2019年6月20日木曜日

東京判決の注目点3

第11回口頭弁論の後に参院議員会館で開かれた報告集会の
発言者。上段左中は東京新聞・望月衣塑子記者。下段は、
左から 穂積剛、神原元、大賀浩一弁護士、福島瑞穂議員
=2018年1月31日

 東京判決の注目点 3
被告西岡の主張の「真実性」と「真実相当性」の検討

金学順さんのキーセン学校の経歴を
植村氏が「意図的に」書かなかったことを、
西岡は「捏造」の根拠としている。
しかし、「意図的に」を西岡は証明できず、
そのように信ずるに足る調査検討も
尽くされてはいない。



原告最終準備書面p51~60
❷金学順が述べた重要な経歴に関する事実を記事に書かなかったとする点
真実性の検討


ア■被告西岡は、慰安婦となる経緯として金学順が語った重要な事実を、原告が意図的に記事に記載していないと主張する。ここでも、①原告の記事が金学順の証言と異なること以外に、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたこと、③原告には義母の裁判を有利にするという動機があって、それに基づいて記事を書いたことがいずれも立証されなければならない。

この点、被告西岡は、❷のように主張する根拠として、ⓐ金学順は同人に中国に行くよう勧めたのは検番の養父であると証言しているのに、原告がこれを記事Bに「地区の仕事をしている人」と偽って書いた事実、ⓑ金学順は同人を中国に連れて行ったのは検番の養父であると証言しているのに、原告がそれを記事に記載していない事実、ⓒ金学順は同人を慰安婦として慰安所に連れて行ったのが検番の養父であると証言しているのに、原告がそのように書いていない事実、の3つをあげているものと解される。

イ■しかし、まず、については、ハッキリ通信(甲14)※注や弁護団聞き取りメモ(甲15)には、「そこに行けば金が稼げる」と述べた人物は「町内の里長」(甲14)、「町内の区長」(甲15)とあるから、金学順は1991年11月25日の弁護団聞き取りの際には、そのように述べたと認められ、「地区の仕事をしている人」という原告記事Bの記載は金学順の証言と異ならない。原告の記事Bは「録音テープを再現する」として11月25日の金学順の証言をそのまま読者に伝えたものであり、 原告の記事が金学順の証言と異なるとの事実は証明されない。<※注=ハッキリ通信は、戦後補償問題に取り組んだ「日本の戦後責任をハッキリさせる会」が不定期で発行した冊子版のニュース>

ウ■に関しては、まず、記事Aの段階については、91年8月10日に原告が聞いた証言テープは「(そのテープの中で金さんは自分はキーセンだったとか、自分は売られて慰安婦になったなどと話していましたか、の問いに)そういう記憶はありません。30分くらいの短いテープでして、そしてこれは主に慰安婦になったそのときの被害状況、それからそれに対する本人の思い、感情などが込められていた」(原告本人調書4頁)というものであるから、中国に行った経緯が詳しく述べられていたわけではない。したがって、記事Aの段階で、原告は金学順を中国に連れて行った主体が養父であることを知っていたとはいえず、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書かなかったとの事実は証明されない。

記事Bの段階については、記事Bの素材である11月25日の聞き取りを収録したハッキリ通信(甲14)や弁護団聞き取りメモ(甲15)には養父が中国に金学順を連れて行ったという記載はなく、むしろ、「私は日本名で『エミコ』さんと呼んでいた友だちと二人で行くことに決め」との記載があるから、金学順は、この段階でも、原告の前では「養父が金学順を中国に連れて行った」旨の証言はしてないと認められる。したがって、①原告の記事が金学順の証言と異なっているとの事実は証明されない。

なお、被告西岡は、「(若い女の人が2人で平壌を離れるということが考えられるかの問いに)自分だけで行ったなんていうことは常識的に言って考えられない」とも証言する(被告西岡本人調書8頁)。しかし、すでに述べたとおり、本件で問題となるのは原告が書いた記事と金学順の証言とが相違するかどうかという点のみであり、金学順の証言の信憑性は問題とならないところ、前記のとおり、11月25日の聞き取りに際して金学順が「養父が金学順を中国に連れて行った」旨の証言はしてないことは明らかであるから、金学順の証言の信憑性を問題とする被告西岡の主張は前提を誤ったものであり失当である。

