「運命の日」12月9日、韓国国会前で
文・写真=植村隆
きょう9日は韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領にとって「運命の日」である。大統領の弾劾訴追案がソウルの汝矣島(ヨイド)にある国会で午後3時から採決されるのだ。
午後1時半に職場のカトリック大学からスクールバスで地下鉄駅谷駅へ向かう。駅のホームの売店で、いつものように京郷新聞を買った。今日の一面も大胆な紙面づくりだ。
「どちらの歴史に名前を載せますか」という問いかけの下に安重根の手形がある。日本の朝鮮侵略に反対した独立運動家の安重根(1979~1910)は、1909年、初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した人物だ。しかし、韓国では「義士」と呼ばれ、尊敬されている。
さらにその下には、「2016年12月9日、朴槿恵大統領弾劾訴追案採決……大韓民国の運命を分ける300人」という文章があり、国会議員300人全員の名前が記されていた。国の命運が議員一人ひとりの投票にかかっているということを重く受け止めて、投票せよというメッセージなのだろう。一面には、それ以外のニュースはなし。こんな斬新なスタイルをとる姿勢が面白く、愛読している。
■国民の8割が弾劾に賛成
さて、弾劾訴追案が可決されるためには定数(300議席)の3分の2以上、つまり議員200人以上の賛成が必要となる。「共に民主党」(121議席)、「国民の党」(38議席)、「正義党」(6議席)の野党3党が足並みをそろえ、弾劾案に賛成する党方針を掲げている。これに無所属7議席を加えると172人。だが、これだけでは足りない。
可決には、与党「セヌリ党」(128議席)から28人以上の造反を得られるかが、焦点となっている。「セヌリ党」の非主流派議員らは、弾劾案に同調の意向を示しており、同党は自由投票を行う方針を決めていた。
京郷新聞の3面には、「国民の10人に8人は『朴大統領を弾劾せよ』」の見出しで、民間の世論機関の調査結果を報じていた。78・2パーセントが弾劾に賛成。60代以上を除くと、すべての世代で、賛成が圧倒的だという。
地下鉄を乗り継いで、国会前に向かった。
汝矣島は漢江の中州にある島である。午後2時半ごろに地下鉄汝矣島駅に着いた。上空をヘリコプターが飛び、朴大統領を批判する人びとの声が聞こえてきた。
風が冷たい。フードをかぶって、集会場へ向かう人びとの姿も見える。私もフードつきのダウンコートを着てくれば良かった。
国会前には、弾劾案可決を求める多数の市民らが集まっている。汝矣島公園を通り過ぎ、国会に向かって歩く。国会議事堂のドームが見えてきた。通りを走るボンゴ車が、スピーカーで弾劾反対を訴えている。聞き取り難かったが、おおむねこんなことを言っていた。
「大統領を捕まえてどうするのだ。国民の皆さん、国を守りましょう。朴槿恵大統領が下野したら、どうなるのか。アカが大統領になったらどうする」「皆さんが乗っている地下鉄も、アパートも、すべて朴正煕(パク・チョンヒ)大統領がつくった。(いまの)朴大統領はその娘さんだ」
朴大統領の擁護を訴える人々の車である。
国会議事堂前に来た。丸いドームの巨大な建物が見える。
韓国の観光案内ホームページ「KONEST」によると、1975年に建てられ、アジア最大級の議事堂で、敷地はこの汝矣島(ヨイド)8分の1にあたる、という。いまは観光名所でもあり、☆印が5個ついていた。
議事堂の正門には警官隊が人の壁をつくり、その前に市民たちが集まっていた。正門前の大きな道路では車が行き交う。車道の手前には何台もの警察の大型バスが隙間なく縦列駐車されていた。このため、車道を渡って、正門前には行けないようになっていた。正門前に行けない市民たちは、この警察バスの前に集まり、朴大統領の下野を求める歌を歌ったり、「拘束」などのスローガンを叫んだりしていた。さらに与党セヌリ党についても、「共犯だ」「廃止せよ」などと批判していた。
