2019年11月6日水曜日

重要証拠解説その2


 妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料 
 妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料 

キーセンは売春婦ではなかった!

朝鮮総督府が1932年に発行した『生活事情調査報告書 平壌府』には当時の妓生の学校での様子や居室での生活の写真が多数掲載されている (写真下)


平壌の妓生学校の整列風景(写真上左)と合唱の練習(右)
居宅で書を練習する妓生(写真下左)と居宅の様子(右)
植村氏の記事を「捏造」と決めつけた西岡力氏の根拠のひとつは、「キーセンに身売りされた」という金学順さんの経歴を植村氏が書かなかったことだという。その事実を裁判所は認定し、西岡氏がそう信じたことに相当の理由がある、と判断した。しかし、裁判所のこの判断の根底には「キーセンは売春婦だ」という思い込みや事実誤認があるのではないか。


キーセンは、公娼制度の下で性売買を業とした娼妓とは異なり、歌や踊り、書など諸芸に秀でた芸妓として遇される存在だった。中には歌謡界のスターになった人もいる。平壌にあった妓生養成所は権威のある学校だった。植村弁護団は当時の社会事情や世相が克明に記録・記載されている証拠資料をもとにして、西岡氏らの「キーセンは売春婦」説の虚妄をきっぱりと否定した。証拠資料の収集と提出にあたっては、朝鮮近現代史の研究者らの協力と助言があった。これらの証拠は、「証言録音テープ」とともに裁判の最終局面で西岡氏らを痛撃する一打となった。
以下に、控訴理由補充書(1)が詳しく論述した第3項(16~28ページ)の全文を掲載する。見出しとも原文のまま。(甲)数字は、証拠番号。

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第3 1935年当時の「妓生」という存在

1 問題の所在・「キーセン」は売春婦か
(1)原判決の認定の前提
控訴理由書でも指摘しておいたように、原判決は「裁判所認定摘示事実1」として、
 「原告が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いた」
と認定した。
この認定が根本的な誤りであることは控訴理由書において詳細に指摘したとおりであるが、原判決がこのような認定をするにあたって、ことによると「キーセン」=「売春婦」を指すかのような事実誤認が前提に存在していた可能性はある。
(2)本項の趣旨
そこで本項では、金学順が「身売りされた」とされる「キーセン」という存在がそもそも当時においてどのようなものであったのかを検討する。
また、現在判明している金学順の経歴と認識をもとにして,本当に金学順が「キーセンに身売りされた」と評価できるのか、そのことが「性を売らされる」ことになったとしてもやむを得ない境遇だったのかについて、検討することとする。

2 日本の「芸妓」と朝鮮の「妓生」
(1)「芸能人」としての妓生
この問題に関しては、すでに提出済みの甲52「Q4 金学順さんは妓生学校出身だから被害者ではない?」で触れられているところである。すなわち、金学順が「身売り」された当時の「妓生」というものは、「性を売る」遊女のような存在ではなかった。芸妓に秀でたエンターテイナー、現在でいう芸能人のような存在だったのである。
なお以下においては、原判決が認定した「キーセン」の意味と、実際の《キーセン》の意味するところが異なることを明らかにする趣旨で、これを「妓生」として表記する。

(2)金学順が「身売り」された時期
金学順は1922(大正11)年10月20日に出生し、満13歳のときに金泰元という人物の養女になるとともに妓生学校に通うようになった(甲148、1枚目・6~7枚目)。満13歳のときとは、すなわち1935(昭和10)年のことである。「月刊宝石」(乙10)の臼杵敬子の記事によれば、金学順はこのとき「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たと記載されている。すなわち、1935年当時の「妓生」が実際にはどういう存在だったのかが、ここでは問題となる。

(3)朝鮮における「妓生」=「芸妓」
妓生は「朝鮮王朝時代に官妓として、公的儀式や官庁の宴席で歌舞音曲を提供する女性」を指すものであり、「身分的には賎民であっても特殊技能」を有する存在であったとされている(甲52)。
1910(明治43)年の韓国併合後に、朝鮮総督府では日本の法制度に準じた法整備を行っている。その後の1916(大正5)年に発出された「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)の第1条には、「藝妓(妓生ヲ含ム以下同シ)」と定義されており、朝鮮における「妓生」の位置付けが日本での「芸妓」と同一であったことがわかる。

(4)日本での「芸妓」と「娼妓」の相違
そこで、「芸妓」と対比される存在である「娼妓」の位置付けが、まず「日本において」どのようなものであったのかを検討する。
日本の「娼妓」については1900(明治33)年に出された「娼妓取締規則」があり、「芸妓」については1904(明治37)年の「藝妓取締規則」が制定されている(甲202)。
この両者の最大の相違は、娼妓は登録前(第3条3項)のみならず登録後においても、「廰府縣令ノ規定ニ從ヒ健康診斷ヲ受クヘシ」(第9条)とされ、定期的な健康診断の受診が義務づけられていた点である。
警察署の指定した医師の診断を受け、「疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者」あるいは「傳染性疾患アル者ト診斷シタル娼妓」は、治癒したとの医師の診断書がなければ、業務を続けることが禁止されていた(第10条)。これに違反すると、「二十五圓以下ノ罰金又ハ二十五日以下ノ重禁錮」に処せられた(第13条第2号)。
これに対して「藝妓取締規則」には、このような健康診断に関する規定はない。芸妓には性売買が予定されていなかったので、健康診断を義務づける必要もなかったのである。

(5)朝鮮での「芸妓(妓生)」と「娼妓」の相違
これに対して、妓生について定めた朝鮮総督府における上記の「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)においては、「警察署長ハ藝妓又ハ酌婦ニ對し其ノ指定スル醫師又ハ醫生ノ検診ヲ受ケシメ又ハ健康診斷書ノ提出ヲ命スルコトヲ得」(第8条)として、芸妓(妓生)の健康診断に関する規定がいちおう定められていた。
この規定は日本本国の娼妓取締規則第9条に近い定めと言えるが、朝鮮では娼妓にのみ健康診断の実施について、さらに詳細な規定があった。
それが「娼妓健康診斷施行手續」(甲204)である。ここでは、警察署において娼妓の健康診断を担当する医師、場所と定期健康診断日を指定する(第1条)ものとし、娼妓の健康診断を慎重に実施すべきことを定めている。第2条では、受診していない者(1号「不参者」)や替え玉受診(2号「人違ノ有無」)がないかどうかまでチェックすべきと指示している。
さらに健康診断を実施した際には、「健康」「入院」「通院」「休業」「治癒」の5区分の分類を診断書に記載すべきものと定められている。
こうした健康診断の記録については、様式(雛形)まで詳細に指定され、また各警察署はその結果を警務部長に報告することとも規定されてある(第7条)。

(6)「妓生」に性売買の前提なし
このように朝鮮においても、芸妓(妓生)と娼妓とは明確に区別され、娼妓には詳細な健康診断の定めがあったが芸妓にはそうした規定がない。これは、芸妓にそもそも性売買が予定されていなかったことを示している。

3 芸能人としての「妓生」の活躍
(1)妓生出身の芸能人
朝鮮において芸妓すなわち妓生は性売買が予定されておらず、むしろ歌や踊りに秀でた芸人とでもいうべき存在であった。そのため、朝鮮においても1920年代にレコード産業や映画産業が発達してくると、メディアで広く知られる妓生出身の歌手や女優が活躍するようになる(甲52)。

