと信じることはあり得ない。

▼櫻井の慰安婦否定論と原判決が社会にもたらした悪影響
櫻井は、従軍慰安婦は売春婦であり日本に責任はないという立場でさまざまな活動を行っており、その一環として、植村記事の捏造決めつけが行われた。このような言説は日本政府の従来の立場を否定し、日韓関係の悪化をもたらすだけでなく、日本の国際的な信用をも害するものである。
原判決は、真実相当性のハードルを下げて櫻井を免責し、日韓関係の事実上の悪化にも事実上加担したと言わざるを得ない。少数者の人権の保障を目的の一つとする司法が、このような加担をすることは司法の自殺行為であり、原判決は絶対に破棄されなければならない。

■提出した証拠一覧
(今回期日提出分、日付は作成または提出日、氏名は作成者)

▼155号=判決(東京高裁2011年7月28日、名誉毀損訴訟で真実相当性に厳格な判断を下した、以下同)
▼156号=判決(東京地裁2011年11月16日)
▼157号=判決(広島地裁2013年5月29日)
▼158号=判決(東京地裁2013年12月13日)
▼159号=判決(大阪地裁2016年4月8日)
▼160号=判決(東京高裁2016年10月24日)
▼161号=判決(東京地裁2016年7月26日)
▼162号=判決(東京地裁2017年3月28日)
▼163号=判決(東京地裁2019年3月5日)
▼164号=判決(東京地裁2019年3月26日)
▼165号=書籍「迷わない」(櫻井よしこ著、2013年12月刊、文藝春秋)
▼166号の1=太平洋戦争犠牲者遺族会への金学順さんの入会願書(1991年11月)
▼166号の2=同上の訳文(米津篤八)
▼167号の1=金学順さんの経歴書(1992年1月)
▼167号の2=同上の訳文(米津篤八)
▼168号=陳述書(元京郷新聞韓恵進記者、2019年9月17日)
▼169号=映像(KBSテレビ、1991年8月14日)
▼170号=同上の訳文(吉村功志)
▼171号の1=陳述書(キムミギョン記者、2018年4月10日)
▼171号の2=同上の訳文(吉村功志)
▼172号=陳述書(李英伊記者、2017年11月13日)
▼173号の1=日本ニュース(第145号「前線へ、女子挺身隊」、1943年3月16日)
▼173号の2=同上のビデオ反訳(永田亮)
▼174号=戦争証言アーカイブスHP(NHK、2018年11月21日)
▼175号=陳述書(能川元一、2018年7月30日)
▼176号=日記(梁順任、1991年9月19日)
▼177号=いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト(時期不明、西岡力)
▼178号=「正論」(2015年2月号、西岡力)
▼179号=「正論」(2015年3月号、西岡力)
▼180号=産経新聞(1991年9月3日、尹貞玉氏講演関連記事)
▼181号=控訴理由書(2019年8月28日、植村隆と植村裁判東京弁護団)
▼182号=毎日新聞(2019年9月14日、吉見義明インタビュー記事)
▼183号=和田春樹・東大名誉教授の意見書(2019年9月17日)
▼184号=書籍「慰安婦問題とアジア女性基金」(2007年3月1日)
▼185号=論文「政府発表文書にみる『慰安所』と『慰安婦』」(1999年)
▼186号=書籍「日本軍『慰安婦』制度とは何か」(岩波ブックレット、吉見義明、2010年)
▼187号=DVD「ふりかえれば未来が見える――問いかける元『慰安婦』たち」(1998年)
▼188号=同上の要約文
▼189号=陳述書(臼杵敬子、2019年9月17日)
▼190号=書籍「現代の慰安婦たち」(臼杵敬子著、1983年)
▼191号=記事「挺身隊アイコ30年目の帰国」(臼杵敬子、雑誌ペンギンクエッションン、1984年)
▼192号=金学順氏の証言録音(植村隆録音、1991年11月25日)
▼193号=同上の反訳文(米津篤八)
▼194号=同上の日本語翻訳文(米津篤八)
▼195号=尹貞玉氏の証言録音(植村隆録音、1990年7月17日)
▼196号=同上の反訳文(米津篤八)
▼197号=同上の日本語翻訳文(米津篤八)
▼198号=書籍「Q&A『慰安婦』・強制・性奴隷 あなたの疑問に答えます」(制作委員会編、2014年)
▼199号=写真集(抜粋、金学順氏関係部分、日本の戦後責任をハッキリさせる会、1995年)
▼200号=書籍「よくわかる慰安婦問題」(西岡力著、2012年)
▼201号=書籍「日本の論点」(文藝春秋、1992年)

※上記証拠の内、とくに重要なものについては、近日中に詳しい解説を掲載します