2019年12月16日月曜日

東京控訴審が結審!

 東京 第2回口頭弁論 卯植村氏

神原弁護士、植村氏最後の弁論

双方の主張激しく対立のまま結審

東京3月3日、札幌2月6日

2020年高裁判決に注目を

植村裁判の東京訴訟控訴審第2回口頭弁論は12月16日午後、東京高裁(第2民事部、白石史子裁判長)で開かれ、植村氏側、西岡氏・文春側がそれぞれ最終書面を陳述(提出)して、すべての審理を終えた。白石裁判長は判決言い渡し日時を2020年3月3日(火)午後2時と指定した。

この日の口頭弁論は午後3時30分に開廷。植村弁護団は13人が、西岡・文春側はいつものように2人が席に着いた。西岡氏の姿は今回もなかった。定員90人の101号法廷は70人ほどの傍聴者でほぼ席が埋まった。

開廷してすぐに、植村弁護団事務局長の神原元弁護士が立って、意見陳述(読み上げ)を行った。神原弁護士は、「本件の真相」として、植村氏の記事が捏造だとは到底言えないこと、植村氏が記事を捏造する意図も動機、目的もまた到底あり得ないことを挙げて、一審判決を強い口調で批判した。控訴審の締め括りにふさわしい、簡にして要を得た弁論が、法廷に響いた。
西岡氏をはじめ慰安婦問題を否認する人々は、金学順さんの妓生学校の経歴を売春婦に結びつけようとしている。これは裁判でも重要な争点になったことだが、神原弁護士は米国の市議会議員の有名な発言を引いてこう批判した。
――2015年9月、サンフランシスコ市議会の公聴会において、元慰安婦を「売春婦で嘘つきだ」などと攻撃する者に対し、地元のカンポス議員は、こう述べました。
「恥を知りなさい」。
議員は自己のスピーチを、マハトマ・ガンディーの言葉を引用して閉じています。
「真実は正しい目的を損なうことはない」

続いて植村氏が立ち、意見陳述書を読み上げた。法廷での意見陳述は植村氏もこれが最後となる。植村氏が怒りをこめて述べたのは、この裁判の核心となっている次の3つの重要な事実についてである。植村氏と家族、勤務先(北星学園大学)が受けた物心両面での被害は甚大であり、殺害予告の恐怖はまだ続いている。また、1991年に書いた記事で使った「挺身隊」という言葉は当時、韓国では慰安婦の意味で使われており、植村氏だけでなく日韓のメディアもそう書いていた。さらに、金学順さんが慰安婦とされた経緯については金さん自身が「強制連行」と認識していた――
植村氏は最後に3人の裁判官に向かって、「これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただければ、真実は私の側にあることが分かると思います」と訴えた。

今回植村氏側が提出した書面は8通である(準備書面4、反論書1、陳述書3)。対する西岡氏・文春側からは2通(準備書面)にとどまった。しかしその内容は、非を認めず一歩も譲らぬ強硬なものである。新しい証拠(金学順さん証言録音テープ)や「捏造」決めつけの根拠をめぐる双方の主張と反論は激しくぶつかり合ったまま、結審に至った。
神原、植村両氏の陳述が終わると、裁判長は提出書面と証拠の確認手続きを行った。西岡・文春側の喜田村洋一郎弁護士の発言はなかったので、裁判長は「弁論を終結します」と宣言し、判決言い渡し日時を明らかにした。閉廷は3時48分だった。

裁判のあと、報告集会が参議院議員会館101会議室で開かれた。弁護団報告の後、ジャーナリストの江川紹子さんが「金学順さんテープの意味するもの」と題して講演し、最後に植村氏が支援に感謝する挨拶をした。 
※弁護団報告と江川さんの講演要約は後日掲載予定

■神原弁護士の意見陳述(全文)

▼本件の真相
植村氏の91年12月の記事は、冒頭において、「(金学順氏の)証言テープを再現する」と断っています。私たちは、当該「証言テープ」を法廷に証拠提出致しました。
西岡氏らは「妓生の経歴が書かれていないから捏造だ」と言ってきました。しかし、当該証言テープには、妓生の証言は一切ありません。「証言テープを再現する」と断って書いた記事に、証言テープにない証言が書かれていないからといって、それが捏造記事になる等ということは絶対にあり得ません。極めて当たり前のことであります。

それだけではありません、証言テープの内容は、記事の記載と、細部に至るまで詳細に一致していました。このことは、植村氏において、義母の裁判を有利にする等の目的で、捏造記事を書くという意図が、一切なかったことをも意味します。
そして、金氏の裁判が始まった91年12月の時点でそのような意図がなかったのですから、金氏の裁判の予定すらなかった8月の時点で、そのような意図がなかったことも、極めて自明のことであります。