(2)妓生「王寿福」の活躍
その代表例とされるのが、妓生出身の歌手・モデルである王寿福である。王は1917年に平安南道で生まれ、1928年に平壌の妓生学校に入学し、唱、琴、絵画、書道を習うが、特に書画に才能を発揮して、平壌名妓9人のうちの一人に選ばれたとされる。王は1931年に妓生学校を卒業して、2年後の1933年に妓生として本格的に稼働し始めた。
王はこの1933年にはレコードを吹き込み、妓生出身の歌手として活躍するようになる。曲は「古都の静閑」「人生の春」といったもので、当時の最高売上を記録したという。
1934年には京城(ソウル)の放送局でオーケストラの演奏のもとで独唱して、これが日本にも中継放送された。さらに1935年に全国巡回公演を成功させ、日本や中国でも公演して大スターになったとされている。絵はがきや絵画の題材としても売り出され、俳優としても新聞雑誌のモデルとしても大活躍していた。
王はその後、芸妓の籍を返上して、東京音楽学校で本格的に音楽を学んだ。朝鮮の伝統歌謡を西洋の唱法で歌い、話題になったという。

(3)王寿福の雑誌記事
このように世上に広く知られるようになった王寿福が、1934(昭和9)年11月4日の『週刊朝日』11月増大号で紹介されたのが、甲205の記事である。
右頁の見出しには「明麗! 朝鮮圓盤界のドル箱妓生」として紹介され、左頁の本文では本人の写真とともに「美貌と美聲と 王壽福」としてその活躍する記事が書かれている。
この週刊朝日の記事が1934年11月、そして王寿福のオーケストラ独唱が同じ年、さらに全国公演の実施が1935年である。そしてこの1935年に金学順は、妓生学校に通うようになっている。こうした人気者になる道も開ける進路として、金学順が将来に期待を持っていたとしてもおかしくない。

(4)妓生学校についての紹介
この当時に平壌にあった妓生学校について、朝鮮総督府が1932(昭和7)年に発行した『平壤府』という調査報告書は、次のように記述している(甲206)。

「妓生の養成
朝鮮人藝妓は妓生と稱するが、古來平壤は妓生の本場にして、歴史上有名なる妓生の輩出したことが尠なくない。京城に於ける妓生の中にも平壤出身のものが頗る多く、平壤は妓生の産地として夙に喧傳されて居る。現在平壤に於ける妓生には、箕城・大同兩券番の設けがあり、彼等は内地人藝妓の如く抱主に自由を束縛せらるゝことなく、大部分は自前にして、各自券番の組合員として、役員選擧、其他の發言權を有し、その自宅に於ける生活は概ね中流以上の堂々たるものである。一般に平壤の妓生は、容姿・技藝・客扱ひ等に卓越して居るが、これは妓生の養成方法の組織的なことにも大に原因して居ると思ふ。」(114~115頁)

(5)平壌にあった「妓生養成所」の実態
こうした指摘のうえでこの報告書では、当時の平壌の妓生学校がいかに優れたものであったかについて、「平壤箕城養成所規程要領」を紹介している。
教員としては学問のほかに「歌舞」、「雜歌」、「音樂」、「書畫」、「日本唄」などがあり(同115頁)、本格的な教育体制となっている。6項では、「本養成所に入らむとする者は普通學校第四學年修業若くは同程度以上の學力を有し身體發育完全なる者に限る」とされている(同116頁)。
さらにこの冊子では、わざわざ「妓生學校」の写真まで掲載して紹介していた(写真ページの78頁以下)。
このように妓生学校に進学できることは、当時の平壌においては権威のある進路であったと認識されていた。

(6)妓生学校についての金学順の認識
現に金学順は妓生と妓生学校への入学について、東京地裁での尋問に際して次のように説明している(甲148)。

 「厳しい入学試験がありましたので、かなり頭も良くないと入れませんでした。」(4頁)
 「歌も実際に歌わせて、かなり声も良くないと入学できませんでした。」(5頁)
 「この平壌の妓生というのは、伝統的に非常に誇り高いもので、そして韓国内でも非常に有名でした。だれでもこの妓生になれるわけではありませんで、賢くてそしてしっかりしていて、かなりの容姿端麗な、そういうところまで備えていなくては入れませんでした。」(5頁)
 「妓生というのは、官で主催する宴会とか、そして長官とかに呼ばれて、歌とか伝統的な歌舞、歌、踊り、時調とかそういったものを披露する、そういう役目でした。卒業のときは非常に厳しい実技の試験とかもありまして、それに合格しなければ妓生になることはできませんでした。妓生は非常に誇り高い存在でした。」(5~6頁)

(7)妓生学校進学は「身売り」ではない
妓生及び妓生学校に対する認識が、1935年当時には非常に権威のあるものだったことがわかる。この学校に進学できたことについて、金学順自身も誇りに感じていたことが明らかである。
このように金学順が1935年に妓生学校に進学したことは、当時の状況からすれば、性売買業に「身売り」されたなどと評価されるような内実のものではなかった。

4 40円は身売りの「前借金」ではない 
(1)問題の所在
この点に加えて、さらに金学順が「身売り」されたものとは考えられない事情がある。それは、「月刊宝石」(乙10)記事の「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たとの記述のうち、この40円という金額の問題である。
そもそもこの記事を書いた臼杵敬子自身が、この40円という記述の根拠について記憶していないという問題がある。今回発掘された録音テープにも、こうした「身売り」の話がなかったことはすでに述べてきたとおりである。

(2)低額すぎる前借金
その点は別としても、端的にいえばこの金額は、当時の本当の「身売り」の金額としては、あまりに低額に過ぎるのである。
この点については甲52でも同様の指摘がされている。
 「当時の物価でいえば四〇円は米一四〇キロに当たる金額で、現在の貨幣価値で換算して概算七万円から八万円にしかなりません。朝鮮における前借金の相場は一九二〇年代後半でも、日本女性は約一七〇〇円、朝鮮女性は約四二〇円となっています。」(38頁)
前借金の相場は、これによれば1920年代後半の時期でも日本人女性で約1700円、朝鮮人女性が約420円とされている。

(3)全借金額の平均
実際にも、1937年に内務省警保局が発行した『極秘 貸座敷ニ関スル調査 保安課』という資料がある(甲207)。ここに「第十五 娼妓稼業申請より廃業に至る迄の状況調」との項目があって、当時の娼妓の前借金の金額について調査結果が記載されている。
この資料の82頁の「六、前借金(含別、新借)完済に至る迄に要したる期間」との表によると、日本での前借金の額は750円~1860円という範囲であり、これを平均すると1212円となる。

(4)当時の物価からの推察
市井の研究者である白川忠彦の調査によると、1935年当時の白米の相場は、10㎏で2.4円であった(甲208)。40円という金額は当時の米170㎏程度の価値となる。
現在白米10㎏で4000円程度と考えると、当時の40円は現在の価格で6万8000円にしかならない。これは、「身売り」の金額としては明らかに低額に過ぎる。
(5)前借金と評価できない「40円」

このように、40円という金額が事実だったとするなら、これが「身売り」の前借金だったとは到底考えられないことになる。この場合に、40円という金額が実際に何であったのかまでは明らかではないが、少なくとも金学順の境遇について、これを「身売り」だと評価することはできない。