エ■について、被告らは、「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行ったのは検番の養父である」との事実を主張してきた(被告2015年8月31日付け準備書面6頁、同2016年2月5日付け2頁等)。しかし、1991年8月15日付け北海道新聞(甲25)によれば、金学順は、慰安婦になる経緯としては「養父と、もう一人の養女と三人が部隊に呼ばれ、土下座して許しを請う父だけが追い返され、何が何だか分からないまま慰安婦の生活が始まった」と証言し、同日付けハンギョレ新聞(甲67の2)によれば「私を連れて行った義父も当時日本軍人にカネももらえず、武力で私をそのまま奪われたようでした」と証言し、月刊宝石92年2月号記事(乙10)によれば「(金学順の)養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」と証言しているというのであるから、金学順は、1991年8月の当初から、一貫して、どこかの時点で養父と引き離され日本軍により慰安所まで連行された旨証言していたと理解する以外になく、金学順を慰安婦として慰安所まで連行したのは養父であるとの証拠はどこにもないのである。したがって、「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行ったのは検番の養父である」との事実はそもそも存在しない。
よって、①原告の記事が金学順の証言と異なるとの事実は証明されない。

オ■被告西岡は、原告の記事に「金学順がキーセン学校にいた事実」あるいは「金学順が検番の養父に売られた事実」が記載されていないことをもって、「金学順が述べた経歴に関する重要な事実を記載しておらず捏造である」とも主張するようである。

しかし、取材対象者の経歴を偽って書いた場合は別論、対象者の経歴を「書かなかった」ことを「捏造」(でっちあげ)であると事実摘示できるのは、当該取材対象者の経歴が、それを記事に書かないと一般読者に重大な誤解が生じるほど重大なものであり、かつ、記者が、当該経歴を書くことは重要であると認識していたのに、あえて意図的に書かなかったような場合に限られるはずである。
この点、1991年当時、原告記事以外の日韓の報道各社の記事も、この経歴については触れていないこと(甲22乃至24)からして、「金学順が14歳のときにキーセンの検番に身売りされキーセン学校に行っていた」という経歴が重要なものであると一般的に認識されていなかったことは明らかであり、したがって、原告も当該経歴を記事に書くことが重要なものとは認識していなかった。被告西岡自身も「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受け止めてしまった」(甲26)と述べているとおりである。

また、金学順がキーセン学校にいた(あるいは「検番の養父に売られた」)のは、慰安婦になる3年前、14歳の時である(乙10号証など)。キーセンだからといって慰安婦になるわけではなく、キーセン学校にいたことと慰安婦になったこととの間には関連性が認められないのであるから、キーセン学校の経歴が重要なものと認識されていなかったことには合理性がある(朝日第三者委員会報告書も「キーセン学校に通っていたからといって、金氏が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方なかったとはいえない」「植村による『キーセン』イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できる」(甲64、18頁)としている。)。

そして、前記のとおり、金学順は、1991年8月の当初から、一貫して、どこかの時点で養父と引き離され日本軍により慰安所まで連行された旨証言していたのであるから、金学順が慰安婦になる経緯を記事にするに際して重要なのは金学順がキーセン学校にいたことではなく日本軍によって武力で奪われたことと考えたとしても不合理ではなく、実際、多くの新聞がそのように記載していた(甲68、甲23等)。この点、被告西岡も「日本軍が武力で奪ったことこそが本質だと思うが、全くあり得ない解釈か」という質問に対して、「あり得ないなんて思っていない。そういう解釈が当時は一般的だったです。」「多数派だったかもしれない。そういう解釈はたくさんありました。」とも述べている(被告西岡本人調書41頁)。