■市民デモに柔軟に対応する警官隊
正門前に行こう、でも行けるかな、と思いながら、大型バスの列を迂回するように右側に歩いた。ずっと歩くとバスの車列が切れている部分があり、そこから横断歩道を渡った。そして、国会の正門に続く歩道を左に行こうとした。しかし、そこも警官隊が封鎖している。
すると、「弾劾」などと書かれたプラカードなどを掲げた市民グループが集まっている。「拘束」という言葉を大きな布じゅうに手書きし、それをマントのように羽織っている大柄な人物に見覚えがあった。別のデモの現場で会ったことがあるのだ。
そのグループが行列をつくり、この警官隊の前に立った。正門へ行こうとしているのだ。(警官隊と)衝突するかなと思ったが、警官隊はそのグループを通すことにして、少し人垣の間を空けている。私も、そのグループをスマホで撮影しながら、その後に続いた。
驚いた。警官隊が人の壁を作っているのだが、市民デモには柔軟に対応しているのだ。こんなことは、過去の体験ではなかった。大多数の民意を見ているだろうか。警察が力をむき出しにして、市民と対決する場面が今回は見られないのだ。
私はそのマントを羽織った人物のグループについて、歩道を歩き、正門前に向かった。
途中の歩道に、黄色い風船をふたつ、つけた犬がいた。背中に「朴槿恵を拘束しろ」という赤い紙のプラカードを巻いている。飼い主がつけたのだろう。ちょっとした人気者、人気犬か。行き交う人々が写真を撮っている。犬もまた慣れたもので、写真を撮られても、動かない。
正門前に到着した。大勢の市民が正門をガードする警官隊の前に集まっている。
もう午後4時を過ぎた。市民たちは、警官隊と向き合っているが、なかにはスマホで、テレビ中継されている議事堂内の採決の様子を眺めている人もいる。便利な時代に
なったものだ。それにしても何か臭う。ずっと洗っていない柔道着のような臭いだ。重装備している警官隊の戦闘服の臭いなのだろうか。
警官隊の厚い壁のうしろには朴大統領を支持する人々が国旗(大極旗)を振っている。「反対」「反対」という言葉を繰り返していた。手書きのプラカードが見える。=写真右
「朴大統領の人民裁判より、文在寅(ムン・ジェイン)をすぐに拘束しろ」と読める。野党「共に民主党」の前代表である文氏に対する怒りを示しているのである。しかし、「反対派」の数は、「賛成派」に比べると、圧倒的に少数である。
■親朴大統領派からも多数の造反者
正門の通用門付近に移動した。近くの中年の男性がスマホを地面におき、眺めている。すると、周りの人がそれを取り囲み、まるで円陣になった。その男性が叫び声を上げた。「……56」という数字だけが、聞き取れた。反対が56しかな
かったということだ。弾劾案が可決されたのだ。
「弾劾訴追案可決」の情報が周辺に伝わると、「ワー」という大きな声が広がり、あちこちで喜びの声があがった。9日午後4時10分ごろのことだ。
手をあげて喜ぶ人々、踊りだす人々。バラの花を一輪手に持つ人々。修道女たちの姿も見える。正門前で、ギターを抱えた人が歌い始めた。またたく間に、正門前の大きな車道が人々に占拠され、一時車両通行不能になった。
あとはお祭りのような雰囲気だ。電動車いすの男性が両手を天に突き上げて喜んでいる。いつのまにか朴大統領を応援する人々の姿が消えていた。弾劾賛成派との衝突もなく、静かに移動したようだった。
正門前で、記念写真を撮り始める市民たち。そして、バリケードによじ登り、国会議事堂に向かって写真を撮る青年。だが、それを警官隊は声を出して注意するだけで、引きずり下ろさない。