5 まとめ
(1)法制度上の「妓生」
以上に述べてきたとおり、金学順が金泰元の養子となって妓生学校に入学した1935年当時において、妓生は法制度上「芸妓」とされており、芸妓は娼妓と違って性売買が予定されていなかった。
日本においても朝鮮においても、芸妓と娼妓は明確に異なる職業として法律上で規定されており、性売買業をしていたのであれば特に重要というべき行政機関による健康診断の定めについても大きな差異があった。これは、「妓生」が性売買を前提とした制度でなかったことを示している。
(2)朝鮮社会における妓生の位置付け
また1935年当時において、妓生出身の王寿福がスターとされ、多数の絵はがきや絵画が発売されたり、雑誌の記事として取り上げられ、モデルとしてあるいは歌手として大活躍していた。このように知性と容姿の双方を備えた存在として妓生という仕事があり、実際にも朝鮮では養成所まで設置して妓生を育成していた。そうしたことがあったため、金学順も自己が妓生学校に進学したことに誇りを有していた。
この点でも、当時において妓生となることは、性売買業に「身売り」されることを意味するものではなかったのである。
(3)前借金ではない40円
さらに「身売り」の代金とされた40円という金額は、現在の通貨価値で7万円程度の金員に過ぎず、そもそも「身売り」の前借金と評価できるような額ではない。当時の相場は、日本人女性で1700円、朝鮮人女性でも420円程度であった。
40円はこれに比してあまりに低額すぎ、この点でも「身売り」の前借金と評価することはできない。
(4) 結論
以上の諸事情に照らしてみれば、1935年に金学順が養子となり妓生学校に進学したことをもって、これを「性売買業に身売りされた」と理解することは、明らかな誤りというべきである。このような誤った認識を前提として、本件事案の事実認定がなされてはならない。


『平壌府』から妓生の修養(右2点)と日常(左2点)

『平壌府』から妓生の舞踊(右2点)と居住ぶり(左2点)

『平壌府』から妓生学校の様子(4点とも)

週刊朝日1934年11月4日号表紙(上)と王寿福を紹介する記事(下)






2019年11月5日火曜日

重要証拠解説その1

金学順さんの「証言録音テープ」が証拠提出された東京控訴審の第1回口頭弁論(10月29日)では、ほかにも重要な証拠が多数提出された。金学順さんの「遺族会入会願書」と、戦前の韓国社会におけるキーセンに関する文献資料、「挺身隊」という呼称表記に関する証言・意見・記述などである。それらのもつ重要な意味を植村弁護団は「控訴理由補充書(1)」(同日提出)で詳しく説明し、一審判決が認定した事実が「真実とはいえない」ことの「確実な根拠・資料」である、と主張している。
「控訴理由補充書(1)」の記述に沿って、新提出証拠の内容詳細と意味を、3回連載で紹介する。


金学順さんの証言録音テープ(中央上)と遺族会入会願書(下)。
左は植村氏が1991年12月に書いた記事B、右は8月の記事A。


 金学順さんの証言録音テープと遺族会入会願書 

西岡氏の「捏造」説への重要な反証

録音テープに「妓生に身売りされた」との証言はない。
録音テープの内容と記事の内容は詳細に一致している。
遺族会入会願書の日付には重要な意味がある。
これらは、西岡が植村氏や遺族会の取材をきちんとしていれば知り得たことだが、西岡は最低限の取材も尽くさずに、思い込みだけで「捏造」と決めつけたのである。

【編注】「録音テープ」「遺族会入会願書」「社内報告文書」について「控訴理由補充書(1)」が述べている部分(7~15ページ)を以下に抄録する。
書面中、控訴人とは植村隆氏をさす。(甲)数字は証拠番号を示す。一部割愛した部分がある。原文の小見出しは省略した。
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■金学順さんの証言録音テープ(甲196~199号証)
本年8月22日、控訴人が1991年に金学順氏の証言を直接聴取した際の「証言テープ」が、関係者宅から偶然発見された。この証言テープは、1991年11月25日、控訴人がソウルにおいて金学順氏に対する弁護団の聞き取りに立ち会った際、金学順氏の証言を録音したテープである。
テープを収録したのは控訴人本人であり、テープに収録された音声は、金学順氏と、聞き手の高木健一弁護士、通訳の臼杵敬子氏の3名のものであった。
記事Bの冒頭には「その証言テープを再現する」とあるが、ここにいう「証言テープ」が、今回発見された「証言テープ」である(なお、厳密にいうと、「証言テープ」の原本をダビングしたものである)。

「証言テープ」には「妓生に身売りされた」という証言がない。「妓生学校に通った」との証言もない。「妓生」という単語すら出てこない。つまり、金学順氏は、控訴人の前で「妓生に身売りされた」とは証言しなかったのである。
記事Bの冒頭には「その証言テープを再現する」とあるから、「証言テープ」にない証言が記載されているわけがない。記事Bに「金学順氏は妓生に身売りされた」との記載がないのは、金学順氏がそのように証言せず、したがって、「証言テープ」中にそのような証言がなかったために過ぎないことが明らかになった。
証言テープは、記事Bに関し、原判決のいう「控訴人が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実1)、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実2)が真実とはいえないことの「確実な資料・根拠」である。

それだけでなく、「証言テープ」の内容は、記事Bの内容と詳細に一致している。
別紙添付「記事・証言テープ対応表」のうち、「植村記事」の縦列は植村12月25日記事を73分割したもので、その横の「証言テープ」の縦列は73分割した植村記事の各記載に対応したテープ中の証言である。「反訳書頁」のうち、①②③は対応するテープのテープ番号であり、横の数字が日本語訳のページ数である。
たとえば、記事Bのうち、「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました」(⑥)という部分に対応するのは、証言テープ中、以下の部分である。

Q臼杵 どんなことが起こりましたか?
A金学順 はい、私はお金を稼ぐといえば、お金と言えばいつも、人の家の手伝いをして回り、お金をかせいでいたので、お金と言えば。その時は、何と言うか、部落で仕事を引き受けてくる人がそんな話をしたんです。そこに行きさえすれお金も稼げるし、後々立派になれると。良くなると、そう言いながら、そこに行けと言って。
Q臼杵 どこに行けといいましたか?
A金学順 その時は何と言ったか。何と言ったか、それをはっきり覚えていません。いまでは。
Q臼杵 誰がそう言ったんですか?
A金学順 その、仕事をしている人たちです。部落の仕事をする人たちです。
 (以上、テープ①、日本語訳6頁)

Q臼杵 ところで、話をした人は日本人だったと?
A金学順 その人に話をした人が日本人だったのかは知りません。ところで、私に話をしたのは朝鮮人でした。いまで言えば、区長のような人です。部落の仕事をする人。
Q臼杵 日本人が言った?
A金学順 村の里長、面長、そんな人です。
Q高木 口長は日本人? 朝鮮人?
A金学順 朝鮮人。
 (以上、テープ①、日本語訳7頁)

このほか、記事Bを73に分割してそれぞれ証言テープを比較してみたが(別紙添付「記事・証言テープ対応表」参照)、分割された記事Bの記載は全て証言テープ中に根拠のある記載であることが分かる。控訴人は記事Bの冒頭で「証言テープを再現する」と断っているとおり、証言テープ以外の情報源から情報を得ていないのである。 編注=対応表PDF