そうすると、「事案の本質は日本軍が武力で奪ったことであるからキーセン身売りの事実を記事に書かない」というのは当時の一般的な認識だったのであり、原告も当該経歴を記事に書くことが「重要なこと」とは認識していなかった。まして、原告が当該経歴(金学順がキーセン学校にいたこと)を記事に書くことは重要であると認識していたのに、あえて書かなかったとの事実は立証されない。

カ■なお、被告西岡は「キーセンも公娼制度の中」であり、「(金学順は)17歳で公娼制度として登録できる年になった」「借金を背負わされた女性が自由に自分の意思でお金を稼ぐようにしないといけないので、それを返さなきゃいけないんですから、その借金を持っている検番のおやじさんに連れられて中国に行ったということは、彼女が慰安婦になった経緯にとって重大な関係がある事実」だと主張する(被告西岡本人調書8頁)

しかし、キーセンと公娼制度を同一視し、キーセン学校に通ったという事情のみから当然に公娼なり慰安婦になりになる必然性があったかのように言う被告西岡の主張には相当な飛躍がある。

すなわち、被告西岡が根拠とする「共同研究 日本軍慰安婦」(乙12)にも、キーセンと慰安婦の結びつきについては「軍によって選定された業者たちの下で、直接(引用者注・慰安婦の)『募集』にあたる補助人たちで、言ってみれば、下請業者である。この下請業者には、朝鮮在住の接客業者、妓生券番、斡旋業者、人事紹介所、『人身ブローカー』の女衒などが含まれる」(53頁)とされているだけであって、妓生券番の中には慰安婦募集を担った者がいることは分かるものの、被告西岡が念頭に置くような「キーセン=公娼=慰安婦」という図式が記載されているとはいえない。まして、金学順が養父に借金を持っていたとか、金学順の養父が慰安婦募集を担ったブローカーだった等という証拠は全くない。

そもそも、「妓生を遊女だと定義したり、一九七〇年代の買春観光のキーセンのイメージで見る人がいますが、どちらも正確では」ない(甲52号証35頁以下)。妓生とは「朝鮮王朝時代に官妓として公的儀式や官庁の宴席で歌舞音曲を提供する女性」を指し、「特に平壌には妓生学校があり、妓生見習い生に三年の課程で歌舞音曲と教養科目を教授」した。「植民地期に日本からの観光客が平壌の舞踊を鑑賞するために、妓生学校訪問を観光コースに組み入れるほど、平壌の妓生学校は有名」「妓生へのまなざしも一概に卑賤視とばかりは言えない、あこがれや羨望も混じった複雑で多様なもの」「1920年代にレコード産業や映画産業が勃興すると、王寿福や石金星のような妓生出身の歌手や女優が大活躍し、世間の人気を集め」、「王寿福は普通学校の中退後に一二歳で平壌の妓生学校で学びましたが、王が活躍したのは金学順さんが妓生学校に通っていた時期」だというのである(同号証)。そうすると、キーセン学校を直ちに公娼制度に結びつけ、さらに慰安婦制度にまで結びつける被告西岡の主張は極めて一面的で偏っていることになる。

また、金学順が40円で身売りされたと決めつける被告西岡の主張も根拠が薄い。青山学院大学名誉教授の宋連玉教授によれば「これを身売りの前借金とするには、あまりに少額です。当時の物価で言えば40円は米一四〇キロに当たる金額で、現在の貨幣価値で換算すれば概算七万円から八万円にしかなりません。朝鮮における前借金の相場は一九二〇年代後半でも、日本女性は一七〇〇円、朝鮮女性は約四二〇円」だという。そこで、宋教授は金学順がキーセン学校に行った経緯として「金学順の母親は自らの体験から、貧しくても娘に技能を身につけ、自立して生きていけるように考えた結果なのでしょう」と推測している(甲52号証38頁)。

このように、被告西岡が主張するキーセン学校制度の趣旨や金学順の経歴について疑問の余地があるが、仮に被告西岡の主張するとおり金学順が養父に借金を負っていて養父が慰安婦募集のブローカーだったとしても、被告西岡が根拠としてあげる文献(乙12)は1995年8月4日の発行であるから、原告が、1991年当時この文献を読んで被告西岡と同じく、金学順がキーセン学校にいたという経歴や養父と一緒に中国に行ったことが慰安婦になった経緯として重要であるとの認識に達することができたとはいえない。まして、原告がそれらの事実を記事に書くことが重大であると認識していたのに、あえて意図的に書かなかった等といえるはずがない。