西岡氏らは、91年8月の記事の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」という文言を捉え、慰安婦強制連行の吉田証言を裏付ける記事だ等と主張しています。
しかし、8月の記事には、「だまされて慰安婦にされた」と明確に記載されているではありませんか。どうして、強制連行を裏付ける記事になるのでしょうか。
吉田証言とは、「(朝鮮人女性を)殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、(中略)連行し」たというものです。これは、「だまされて慰安婦にされた」という状況とは、全く違うではありませんか。
そもそも、仮に、植村氏において、強制連行をでっち上げようという悪しき意図があったならば、「だまされて慰安婦にされた」等と書くはずがないではありませんか。

以上、本件の真相は全て明らかになりました。植村氏が、意図的に記事を捏造したという事実は、一切ないのであります。

▼原判決の根本的誤り
原判決は、「キーセンの経歴を記載しなかった」という不作為を捉え、「事実と異なる記事を書いた」、そう信じたことに相当な理由がある等と認定しています。
原判決の認定で、もっともおかしな部分は、この部分です。

伊藤詩織さんという方がいます。この方は、ピアノ・バーで働いている際に出会った男性にレイプされたと訴えております。
では、このケースで、「ピアノバーで働いていた」との経歴を書かなければ「捏造記事」になるのでしょうか。そんなことはありえません。
妓生学校の経歴についても同じです。「書かない」という不作為が、理由なく、「捏造」という作為に転化することは、通常あり得ません。
経歴を書く「べき」だというのは、一つの意見に過ぎません。書く「べき」だという一方的な意見のみを証拠にして、「捏造」という事実は認定できません。一方的な意見のみを根拠にそう信じたとしても、相当な理由があるともいえないはずです。

慰安婦問題を否認する人々は、妓生の経歴に、なぜこれほど拘るのでしょうか。
産経新聞の阿比留瑠比氏は「売春婦という場合もあります(中略)キーセンに40円で売られた段階で」と述べています(甲71号証2頁目)。池田信夫氏は「慰安婦は売春婦です。」と述べています。
伊藤詩織さんの事件の被告となった男性は、「あなたはキャバクラ嬢でしたね」と書いています。これも似たような心理かも知れません。
2015年9月、サンフランシスコ市議会の公聴会において、元慰安婦を「売春婦で嘘つきだ」などと攻撃する者に対し、地元のカンポス議員は、こう述べました。
「恥を知りなさい」

しかし、ここでは、一歩譲って、西岡氏らの歴史観を前提にしてみましょう。
植村氏に対して向けられた批判は「捏造」記事を書いた、というものです。「捏造」の意味について、西岡氏は、極めて明快に定義しております。
「植村記者の捏造は(中略)、義理のお母さんの起こした裁判を有利にするために、紙面を使って意図的なウソを書いたということだ」
この「捏造」が意見なり論評なりということはありえません。意図的に事実と異なる記事を書いた、という事実の摘示そのものです。西岡氏は、「捏造した事実は断じてある」と述べ、89年の珊瑚記事捏造事件より悪質だと言っているのです。
仮に西岡氏らの歴史観を前提にしたとして、果たして、珊瑚記事捏造事件と同じ意味において、「植村氏が捏造記事を書いた」という事実と認定できるでしょうか。あるいは、そう信じたことに理由があるといえるでしょうか。
答えは、断固として、絶対に、「否」であります。「捏造」が事実を示す言葉だとすれば、そのような事実が認定できるはずがないことは既に証拠上明らかであり、そう信じたとしても相当性がないことも明らかであり、その結論は、いかなる歴史観を前提としても、変わらないのであります。

▼結論
先にあげたカンポス議員は自己のスピーチを、マハトマ・ガンディーの、以下の言葉を引用して閉じています。
「真実は正しい目的を損なうことはない」
司法の使命とは、事実と証拠のみに基づき、判決を下すことです。本件においては、慰安婦問題を巡る歴史観の対立に踏み込むことなく、どちらにも偏らず、曇りなき目で、事実と証拠のみに基づいて、事実の有無を判断することです。そうすれば、植村氏は記事を捏造していないという事実は、真実として認定されるものと確信しています。慰安婦に関する歴史の事実を認定しなくても、本件における真実を認定することは、十分可能なのであります。
我々弁護団は、裁判所に、事実と証拠のみ基づく、正しい判決を下されんことを、切にお願いする次第であります。