この点からしても、記事Bに「金学順氏は妓生に身売りされた」との記載がないのは、「証言テープ」中にそのような証言がなかったために過ぎないことが明らかである。したがって、控訴人が悪しき意図をもってあえて事実と異なる記事を書いた事実はないから、記事Bに関し、「控訴人が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実1)、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」(裁判所認定摘示事実2)が真実とはいえないことがより明白となる。
この点からしても、証言テープは、記事Bに関し、裁判所認定摘示事実1及び2が真実とはいえないことの「確実な資料・根拠」である。

■聞き取りに関する社内報告文書(甲200号証)
なお、控訴人の所属していた朝日新聞大阪社会部は、被控訴人西岡による記事「慰安婦問題とは何だったのか」(文芸春秋92年4月号)の批判を受け、1992年3月11日付けで「『文芸春秋』記事について」と題する社内文書を作成しているが、ここには以下の記載がある。
   
「この記事について西岡氏は、二番目の「」、どうやって慰安所に行ったかの部分について、『それまでの韓国の報道と違う。韓国では、キーセンに売られていったと報道されている。植村記者は、それを書いていない』と指摘していますが、金さんは、この聞き取りの時には、この点は話していません(テープもきちんと保存しています。弁護団がつくり、マスコミにも配布した聞き取り要旨にもそうなっています)」

ここで「この聞き取りの時」とあるのは1991年11月25日のソウルにおける聞き取りのことを指しているから、新聞社社内の報告文書では、金学順氏がキーセンについて話していなかったと報告されていることが明らかである。そうだとすると、本件「証言テープ」は当時の新聞社社内の報告文書の記載とも合致している。
なお、ここにいう「マスコミにも配布した聞き取り要旨」とは甲15を指す。ここには「キーセン」の記載はない。このとおり、客観証拠は全て整合しており、要するに、金学順氏はこの日「キーセン」について語らなかったのであり、記事Bに「キーセン」の記載がないのはそれゆえなのである。

■金学順氏の「遺族会入会願書」(甲201号証)
控訴人は、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(以下「遺族会」という)より、金学順氏が同会に入会を申し込んだ際の「遺族会入会願書」を入手した。
 「遺族会入会願書」の日付けは1991年11月となっている(日にちの記載はない)。
この日付は、金学順氏が遺族会に入会したのは1991年11月であり、それ以前は遺族会の裁判すなわち「義母の裁判」に関わっていなかったことの証拠である。ところで、記事A(甲1)が公表されたのは1991年8月11日だから、記事Aが発表された段階で、金学順氏は「義母の裁判」に関わっていなかったことが明らかである。
そうだとすると、控訴人が、記事Aで金学順氏の証言を記事にするのにあたり、「控訴人が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いた」と言えるはずがない。

■認定事実が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」
控訴理由書で詳細に述べたとおり、真実相当性の抗弁が成立するためには、摘示事実を真実と信じたことについて「確実な資料・根拠」が必要となる。ところが、本件では、裁判所認定摘示事実1及び2が真実であるという「確実な資料・根拠」が存在しない一方、裁判所認定摘示事実1及び2が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」が発見されている。

この点、真実性の判断資料の基準時点は口頭弁論終結時である一方、真実相当性の判断資料の基準時点は表現行為の時点である。しかし、被控訴人西岡は92年当時から本件について取材をしていたというのであるから、92年の段階で控訴人を取材すれば金学順氏の証言テープを聴取することは可能であった(記事Bの冒頭には「証言テープを再現する」との記載があるのだから、被控訴人西岡はその存在には当然気づいていた)。また、その当時に遺族会を取材すれば金学順氏の入会の日付けを知ることは容易であった。被控訴人西岡は、それら最低限度の取材も尽くさず思い込みだけで控訴人の記事を「捏造」と決めつけたのである。

前記のとおり、本件では、裁判所認定摘示事実1及び2が真実であるという「確実な資料・根拠」が存在しないのだから、真実性相当性が認められないことは当然であるが、他方で、裁判所認定摘示事実1及び2が真実ではないといえる「確実な資料・根拠」が発見されたのであるから、控訴人の名誉権の要保護性は極めて高いというべきであり、その比較衡量からいっても相当性の抗弁を認めるべきでない。

【下の写真】金学順さんの証言を録音したカセットテープを当時ダビングしたテープ。ラベルには植村氏の字で「金学順ハルモニ③91.11.25」と書かれている。90分テープが2本あり、③は2本目のオモテ面を表す。



【下の写真】金学順さんの「遺族会入会願書」。最下段の日付欄に「91年11月」とある。中段の所属欄では「挺身隊」にマル囲みがある。漢字で氏名、住所が書かれているほか、「無子息単身」「零細民」「1942…供出…北支(中国)…日本軍野戦部隊…強制慰安婦…従事…事実」という記載もある。

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次回につづく

次回その2
キーセンは売春婦ではなかった! 
妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料

次々回その3 
慰安婦を挺身隊と呼んだ時代と社会 
「挺身隊」という呼称表記に関する証言・意見・記述

2019年10月29日火曜日

決定的な新証拠提出


 速報    第1回東京控訴審


金学順さんが語った証言テープに、キーセンという言葉はひとこともなかった。だから植村氏はキーセンのことを記事に書かなかった。取材相手が言わなかったことを書かなかった記事がなぜ「捏造」呼ばわりされるのか!
 
植村裁判東京訴訟控訴審の第1回口頭弁論は29日午前、東京高裁で開かれた。
植村弁護団は、控訴審の開始にあたり、一審判決後に新たに発見、発掘した37点の証拠を提出した(甲176~212号証)。その中には、植村氏の記事が「捏造」ではないことを証明する具体的で決定的な証拠がある。西岡力氏が植村氏の記事を「捏造」ときめつけた根拠は完全に崩れたといっていいだろう。書面に基づく意見陳述では、一審判決には法理論と判例に照らして重大な誤りがあり、異常な判決であることを具体的に指摘した。
西岡力氏の責任を免じた東京地裁判決から4カ月。舞台を高裁に移した東京訴訟は、決定的な証拠が提出されたことで、大きな転機を迎え新しいフェーズに入った。
次回は12月16日(月)午後3時30分に開かれ、同日に結審する見通しとなった。

■2時間にわたる生々しい証言
決定的な証拠は、金学順さんの証言が録音されたテープである。
金さんは1991年11月、日本政府に補償と謝罪を求めた戦後補償裁判の原告に加わり、その裁判の弁護団の聞き取りに応じて証言をした。録音テープはそのときのものである。金さんは約2時間にわたり、弁護団長の高木健一弁護士の質問に対して、時に口ごもりながら、怒りと悔恨の気持ちを交え、慰安婦とされた経緯、慰安所での生活、性暴力被害を語っている。植村氏はこの時、取材記者として弁護団に同行していた。録音は植村氏がした。高木弁護士と金さんの一問一答が終わった後の最後の約5分間には、植村氏が金学順さんと韓国語で直接交わしたやりとりも収められている。
植村氏はこの録音テープをもとに、金さんの半生を紹介する記事を書いた。91年12月25日付の朝日新聞大阪本社版「語りあうページ」の記事で、見出しは「かえらぬ青春 恨の反省――日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、前文には「弁護士らの元慰安婦からの聞き取りに同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する」とある。
この記事を、西岡氏は「捏造」と決めつけた。西岡氏は「この12月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関するキーセンに売られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」と断定している(『増補新版 よくわかる慰安婦問題』草思社)。この記事が、植村記事の捏造決めつけの重要な根拠とされているのである。
ところが、このテープで金さんは「キーセン」という履歴を語っていない。いや、それどころか、「キーセン」という言葉すらひとことも発していない。金さんが言わなかったことを植村氏は書かなかった。それがどうして捏造とされるのか。