結局、被告西岡は歴史学上解釈の分かれる問題について確たる証拠もないまま独自の解釈に立って独断的な判断を下し、他者(原告)も自己と同じ認識に立っているものと証拠もなく断定し、その誤った前提に立って、原告に言いがかりをつけているに過ぎないことが明らかである。

キ■よって、❷について①②③の事実が証明されたとはいえず、この点をもって「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」との事実が証明されたとは到底いえない。


原告最終準備書面p71~76
❷金学順が述べた重要な経歴を記事に書かなかったとする点
相当性の検討

ア■ここでも、被告西岡は、まず、ⓐ金学順に中国に行くよう勧めたのは検番の養父であると証言しているのに原告がこれを記事Bに「地区の仕事をしている人」と偽って書いた事実、ⓑ金学順を中国に連れて行ったのは検番の養父であると証言しているのに原告がそれを記事に記載していない事実、ⓒ金学順を慰安婦として慰安所に連れて行ったのは検番の養父であると証言しているのに原告がそのように書いていない事実の3つの点について、資料に基づいて確認すべきであった。
  しかるところ、被告西岡は、この「ハッキリ通信第2号」(甲14)を所持していた(被告西岡本人調書22頁、37~38頁)のだから、「ハッキリ通信2号」には「町内の里長」と記載されていること、同書には養父に関する記載がないこと、したがって、原告が参加した91年11月25日の聞き取りで金学順がそのように述べたことを被告西岡は容易に知ることができた。そうすると、被告西岡は、ⓐ金学順に中国に行くよう勧めたのが検番の養父であると証言しているのに原告がこれを記事Bに「地区の仕事をしている人」と偽って書いた事実、ⓑ金学順は中国に連れて行ったのは検番の養父であると証言しているのに原告がそれを記事に記載していない事実が存在しないことを容易に知ることができたのである。
さらに、被告西岡は、前記1991年8月15日付け北海道新聞、同日付けハンギョレ新聞(甲67の2)、月刊宝石92年2月号記事(乙10)から、金学順は、1991年8月の当初から、一貫して、どこかの時点で養父と引き離され日本軍により慰安所まで連行された旨供述していたこと、したがって、ⓒの事実がないことも容易に知り得た。
よって、被告西岡が①原告の記事と金学順の証言とが異なると信じたことについて相当性は認められない。

イ■被告西岡は、金学順は原告が8月10日に聞いた証言テープの中で金学順を中国に連れて行ったのは検番の養父であると証言していたはずであり、そのように信じたことに相当性があるとも主張する。

しかし、すでに述べたとおり、相当性の抗弁を主張する者は、行為の際に必要な調査検討を尽くした事実を具体的に主張すべきところ、被告西岡があげる根拠は金学順が8月14日の記者会見で養父の存在に言及したからというのみである。金学順の供述には変遷があることは被告西岡自身が供述しているところであり(被告西岡本人調書54頁「いろんな変化がある人の証言」)、8月14日に言及したからといって8月10日に言及したとは限らず、現に11月25日には言及していないのである。そこで、被告西岡としては金学順が本当に8月10日の証言テープの中で養父について言及していたかどうか慎重に調査検討すべきだったにもかかわらず、証言テープを聞こうと努力もせず、この点について関係者への取材も一切していないのである。
よって、被告西岡が、金学順は8月10日の証言テープの中で同氏を中国に連れて行ったのは検番の養父であると証言していたはずだと軽信したとしても、そのことに相当性があるとは到底いえない。