以上

■植村氏の意見陳述(全文)

update 2019.12.17   8:20am
▼2014年1月31日の出来事
「週刊文春に出た記事のことで、『なぜこんな者を教授にするのか』などと抗議の電話が来ている。この件で話をしたい」。こんな内容の電話が私の携帯にかかってきました。いまから6年近く前、2014年1月31日の夕方でした。当時、私は朝日新聞函館支局長で、取材先にいました。電話をしてきたのは、その年の4月から私が転職することになっていた、神戸松蔭女子学院大学(神戸松蔭)の事務局長でした。その電話で不安が広がってきました。見上げた空がどんよりと曇っているように見えました。今もあの日のことを思うと、ひりひりとした心の痛みを感じます。

前日に発売された「週刊文書」に「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事(文春記事A)が出ました。私は1991年8月11日付の朝日新聞大阪本社版で元日本軍慰安婦が証言を始めたと伝えていました。文春の記事は、私のその記事(記事A)を「捏造」だと決めつけていました。私は記事の前文で「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」と書きました。また、この女性が慰安婦になった経緯については、「だまされた」と書きました。文春記事Aに談話を載せた西岡力氏は、こう指摘していました。

「挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」。

しかし、西岡氏は私が記事Aの中で、「だまされて慰安婦にされた」と書いていることには全く言及していませんでした。
この西岡氏のコメントを載せた記事がきっかけで、激しい「植村捏造バッシング」が起き、神戸松蔭にも抗議が殺到しました。結局、大学側が震え上がってしまい、私を守ってはくれませんでした。そして、私はその転職先のポストを失うことになりました。朝日新聞は予定通り、早期退職したため、残った仕事は、札幌の北星学園大学(北星)非常勤講師だけでした。

▼私は「標的」にされた
「週刊文春」はさらに、2014年8月14日・21号で、「慰安婦火付け役朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」という記事(文春記事B)を書き、私が北星学園大学で非常勤講師をしていることを報じました。すると、北星にも電話やメールなどによる激しい抗議が相次ぎました。脅迫状が送られてきたり、脅迫電話がかかってきたりしました。このため、大学は警備を強化せざるを得ず、教職員も疲弊しきっていました。

北星への攻撃に対し、市民たちが立ち上がり、「負けるな北星!  の会」ができました。しかし、私の雇用継続に反対する教員も多数出ました。2015年度の雇用は継続されることになったものの、「次年度の雇用はない」という危機的な状況でした。そうした中で、北星の提携校である韓国カトリック大学が、私を客員教授として招いてくれ、2016年春からは韓国で教鞭をとっています。その後も、日本の大学への教員公募に応募していますが、書類審査で落とされています。

私の記事で使った「挺身隊」という言葉は、当時、韓国で、慰安婦の意味で使われていました。私の記事の3日後、この元慰安婦の女性は「金学順(キム・ハクスン)」と実名を名乗って、記者会見をしました。その際に、金さんは自分のことを「挺身隊」と呼んでいました。会見を報じた韓国紙の記事や、金さんに単独会見した北海道新聞の記事にも、本人が語った「挺身隊」という言葉が出ています。その記者会見では、金さんは「16歳ちょっと過ぎたくらいの(私を)引っぱって。強制的に」と述べています。金学順さん自身は自分が強制連行されたと認識していたのです。産経新聞は少なくとも二度にわたって、金さんを日本軍の強制連行と伝えています。このように当時の各紙の報道状況をみれば、私の記事はごく普通の記事でした。なのに、私だけが西岡氏と週刊文春に「標的」にされたのでした。

▼裁判官の皆様へ
「週刊文春」の記事で私の人生は狂いました。「捏造」というのはジャーナリストにとっては死刑判決にも等しいものです。この記事のせいで、日本の大学で教えるという、私の夢は奪われてしまいました。それだけでなく、「娘を殺す。期限はもうけない」と脅迫状まで送りつけられたのです。こんな内容です。「『国賊』植村隆の娘である⚫⚫⚫⚫⚫を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」。娘のことを思うと、いまでも不安にかられます。

私は自分の名誉だけでなく、家族の命を守るためにも、裁判に立ち上がらざるを得なかったのです。裁判官のみなさん、このことを、どうかご理解ください。私は「捏造記者」ではありません。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。最後には司法による救済が必ずあると信じています。これまでの証拠や新しい証拠をきちんと検討していただければ、正義は私の側にあることがわかると思います。「捏造記者」という私に対する汚名を晴らしてください。どうか、よろしく、お願い申し上げます。 
以上

※書式は提出正本と異なります。証拠番号の記載は略しました。