植村弁護団の事務局長、神原元弁護士は、法廷でこう陳述した。「植村さんは取材相手が話さなかった事実を記事にしなかったに過ぎない。それが捏造といえるはずがないではないか。それだけではない。証言テープの内容は記事の内容と詳細に一致している。これは、植村さんには事実をねじ曲げる意図がなかったことの端的な証であり、記事が捏造ではないことの具体的かつ決定的な証拠である」。植村氏の怒りも大きい。植村氏はこう述べた。「金学順さんがテープの中で語っていないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、捏造だと言えるはずがないではありませんか」。(神原弁護士と植村氏の陳述全文は後掲)

■金さんの遺族会入会の日付
決定的な証拠はまだある。金さんは、戦後補償裁判に原告として参加する際に、植村さんの義母が役員を務める韓国太平洋戦争犠牲者遺族会に入会した。その時に提出した入会願書も今回、証拠として提出された。重要なのはその日付である。日付欄には1991年11月とある(日にちの記載はない)。西岡氏は植村氏が同年8月に書いた記事について、「義母の裁判を有利にする意図があった」とし、それも捏造決めつけの根拠とした。しかし、植村氏は義母から取材の便宜を受けたことはなく、金学順さんを取材したのは朝日新聞ソウル支局からの情報によってだった。入会願書の日付からみて、植村氏が記事を書いた時、金学順さんは義母の裁判にかかわっていなかったことも明らかであり、西岡氏の主張はここでも崩れるのである。

このほか、キーセンという職業が戦前の朝鮮でどのように見られていたかがわかる資料(雑誌、報告書、取締規則など7点)も証拠提出された。キーセンは、戦前の韓国社会では歌舞音曲に秀で、教養も備えた女性が就く職業(芸妓)として認められていた。売春を業とした娼妓とは異なっていた。証拠資料はそのことを具体的に示している。西岡氏は金学順さんが「キーセン学校に通っていた」「キーセンに身売りされた」などと語ったということにこだわり、慰安婦になった売春婦、という言説を執拗に繰り返している。これらの証拠は、そのような偏見に満ちた差別意識を否定するものである。

■次回12月16日の結審の可能性大
法廷は午前10時30分に開廷した。この日、東京は朝から晩秋の冷たい雨が降っていた。
開廷に先立って傍聴するための抽選が予想されたが、整列した希望者は101号法廷の定員(90人)に満たなかったため、約60人が無抽選で傍聴席に座った。
定刻に裁判官3人が入廷した。中央の裁判長は白石史子・高裁民事第2部総括判事。左右に角井俊文、大垣貴靖両判事が陪席した。白石裁判長は、さいたま市の公民館が憲法九条について詠んだ俳句の月報掲載を拒否したことをめぐる損害賠償訴訟で、掲載拒否に正当な理由はないとして表現の自由の侵害を認めた一審判決を支持し、さいたま市に賠償を命じている(昨年5月。賠償額は5万円から5千円に減額)。また、日本郵便の契約社員3人が手当てや休暇付与で正社員と格差があるのは不当だと訴えた裁判では、損害賠償を命じた一審判決を変更し、賠償額を増額した(昨年12月)。
弁護団は、中山武敏弁護団長はじめ、宇都宮健児、梓澤和幸、黒岩哲彦弁護士ら17人が勢ぞろいし、札幌弁護団からも秀嶋ゆかり弁護士が参加した。一方、西岡氏・文春側は喜田村洋一弁護士ともうひとりの計2人。いつものように西岡氏の姿はなかった。

植村弁護団の意見陳述は、穂積剛弁護士、神原元弁護士、植村氏の順で行われた。穂積弁護士は、一審判決に欠落している重大な問題点を中心に、控訴理由の骨子の核心部分を約10分にわたって論述した。神原弁護士と植村氏は、金学順さんの証言録音テープがきわめて重要であることを中心に陳述した(神原弁護士4分、植村氏7分)。西岡弁護団からは意見の開陳はなかった。
この後、裁判官はいったん退廷して合議に入ったが、1分後に戻り、次回期日について協議をした。結果、第2回口頭弁論は12月16日(月)午後3時30分から開くことになった。白石裁判長は、「書面は11月中に提出して下さい。次回で結審することもあり得ます」と述べ、午前11時ちょうどに閉廷した。

裁判報告集会は午後2時過ぎから、参議院議員会館会議室で開かれた。
この日の裁判について神原、穂積両弁護士が解説をまじえて報告し、札幌の秀嶋弁護士は札幌訴訟の結審までの足取りを報告した。新たに提出された証拠の重要な意味については、ジャーナリストの長谷川綾氏もポイントをわかりやすく解説した。映画「標的」の短縮版も上映され、西嶋真司監督が解説トークを行った。
午後4時過ぎに閉会。雨の平日の午後、参加者は約60人だった。

小雨の中、裁判所に向かう。前列左から、中山武敏弁護団長、
植村氏、神原弁護士(東京高裁前で、高波淳・撮影、29日)
報告集会は参議院会館で開かれ、約60人が参加した

■神原弁護士の意見陳述(全文)
高裁において提出する新証拠について若干ご説明した上で、意見を申し上げます。
なにより重要なのは、91年11月の、金学順氏の証言テープであります。当該「証言テープ」には「妓生」に関する証言はありません。西岡氏は「妓生」の記載がないことを理由に植村記事を「捏造」と決めつけてきました。しかし、控訴人は取材相手が話さなかった事実を記事にしなかったに過ぎません。それが「捏造」等といえるはずがないではありませんか。それだけではありません。「証言テープ」の内容は、記事Bの内容と詳細に一致しております。これは、控訴人には事実をねじ曲げる意図がなかったことの端的な証であり、この証言テープは、記事が「捏造記事」ではないことの具体的かつ決定的な証拠であります。

「遺族会入会願書」(甲201)も重要です。甲201の日付けからすれば、記事Aが発表された段階で、金学順氏は「義母の裁判」に関わっていなかったことが明らかです。ならば、記事Aを執筆するに際し、控訴人において「義母の裁判を有利にする意図」等あるはずがないではありませんか。
このように、植村氏の記事を「捏造」とするのは事実として間違いです。しかし、被控訴人らは、それでも、妓生の経歴こそ「事柄の本質」だと主張するかもしれません。この点、私たちは、妓生は性売買が予定された存在ではなかったこと、むしろ歌や踊りに秀でた芸人であったことを示す多くの証拠を提出しました。妓生は公娼(売春婦)でもなければ、慰安婦でもありません。妓生の経歴に触れずに慰安婦の証言を書くことは、歴史的にみて、何の問題もありません。まして「捏造」とされる謂われがあるはずないではありませんか。

百歩譲って、「妓生=公娼(すなわち売春婦)」という西岡氏の思い込みを前提にしたとしましょう。甲196号証の、金氏の証言内容をご覧ください。28年前に植村氏が聞いたのは、戦争当時17歳の少女が受けた、生々しい、戦時性暴力の被害証言です。性犯罪の被害者の証言を記事に書く際に、「彼女は実は公娼(すなわち売春婦)だった」等と普通書くでしょうか。それを書かかなければ「捏造」だ等というのは言いがかり以外のなんなのでしょうか。