中年の男性が私に「警官隊と一緒に写真を撮ってくれ」という。自分のスマホは電池が切れたのだという。撮ってあげたところ、私に名刺を渡して、そこに送ってくれという。金融関連会社の顧問の名刺だった。
集会参加者が、「朴槿恵 弾劾 祝賀します」という大きな横断幕を警官隊の前に掲げた。
正面から見ると、まるで国会を背にした警官隊がこの横断幕を前にして整列しているように見えた。不思議な風景だ。その横断幕の前で、また市民たちが記念写真をとっている。
京郷新聞には、与党・セヌリ党の親朴大統領派(主流派)の80~90人が「反対」という事前の情勢を伝える記事が出ていた。実際に反対が56人にとどまったということは、親朴大統領派から、多数の造反者
が出たことになる。
集会が続く国会正門前から離れることにした。今度は、地下鉄の国会議事堂駅から電車に乗ることにした。午後5時ごろである。地下鉄の改札に向かう通路では声を枯らした女性が、大きな声で叫んでいた。「皆さん、歴史的な日です。来てください。マッカリを一杯やってください」
乗り換えのため降りた途中の駅のエスカレーターで私の隣にいた会社員風の男性がスマホで話をしていた。「こんな嬉しい日はお酒を飲まなければ」という言葉が聞こえた。地下鉄の車中でも、隣に立っていた若い女性が座席に座った年配の女性に採決の結果について、しゃべっていた。
カトリック大学のある駅・駅谷駅に到着し、二階の改札口付近にある売店に夕刊紙を買おうと店に入った。午後5時45分ごろだった。店内で、朴大統領の声が聞こえる。ラジオかなと思って、店のおじさんに聞くと、「これで見ているんだ」と目の前のパソコンを示した。店番をしながら、朴大統領のコメントを放送するテレビニュースを見ているのだった。
■自ら辞めるとは言わなかった大統領
弾劾案採決結果は、賛成234、反対56、棄権2、無効7。可決定足数200を34も上回る、圧倒的な数での可決だった。
先の京郷新聞が伝えた民間世論調査機関の弾劾案賛成の比率78・2パーセントとほぼ一致する。国民世論が与党にも大きな、圧力を加えたのは間違いないだろう。与党セヌリ党では弾劾案に62人が賛成したと見られ、反対者56人を上回った。
この弾劾可決で、朴大統領は大統領の職務執行権限が停止された。今後は、黄教安(ファン・ギョアン)首相が大統領権限代行を兼ねる。そして、この国会の弾劾訴追採決を憲法裁判所が審査し、最終判断を出す。憲法裁判所は180日以内に結論を出さなければならない。
2004年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が選挙違反で、弾劾訴追されたときは約2カ月で、棄却決定が出た。今回、憲法裁判所が朴大統領の弾劾を決定すれば大統領は罷免され、60日以内に大統領選挙が行われる。弾劾棄却なら、朴氏は職務に復帰する。
一方で、朴氏は、与党セヌリ党が示した4月退陣案を受け入れる考えも示している。韓国の大統領は任期5年で再任は出来ない。2013年2月に就任した朴大統領の任期は通常なら、18年2月までで、大統領選挙は17年12月の予定だった。それが、数カ月繰り上がることになる。
朴槿恵大統領は、「運命の日」の午後5時から開いた国務委員懇談会で陳謝の意を表明した。
「国会と国民の声を重く受け止め、現在の混乱が収拾されることを心から願っている。今後、憲法裁判所の弾劾審判と特別検察官の捜査に、淡々とした心情で対応していく」などと述べた。しかし、自ら辞めるとは言わなかった。
これは、野党や市民たちが要求している「即時退任」には応じない、という意思表明ととも取られる。一方、大統領選挙モードになれば、野党の足並みが乱れるのがという、「伝統」がある。今後も韓国では、政治混乱が続くいていく可能性は強い。