ウ■被告西岡は、原告の記事に「金学順がキーセン学校にいた事実」あるいは「金学順が検番の養父に売られた事実」が記載されていないことを「捏造だ」と信じたことについて相当性があると主張する。
しかし、前記のとおり、取材対象者の経歴を「書かなかった」ことを「捏造」であると事実摘示できるのは、当該取材対象者の経歴が、それを記事に書かないと一般読者に重大な誤解が生じるほど重大なものであり、かつ、記者が当該経歴を書くことが重要であると認識していたのに、あえて意図的に書かなかった場合に限られるはずである。そうすると、この場合、被告西岡が「捏造」であると信じるについて相当性があるといえるためには、原告が当該経歴を「重大なものである」と認識し、それにも拘わらずあえて書かなかったと、被告西岡において信じるにつき相当な理由(調査検討を尽くしたこと)が必要であるというべきである。
この点、被告西岡は、1991年当時、原告記事以外の報道各社の記事が当該経歴について触れていない(甲22乃至24)ことを十分認識しており、「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受け止めてしまった」(甲26)と述べていた。また、「日本軍が武力で奪ったことこそが本質だと思うが、全くあり得ない解釈か」という質問に対して、「あり得ないなんて思っていない。そういう解釈が当時は一般的だったです。」とも述べていることも前記のとおりである(被告西岡本人調書41頁)。
報道各社の記事が当該経歴について触れておらず、したがって、キーセン学校にいたという金学順の経歴について他のどの記者も「重大なものである」と認識していなかったのに、原告だけが格別この点を重要と考え、あえて記事に記載しなかったという事実を信じるためには、相当合理的根拠が必要であり、そのために慎重な調査検討が必要だったはずである。ところが、被告西岡はせいぜい「原告の義母が遺族会の理事であった」という事実を提示できるのみであり、それ以上この点について合理的な根拠が提示できるような調査検討を尽くしたとはいえないのである。
そうすると、被告西岡において、原告が当該経歴を「重大なものである」と認識していたのにあえて書かなかったと信じるについて相当な理由があったとはいえず、①原告の記事が金学順の証言と異なるとか、②原告がそのことを知りつつあえて記事を書いたとかいう事実を信じるについて相当性は認められない。

エ■なお、被告西岡は「キーセンも公娼制度の中」であるから、「借金を持っている検番のおやじさんに連れられて中国に行ったということは、彼女が慰安婦になった経緯にとって重大な関係がある事実」だと信じたとしても、原告がキーセン学校について触れなかったことを「捏造」だと信じたことに相当性は認められない。
けだし、すでに述べたとおり、キーセン学校を公娼制度や慰安婦制度に直ちに結びつけたり、金学順が40円で身売りされたと決めつける被告西岡の前提認識は根拠薄弱で偏っている上、繰り返し述べるとおり、仮に西岡の前提に立つとしても、その場合に「捏造」であると事実摘示できるのは、「借金を持っている検番のおやじさんに連れられて中国に行った」という経緯が、それを記事に書かないと一般読者に重大な誤解が生じるほど重大なものであり、かつ、記者が経緯を書くことが重大であると認識していたのに、あえて意図的に書かなかった場合に限られるはずであるところ、被告西岡が参考にあげる文献(乙12)は1995年の発行であるから、原告が執筆当時(1991年)これを読んで被告西岡と同じ認識に立って「借金を持っている検番のおやじさんに連れられて中国に行ったという経緯はそれを記事に書かないと一般読者に重大な誤解が生じるほど重大なものである」と考えたと信じたことに根拠がないし、まして「原告がそのように考えたにも拘わらずあえて記事に書かなかった」と信じる根拠もないからである。

オ■以上から、❷の事実を信じたことを根拠としても、「原告が義母の裁判を有利にするという悪しき動機をもって金学順の証言を意図的にねじ曲げてこれと異なる記事を書いたこと」と信じるについて相当な理由があったとはいえない。


--------------------- 第3回 了 ---------------------

次回以降の内容

21日▼第4回 東京判決の注目点4
被告西岡の主張の「真実性」と「相当性」の検討
「植村氏が悪しき動機に基いて記事を書いた」とする点について

22日▼第5回 東京判決の注目点5
原告植村隆氏の最終意見陳述(2018年11月28日)
断たれた夢/激しいバッシングの中で/裁判官の皆様へ