植村氏の記事を「捏造」だ、などと決めつけるのは、事実としても、歴史としても、そして、倫理的にも、誤ったことであります。戦時性暴力に厳しく向き合うのは90年代以降の世界の趨勢であり、性暴力被害証言を歪める東京地裁の判決は、まさに世界の恥さらしであります。
今回提出した新証拠に正面から向き合って頂き、公正な判決を下すよう、お願いする次第であります。


■植村隆氏の意見陳述(全文)
私はこの夏、「捏造」という、私の記事に対する西岡力氏のレッテル貼りが間違いであることを証明する、決定的な証拠を発見しました。元日本軍「慰安婦」金学順(キム・ハクスン)さんに対する弁護団の聞き取り調査を録音した、28年前のテープです。この聞き取り調査に私は同席していました。そこでの金さんの話を再現する形で、1か月後の1991年12月25日付の朝日新聞大阪本社版の「語り合うページ」に「帰らぬ青春 恨(ハン)の半生」という記事を書きました。記事Bのことです。

西岡氏は「増補新版 よくわかる慰安婦問題」という文庫本を出しています。西岡論文Aのことです。西岡氏はこの論文で、「朝日新聞の悪質かつ重大な捏造」という見出しをつけて、私の記事Bをこう批判しています。
「この十二月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関係するキーセンに売られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」。
しかし、この聞き取りテープを丹念に調べたところ、金学順さんは弁護団に対し、ひとことも、「キーセン」という言葉を語っていないことが確認されたのです。本人が語っていなかったことは記事には書けません。
私は記事Bのリードで、「証言テープを再現する」と書いています。金学順さんがテープの中で語っていないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、「捏造」だと言えるはずがないではありませんか。
裁判官の皆様、どうかご理解ください。私は「捏造」などしていないのです。

西岡氏は論文Aで、こうも書いています。「朝日新聞は今日に至るまでも一切の反論、訂正、謝罪、社内処分などを行っていない。それどころか、後日、植村記者を、こともあろうにソウル特派員として派遣し、韓国問題の記事を書かせたのだ。この開き直りは本当に許せない」。
「この開き直りは本当に許せない」。西岡氏が、私だけを「標的」として、執拗に攻撃を繰り返してきたその背景に、この「憎悪」があるのだと知り、ぞっとしました。西岡氏は私への処罰を求めているのです。

私は、西岡氏から記事を「捏造」と断定され、繰り返し誹謗中傷されました。そして、西岡氏の言説の影響を受けた無数の人々からの激しいバッシングにあい、私の人生は狂いました。
就任が決まっていた神戸松蔭女子学院大学専任教授のポストは失われ、日本の学生たちと共に学ぶという夢が絶たれました。それだけではありません。当時非常勤講師をしていた札幌の北星学園大学には抗議のメールや電話が殺到しました。「売国奴、国賊の(中略)植村の居場所を突き止めて、なぶり殺しにしてやる」などの脅迫状も送られてきました。私を誹謗中傷する言説がインターネットにあふれました。
記事執筆当時は生まれてもいなかった私の娘まで、インターネット上に名前と写真を晒され、「自殺するまで追い込む」等と書き込まれました。あげくには、娘の殺害を予告する脅迫状まで届くようになりました。
これらは全て、私の記事が「捏造」だと信じた人々の行動なのです。そして、西岡氏は私の記事を「捏造」と名指しした元祖であります。

私は自分の名誉だけでなく、家族の命を守るためにも、裁判に立ち上がらざるを得なかったのです。裁判官のみなさん、このことを、どうかご理解ください。
私は「捏造記者」ではありません。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。最後には司法による救済が必ずあると信じています。これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただき、「捏造記者」という私に対する汚名を晴らしてください。どうか、お願い申し上げます。


きょう東京控訴審!


慰安婦の記事を「ねつ造ではない」と植村隆さんが訴えている裁判は、札幌に続いて29日(火)に東京高裁でも控訴審第1回口頭弁論が始まります。
これまでの裁判では 
・義母からの情報提供はなかった
・金学順さん本人が「挺身隊だった」「連れていかれた」と話していた
・西岡力氏は植村攻撃の論拠にしていた韓国の新聞記事を改ざんしていた
・櫻井よしこ氏もTVニュースキャスターだった当時、「強制連行された慰安婦」と述べていた
などの新事実が明らかになっています。  
今回の法廷には、植村さんが1991年に初めて金学順さん本人を取材した時の詳細な記録が新しい証拠として提出される予定です。
金さん自身が植村さんの取材にどう答えていたのか、その詳細が明らかにされれば、植村記事が「ねつ造」であるかが明確になるはずです。
 西岡・櫻井両氏だけでなく、朝日新聞社の第三者委員会も、植村記事が「金学順さんがキーセン学校に通っていた経歴に触れていない」ことを批判しました。
しかし、新証拠によって、この朝日新聞社の第三者委員会報告の批判が妥当なものであったか、再検討が求められると思います。
事実を伝える報道機関として、決してゆるがせにできないポイントです。

法廷の後の報告集会では、これらの新証拠の意味について説明があるほか、植村さんの記録映画の上映、監督の西嶋真司さんのトークなどが予定されています。
傍聴や集会での激励をよろしくお願いいたします。

◆控訴審第1回口頭弁論
日時 10月29日(火)午前10時30分開廷
場所 東京高裁101号法廷
*傍聴は整理券の発行と抽選が予想されます。30分前までにはお越しください。
◆報告集会(申込は不要。無料)
日時 10月29日(火)午後2時~4時
会場 参議院議員会館101会議室
弁護団報告+映画「標的」(短縮版)上映と監督トーク+「新しい証拠と証言の意味」(長谷川綾+植村隆+新崎盛吾)
 

2019年10月28日月曜日

29日、東京控訴審

東京控訴審の第1回口頭弁論は10月29日(火)、東京高裁101号法廷で開かれます。開廷(午前10時30分)に先立って、傍聴整理券の発行と抽選が行われる予定です。
報告集会は同日午後2時から、参議院議員会館101会議室で開かれます。弁護団の報告、映画「標的」短縮版の上映、控訴審で新たに提出する証拠・証言についての説明があります。

2019年10月26日土曜日

歴史家の真摯な思い

 札幌控訴審 新証拠解説その3 

朝日新聞の報道への攻撃は、金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てであり、多少のミスが仮にあったとしても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います(和田春樹・東大名誉教授の「意見書」から)


札幌訴訟の控訴審第3回口頭弁論(10月10日)で、植村弁護団は和田春樹・東大名誉教授の意見書と同氏の論稿2点を提出した(甲183~185号証)。このうち、意見書は慰安婦への「償い事業」に取り組んだ経験と歴史学者の知見をもとに、慰安婦と女子挺身隊の呼称についての考えを、弁護団の求めに応じて明らかにしたもので、A4判11ページの小論文という体裁をとっている。

和田氏は1995年に政府が設立した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の呼びかけ人となり、以後、2007年に同基金が解散するまで、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事、専務理事、事務局長の要職をつとめた。途中、98年に東大の社会科学研究所教授を定年退職してからは、同基金の仕事に専念し、「償い事業」の推進に力を尽くした。(※注1)

