2017年2月7日火曜日

沖縄と札幌をつなぐ

2200キロの距離を縮めた植村さんの講演活動


植村隆さんの沖縄講演ツアーは、メーンの沖縄講演会(2月4日)のほか、その前後に沖縄大学での講義(2日)、辺野古での座り込み参加(3日)、書店でのトークイベント(同)、お寺での懇話会(5日)などがあり、盛りだくさんの内容となりました。講義や座り込みの様子は琉球新報や沖縄タイムスに大きく報じられました。
早くも球春到来の沖縄、厳寒の雪まつりの札幌。その距離は直線で2200キロもありますが、植村さんの講演は、沖縄のこころと札幌の訴えをひとつにつないでくれたような気がします。







































写真1段目左から、カエンカズラ、沖縄大キャンパス、辺野古ゲート前。2、3段目左から、挨拶する植村さん、上=ゲート前の海、下=看板の前で。4、5段目左から、琉球新報2月4日紙面、中上下=市民講演会で、右上=高里鈴代さんと、右下=寒緋桜

今回のツアーには「支える会」事務局から2人(七尾、樋口)がスタッフとして同行しました。以下はその同行記です

■2月2日(木)、沖縄大で講義
那覇にある私立の沖縄大学で学生向けに講義をしました。午後1時からと4時半からの2回、計240人の学生が熱心に聴き入っていました。1時からの講義は「キャリア開発論」がテーマでした。植村さんは記者を志した学生時代のことも詳しく語りました。当時、東大助手だった宇井純さんが東大構内で開催していた公害原論の自主講座に通った早大生の植村さんは、東大に夜間部があったらいいのに、と考えたそうです。21年間東大助手だった宇井さんを、その後、沖縄大で教授として迎えたことにとても感動したと話していました。
大学の構内にはカエンカズラとサンダンカが咲いていました。教室には暖房がないので少し寒いような気がしましたが、この季節に咲き誇る南国の花を見て、はるばる沖縄に来たことを実感しました。

■2月3日(金)、辺野古で座り込み
地元の方に協力していただき、辺野古にある米軍キャンプシュワブのゲート前での座り込み集会に参加しました。30人ぐらいの人たちが集まっていました。悲惨な沖縄戦を体験した島袋文子さん(文子おばぁと慕われています)も参加していました。植村さんは「沖縄ヘイトや慰安婦を否定する勢力には絶対に負けない。みなさんと連帯して闘う」とスピーチしました。驚いたのは、何人もの方が植村さんの事を知っていたことです。地元2紙に掲載された記事を読んでいてくれたのでした。
「勝つ方法はあきらめないこと」と書かれた看板がありました。辺野古、高江の闘いも、植村さんの闘いも、あきらめない!
辺野古から那覇に戻って、ジュンク堂書店でのトークイベントに参加しました。55人の参加で用意した椅子は満席となり、立って聴く人もいました。会場には高里鈴代さんがかけつけてくれました。高里さんは「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の共同代表です。その高里さんがご夫婦で東京の早稲田奉仕園にいたころ、学生だった植村さんもお世話になっていたそうです。高里さんら沖縄の女性たちの調査で、沖縄に日本軍の慰安所が140カ所もあったことが明らかにされています。
植村さんは、「人権記者」として歩んで来た道とバッシングの日々を振り返り、「不当なバッシングは辛かったが、この試練は出会いという恵みもあった」と締めくくりました。誰ひとり、途中退席せず、熱心に耳を傾けていたのが印象的でした。ジュンク堂が用意した「真実」は30冊(完売!)、「週刊金曜日」抜き刷りも30冊売れ、サイン会にも長い列ができました。

■2月4日(土)、沖縄講演会
沖縄講演会は午後2時から沖縄大学の101号教室で開かれ、100人が参加しました。植村さんは自身のこれまでの闘いの経過を語り、「『中国の赤い星』を書いた米国のジャーナリスト、エドガー・スノーの自伝『目覚めへの旅』のように、私もまた目覚めへの旅をしているのだと思う」と結びました。90分の講演の後、参加者から、植村さんを勇気づける発言が続きました。「とても説得力があった。沖縄、韓国・朝鮮、中国に対する差別を許さないことが重要だ、この沖縄の地から闘い続けます」「植村さんは歴史修正主義者のターゲットにされ、家族も巻き込まれどんなにつらかったでしょう。でも負けない! その姿勢からエネルギーをもらいました。ウチナンチューも虐げられても、負けないで頑張ります」

■2月5日(日)、ミニ講演会と佐喜眞美術館
糸満市潮平にある長谷寺の住職岡田弘隆さんのはからいにより、お寺の本堂でミニ講演会(懇話会)を開くことができました。参加者は地元の10人ほど。そのひとり、平良亀之助さんは「小禄九条の会」の代表世話人で、元琉球新報の記者でした。講演の後の懇談で、平良さんは「今のメディアの萎縮はひどい。跳ね返す気概を持ってほしい」と語っていました。
話が前後しますが、那覇から長谷寺に向かう途中では、丸木位里、俊夫妻の作品「沖縄戦の図」を観るために、宜野湾市にある佐喜眞美術館に立ち寄りました。館内の写真撮影は禁止ですが、佐喜眞道夫館長の許可を得て写すことができ、案内もしていただきました。「激しい地上戦で傷ついた後も、巨大な米軍基地が居すわったこの地に、静かにもの思う場をつくりたいと考え、美術館を作った」とブックレットに記されています。美術館設立の許可が降りるまでに8年かかったとのことです。戦争への怒り、悲しみ、いろんな思いがたくさんの展示作品から伝わってきました。屋上からは隣接する米軍普天間基地が一望に見渡せます。沖縄と日本のきびしい現実が目の前に迫り、身が引きしまる思いでした。
<text by M.Higuchi>