2020年2月22日土曜日

これが本件の真相だ


植村裁判東京訴訟とは
1991年に韓国で元慰安婦が名乗り出たことを報じた元朝日新聞記者・植村隆氏が、その記事を捏造だと決めつけられて人格攻撃を受け名誉を傷つけられた、と西岡力・元東京基督教大教授と週刊文春の発行元・文藝春秋を名誉毀損で訴えた裁判。2015年1月に提訴、口頭弁論は同年4月から2019年5月まで16回行われた。2019年6月、一審東京地裁(原克也裁判長)は、被告西岡氏と文藝春秋が植村記事を捏造と信じたことには「相当の理由」がある、として免責し、植村氏の請求(損害賠償支払い、謝罪広告掲載)を斥けた。植村氏は控訴し、一審判決の誤りを批判する一方で新たな重要証拠を提出し、原判決の破棄を求めた。控訴審の口頭弁論は2回行われ、昨年12月16日に結審した。

弁護団事務局長・神原元弁護士が控訴審結審の口頭弁論で陳述した最終意見を再録する。

神原弁護士の最終意見陳述(全文)
▼本件の真相
植村氏の91年12月の記事は、冒頭において、「(金学順氏の)証言テープを再現する」と断っています。私たちは、当該「証言テープ」を法廷に証拠提出致しました。
西岡氏らは「妓生の経歴が書かれていないから捏造だ」と言ってきました。しかし、当該証言テープには、妓生の証言は一切ありません。「証言テープを再現する」と断って書いた記事に、証言テープにない証言が書かれていないからといって、それが捏造記事になる等ということは絶対にあり得ません。極めて当たり前のことであります。
それだけではありません、証言テープの内容は、記事の記載と、細部に至るまで詳細に一致していました。このことは、植村氏において、義母の裁判を有利にする等の目的で、捏造記事を書くという意図が、一切なかったことをも意味します。
そして、金氏の裁判が始まった91年12月の時点でそのような意図がなかったのですから、金氏の裁判の予定すらなかった8月の時点で、そのような意図がなかったことも、極めて自明のことであります。
西岡氏らは、91年8月の記事の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」という文言を捉え、慰安婦強制連行の吉田証言を裏付ける記事だ等と主張しています。
しかし、8月の記事には、「だまされて慰安婦にされた」と明確に記載されているではありませんか。どうして、強制連行を裏付ける記事になるのでしょうか。
吉田証言とは、「(朝鮮人女性を)殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、(中略)連行し」たというものです。これは、「だまされて慰安婦にされた」という状況とは、全く違うではありませんか。
そもそも、仮に、植村氏において、強制連行をでっち上げようという悪しき意図があったならば、「だまされて慰安婦にされた」等と書くはずがないではありませんか。
以上、本件の真相は全て明らかになりました。植村氏が、意図的に記事を捏造したという事実は、一切ないのであります。
▼原判決の根本的誤り
原判決は、「キーセンの経歴を記載しなかった」という不作為を捉え、「事実と異なる記事を書いた」、そう信じたことに相当な理由がある等と認定しています。
原判決の認定で、もっともおかしな部分は、この部分です。
伊藤詩織さんという方がいます。この方は、ピアノ・バーで働いている際に出会った男性にレイプされたと訴えております。
では、このケースで、「ピアノバーで働いていた」との経歴を書かなければ「捏造記事」になるのでしょうか。そんなことはありえません。
妓生学校の経歴についても同じです。「書かない」という不作為が、理由なく、「捏造」という作為に転化することは、通常あり得ません。
経歴を書く「べき」だというのは、一つの意見に過ぎません。書く「べき」だという一方的な意見のみを証拠にして、「捏造」という事実は認定できません。一方的な意見のみを根拠にそう信じたとしても、相当な理由があるともいえないはずです。
慰安婦問題を否認する人々は、妓生の経歴に、なぜこれほど拘るのでしょうか。
産経新聞の阿比留瑠比氏は「売春婦という場合もあります(中略)キーセンに40円で売られた段階で」と述べています(甲71号証2頁目)。池田信夫氏は「慰安婦は売春婦です。」と述べています。
伊藤詩織さんの事件の被告となった男性は、「あなたはキャバクラ嬢でしたね」と書いています。これも似たような心理かも知れません。
2015年9月、サンフランシスコ市議会の公聴会において、元慰安婦を「売春婦で嘘つきだ」などと攻撃する者に対し、地元のカンポス議員は、こう述べました。
「恥を知りなさい」
しかし、ここでは、一歩譲って、西岡氏らの歴史観を前提にしてみましょう。
植村氏に対して向けられた批判は「捏造」記事を書いた、というものです。「捏造」の意味について、西岡氏は、極めて明快に定義しております。
「植村記者の捏造は(中略)、義理のお母さんの起こした裁判を有利にするために、紙面を使って意図的なウソを書いたということだ」
この「捏造」が意見なり論評なりということはありえません。意図的に事実と異なる記事を書いた、という事実の摘示そのものです。西岡氏は、「捏造した事実は断じてある」と述べ、89年の珊瑚記事捏造事件より悪質だと言っているのです。
仮に西岡氏らの歴史観を前提にしたとして、果たして、珊瑚記事捏造事件と同じ意味において、「植村氏が捏造記事を書いた」という事実と認定できるでしょうか。あるいは、そう信じたことに理由があるといえるでしょうか。
答えは、断固として、絶対に、「否」であります。「捏造」が事実を示す言葉だとすれば、そのような事実が認定できるはずがないことは既に証拠上明らかであり、そう信じたとしても相当性がないことも明らかであり、その結論は、いかなる歴史観を前提としても、変わらないのであります。
▼結論
先にあげたカンポス議員は自己のスピーチを、マハトマ・ガンディーの、以下の言葉を引用して閉じています。
「真実は正しい目的を損なうことはない」
司法の使命とは、事実と証拠のみに基づき、判決を下すことです。本件においては、慰安婦問題を巡る歴史観の対立に踏み込むことなく、どちらにも偏らず、曇りなき目で、事実と証拠のみに基づいて、事実の有無を判断することです。そうすれば、植村氏は記事を捏造していないという事実は、真実として認定されるものと確信しています。慰安婦に関する歴史の事実を認定しなくても、本件における真実を認定することは、十分可能なのであります。
我々弁護団は、裁判所に、事実と証拠のみ基づく、正しい判決を下されんことを、切にお願いする次第であります。
以上