慰安婦の実体と女子挺身隊の呼称は、金学順さんが慰安婦とされた経緯とともに、真っ向から対立し続けた重要な論点である。
櫻井氏の主張は、①慰安婦とは、公娼制度の下で戦場に出かけて行った売春婦である、②金学順さんは親に身売りされてキーセンの修業をした後慰安婦になった、③挺身隊という呼称は、戦時中の国家総動員法が規定する労働に工場などで従事した女性をさすもので、慰安婦と混同するのは誤りである、というものだった。(※注2)
このうち、①③は、いわゆる「歴史修正主義」に基づくもので、河野談話をはじめとする日本政府の見解や国連人権機関の報告書など、国内外の公的な文書に反することは明白だった。櫻井氏はこれらの主張をもとに、植村氏の記事を「捏造」と決めつけた。
ところが、一審判決は櫻井氏の主張を認めた。判決文は、「慰安婦ないし従軍慰安婦とは、太平洋戦争終結前の公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性などの呼称のひとつであり、女子挺身隊とは異なるものである」とはっきり書いている。 <この項、下線部の誤記を訂正しました>

植村氏にとっても弁護団にとっても、これは驚くべきことだった。裁判官の歴史感覚を疑わざるを得ない、これはネトウヨそのものではないか、という声が弁護団や支援グループの間であがった。その誤りを、植村弁護団は控訴審開始時に提出した控訴理由書と控訴理由補充書(2)の中で厳しく指摘しているが(※注3)、さらに和田氏に意見書の提出を依頼したところ、快諾を得た。和田氏は意見書の中で、「慰安婦を「公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性」にすぎないとする記述を本裁判札幌地裁判決に見出したとき、当惑する気持ちを禁じえなかった」と書いている。

意見書は、「慰安婦の定義」と「慰安婦を挺身隊とよぶ呼称について」の2つの標題について詳細に説明している。とくに中国、朝鮮、フィリピン、インドネシアにおける慰安婦の被害実態(※注4)と、挺身隊の呼称が韓国内で伝説化した事情の説明が詳しい。アジア女性金の調査活動や交渉の過程で生じた疑問や批判も、標題とのかかわりで書かれ、櫻井氏が2007年に米国紙に出した意見広告に「衝撃をうけた」ことも明かしている。
全体に抑制的で率直な筆致からは、歴史学者の真摯な思いが強く伝わってくる。裁判官には判決書を書く前にぜひ精読してほしいと願う。

以下に、和田氏の許可を得て意見書の主要部分を抄録する。(小見出しは編者が付けた)

■アジア女性基金の事業
アジア女性基金は、河野洋平官房長官談話にもとづいて、1995年に日本政府によって設立された。そのときから2007年の解散時までに、韓国、台湾、フィリピンの慰安婦被害者、それぞれ60人、13人、211人に、各々総理の謝罪の手紙、理事長の手紙、国民募金からの償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援(韓国台湾300万円相当、フィリピン120万円相当)をお渡しした。インドネシアで抑留中、慰安婦として被害にあったオランダ人79人に対しては各々医療福祉支援金300万円が支払われた。インドネシアの慰安婦被害者に対しては、同国政府の要請に応じて、被害者個人への事業は行われず、老人福祉施設建設のために、政府拠出金から3億7000万円が提供された。

■慰安婦の定義
この事業をおこなうにあたって、アジア女性基金は日本政府との協議の上、事業対象者としての慰安婦についての定義を定めた。この定義は、1995年10月25日に基金の活動を説明するために出版されたパンフレット『「従軍慰安婦」にされた方々への償いのために』の冒頭に発表された。その後、現実の事業の展開の中で微調整がくわえられたが、基本的に基金の活動の終了まで維持された。当初の定義は次のようなものである。
「『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
事業過程での調整が加えられた結果、この定義は最終的には次のようになった。これは基金が作成したデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の展示の冒頭に記されている。
「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」

■日本軍の慰安所
この定義で決定的なことは、「日本軍の慰安所」、「日本軍の慰安所等」に集められた女性であるという認定である。「慰安所」は、その当時の軍のさまざまな文書では、「特殊慰安所」、「性的慰安所」、「性的慰安ノ設備」などと呼ばれている。軍が戦争遂行のため、軍の将兵の性的欲望を充足させ、一般婦女に対する強姦などの行為を減らす等の目的のために、戦争の現場、軍の駐屯地の内外に設置した設備である。

■暴力的な連行
日本軍慰安所にはさまざまな方法で女性たちが集められた。女性たちが朝鮮の農村や都市から官憲の手によって暴力的に連行されたということも多く語られたが、アジア女性基金の調査では、朝鮮半島においてはそのような事実を確認していない。日本政府が集めた資料は、アジア女性基金の手によって、悉皆的に出版されている。そこからは、女性たちを慰安所に集めたいくつかの事例が確認される。

■強制をともなう行為
軍の慰安所は、当然ながら、通常の公娼制度を前提として、制度設計されたものであろう。しかし、戦争を行っている軍が戦争をしている軍の将兵のために戦場の近くに組織した施設であれば、そこで女性たちがさせられた行為は通常の公娼制度にもとづく売春とは異なり、さまざまな強制の要素をともなう行為であったと考えられる。そのような状況の中で自分たちは日本軍の将兵に性的な行為、奉仕を強いられたと感じ、苦痛と感じたケースが普遍的に認められる。

■総理大臣のおわびと反省
いずれにしても、慰安婦犠牲者はすべて、日本軍との関係で、「性的慰安」の奉仕を強制され、被害をうけ、苦しかったと訴える人々であった。であればこそ、日本国家はこの人々に対し、総理大臣の手紙を送り、次のように、おわびと反省の気持ちを表明した。
「このたび、政府と国民が協力して進めている『女性のためのアジア平和国民基金』を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。」
この手紙に署名したのは、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各総理大臣である。

■櫻井氏らの連署広告
2007年6月14日、ワシントン・ポスト紙に日本の団体、歴史事実委員会の意見広告“The Facts(これが事実だ)”が掲載された。櫻井よしこ氏らが執筆し、西岡力氏らが連署したこの意見広告は、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。私は、米国の新聞に掲載された日本の団体の意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃をうけた。これは世界に向けて、1995年以来、日本政府とアジア女性基金がつくりあげてきた慰安婦認識とそれにもとづく事業活動を全否定すると主張しているものと考えられた。
しかし、アジア女性基金はすでに解散しており、この意見広告に反論を表明するすべはなかった。その当時は日本政府とアジア女性基金の慰安婦認識は、アジア女性基金の解散後、ウェッブ上にのこしたデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の中に展示されていたのである。

■「挺身隊」呼称の吟味
この慰安婦という存在を認識し、慰安婦問題が日本政府によって取り組まれるべき問題であることを自覚する過程で、日本軍慰安婦はしばしば「挺身隊」とよばれ、問題として認識するように求められた。日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった。そこで、この「挺身隊」という呼称を吟味することは、日本政府とアジア女性基金にとって避けて通れないことであった。

■高崎宗司氏の論文
韓国で「慰安婦」問題を提起し、アジア女性基金が発足すると、厳しい批判をくわえ、その速やかな解散を求めて、交渉をつづけてきたのは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)であった。この団体は、1990年11月16日に結成され、基金が誕生した1995年当時もそのままの名称で活動をつづけていた。
交渉相手の団体が「慰安婦」でなく、「挺身隊」を名称にいれていることには、アジア女性基金の側も当然意識していた。その結果、1996年10月に「慰安婦」関係資料委員会が生まれて、調査研究を行うようになると、「慰安婦=挺身隊」という呼称の問題をとりあげて、研究することになった。その結果、高崎宗司氏が「『半島女子勤労挺身隊』について」という表題の論文をまとめ、『「慰安婦」問題調査報告・1999』に発表するに至った。高崎氏は当時津田塾大学教授で、アジア女性基金の運営審議会委員、同資料委員会委員長であった。

■朝鮮での強い警戒感
高崎論文によれば、太平洋戦争の危機段階で、1943年9月13日、日本政府次官会議が「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」を決定し、それに基づいて女子勤労挺身隊が日本の内地でも朝鮮でも組織された。「一四歳以上の未婚者等の女子」を動員して、「女子勤労挺身隊」を結成させ、「航空機関係工場、政府作業庁」などに派遣したのであった。44年2月までに日本全国では16万人が編成されたといわれる。朝鮮ではおくれて募集がはじまったが、44年4月には第一陣、慶尚南道隊100人が日本本土の沼津市の工場に派遣されている。このような事実を確認して、高崎氏は、「挺身隊」の名で「慰安婦」にされたケースを発見できなかったと述べている。しかし、高崎氏は、朝鮮では「未婚者等の女子」という募集要件に強い警戒心、反発がおこり、44年4月には、挺身隊動員からのがれるために結婚をいそぐ風潮が現れた。『京城日報』44年4月22日号は「街は早婚組の氾濫」と報じている。この動きは、挺身隊に行くと、慰安婦にされるという噂と結びついていた。総督府が提出した44年6月の資料には、「未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ」とある。このようなパニックが広がる中で、当局が否定すればするほど、女子挺身隊と慰安婦は一体のものであるという考えが広まったのである(高崎宗司論文、44、47、57-58頁)。

■伝説となって定着
挺身隊に動員された娘たちが慰安婦にさせられたという観念は検証されないまま、朝鮮社会の伝説となって定着した。実際に挺身隊行きをのがれるために学校を退学して、結婚した人々は自分たちだけが災難を免れたといううしろめたさを感じていた。挺対協の初代代表をつとめた梨花女子大教授尹貞玉氏は、そのような経験をしばしば語ることがあった。

■朝鮮戦争当時の事情
1945年以後の韓国で、日本軍慰安婦を「挺身隊」とよぶことが定着するようになったことについては、以上のような事情があったためであろう。しかし、これにはもう一つ別の事情が影響したかと考えられる。朝鮮戦争当時、韓国軍は旧日本軍にならって、軍の将兵に対する性的慰安のために、「慰安婦」を確保し、「慰安部隊」を組織したことが韓国の歴史研究者の研究で明らかにされるようになった(金貴玉「朝鮮戦争と女性――軍隊慰安婦と軍慰安所を中心に」立命館大学シンポジウム発表文、2002年)。そして停戦後韓国に駐留した米軍の基地のまわりに集まる売春婦がこの延長線上で「慰安婦」とよばれるようになったのである。1957年の新聞を見ると、「慰安婦が嬰児誘拐」(京郷新聞、2月11日)、「二米軍慰安婦身勢悲観自殺」(東亜日報、7月21日)などの記事が出ている。1981年には「基地村慰安婦、米軍相手に九億ウォン分のヒロポン」を密売という記事がある(東亜日報、9月26日)。朝鮮日報を「慰安婦」で検索すると出る記事は1957年から1976年までに88件あるが、すべて米軍将兵を相手とする売春婦の記事であった(和田春樹『アジア女性基金と慰安婦問題』(明石書店、2016年))。
そこで、1980年代末から、韓国で新しく日本軍慰安婦に注目を向け、その人々の問題を社会化しようとした記者たちは、被害者を「慰安婦」とは呼ばず、「挺身隊」と呼ぶことに傾いたのであろう。

■金学順氏の登場
団体が設立された段階では、挺対協は国内に生き残っていた慰安婦被害者のハルモニの誰一人とも接触ができていなかった。その状況が翌91年には劇的に変わった。挺身隊問題対策協議会の設立が報じられると、女子勤労挺身隊に動員された女性とともに、慰安婦にされた女性たちがつぎつぎに連絡をとってくるようになったのである。
その第1号が金学順氏だった。彼女は1991年8月14日、挺対協で記者会見した。慰安所で日本軍の将兵に性的な奉仕をさせられた女性が、みなの前に進み出て、「自分は被害者だ」と述べ、「わが国の政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府から公式の謝過を受けなければならない」と語った。金学順氏の登場は慰安婦問題を世にだすのに決定的な影響を与えたのである。

■金学順氏の苦しみと勇気
アジア女性基金の関係者は金学順氏の家を訪問し、基金の目的、事業の内容を説明したが、彼女は、自分はこの事業をうけないと明言した。それは残念なことであったが、金学順ハルモニが名乗り出て、日本政府に対して自身の言葉で謝罪を要求されたのはアジア女性基金にとって重要な出来事であった。基金の理事長が慰安婦被害者に送った手紙には、「貴女が申し出てくださり、私たちはあらためて過去について目をひらかれました。貴女の苦しみと貴女の勇気を日本国民は忘れません」と書かれている。その気持ちは最初に名乗り出た金学順ハルモニにも向けられている。

■慰安婦報道の意義
日本軍慰安婦がその時期に「挺身隊」と呼ばれたのは、朝鮮の歴史的事情の流れの中で理由のあったことである。慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたという面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである。

■非難されるべきことは全くない
このことと関連して、私は2014年9月26日に東京大学の駒場キャンパスで行われた研究会で次のように発言したことを思い出す。その言葉を書きつけて、意見書を終わりたい。
「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」

※注1=和田氏が深くかかわったアジア女性基金は、「償い事業」の資金の拠出方法をめぐる対立を克服できず、日韓両国内でともに、幅広い支持や賛同は得られなかった。和田氏はリベラル勢力の対立と分裂の実相を、ことし6~7月に朝日新聞デジタル「WEB論座」のインタビューで語っている。
 「日韓の亀裂の拡大」を和田春樹さんと考える こちら
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※注2=櫻井氏の主張に対する植村氏の見解は、①慰安婦とは、戦場で自分の意思に反して将兵に性行為を強いられた女性である、②金学順さんは、だまされて戦地に連れて行かれた、③挺身隊という呼称は、記事を書いた1991年当時、韓国では慰安婦を意味するものとされており、日本の報道でも一般化していた、というものである。
※注3=控訴理由補充書(2)は、むすびでこう書いている。
「原判決の判断は、元日本軍慰安婦の受けた被害実態を直視せず矮小化し、あるいはないものにしようとする国内の一部の政治的主張にくみするものと評価されてもやむを得ないものであり、国連の公式文書や日本政府が従来とってきた公式見解、裁判例からもかけ離れたものである。原判決は、櫻井の主張を無自覚に受け入れたあまりに、制度としての日本軍慰安婦に関する様々な人権侵害から目をそらし、人身売買であれば売春婦であるというような誤った認識に基づき、櫻井の名誉棄損行為を免責する判断を行った。
その意味でも、原判決の事実認定の誤りは顕著であり、速やかに破棄されるべきである」
※注4=抄録では省略。アジア女性基金が調査結果と関連資料を収録したWEBサイト「デジタル記念館」に詳細な記録が保存されている こちら
アジア女性基金デジタル記念館のトップページ(表紙)





















text by H.N.