妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料
妓生に関する戦前の雑誌書籍などの文献資料
キーセンは売春婦ではなかった!
朝鮮総督府が1932年に発行した『生活事情調査報告書 平壌府』には当時の妓生の学校での様子や居室での生活の写真が多数掲載されている (写真下)
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平壌の妓生学校の整列風景(写真上左)と合唱の練習(右) 居宅で書を練習する妓生(写真下左)と居宅の様子(右) |
植村氏の記事を「捏造」と決めつけた西岡力氏の根拠のひとつは、「キーセンに身売りされた」という金学順さんの経歴を植村氏が書かなかったことだという。その事実を裁判所は認定し、西岡氏がそう信じたことに相当の理由がある、と判断した。しかし、裁判所のこの判断の根底には「キーセンは売春婦だ」という思い込みや事実誤認があるのではないか。
キーセンは、公娼制度の下で性売買を業とした娼妓とは異なり、歌や踊り、書など諸芸に秀でた芸妓として遇される存在だった。中には歌謡界のスターになった人もいる。平壌にあった妓生養成所は権威のある学校だった。植村弁護団は当時の社会事情や世相が克明に記録・記載されている証拠資料をもとにして、西岡氏らの「キーセンは売春婦」説の虚妄をきっぱりと否定した。証拠資料の収集と提出にあたっては、朝鮮近現代史の研究者らの協力と助言があった。これらの証拠は、「証言録音テープ」とともに裁判の最終局面で西岡氏らを痛撃する一打となった。
以下に、控訴理由補充書(1)が詳しく論述した第3項(16~28ページ)の全文を掲載する。見出しとも原文のまま。(甲)数字は、証拠番号。
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第3 1935年当時の「妓生」という存在
1 問題の所在・「キーセン」は売春婦か
(1)原判決の認定の前提
控訴理由書でも指摘しておいたように、原判決は「裁判所認定摘示事実1」として、
「原告が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いた」
と認定した。
この認定が根本的な誤りであることは控訴理由書において詳細に指摘したとおりであるが、原判決がこのような認定をするにあたって、ことによると「キーセン」=「売春婦」を指すかのような事実誤認が前提に存在していた可能性はある。
(2)本項の趣旨
そこで本項では、金学順が「身売りされた」とされる「キーセン」という存在がそもそも当時においてどのようなものであったのかを検討する。
また、現在判明している金学順の経歴と認識をもとにして,本当に金学順が「キーセンに身売りされた」と評価できるのか、そのことが「性を売らされる」ことになったとしてもやむを得ない境遇だったのかについて、検討することとする。
2 日本の「芸妓」と朝鮮の「妓生」
(1)「芸能人」としての妓生
この問題に関しては、すでに提出済みの甲52「Q4 金学順さんは妓生学校出身だから被害者ではない?」で触れられているところである。すなわち、金学順が「身売り」された当時の「妓生」というものは、「性を売る」遊女のような存在ではなかった。芸妓に秀でたエンターテイナー、現在でいう芸能人のような存在だったのである。
なお以下においては、原判決が認定した「キーセン」の意味と、実際の《キーセン》の意味するところが異なることを明らかにする趣旨で、これを「妓生」として表記する。
(2)金学順が「身売り」された時期
金学順は1922(大正11)年10月20日に出生し、満13歳のときに金泰元という人物の養女になるとともに妓生学校に通うようになった(甲148、1枚目・6~7枚目)。満13歳のときとは、すなわち1935(昭和10)年のことである。「月刊宝石」(乙10)の臼杵敬子の記事によれば、金学順はこのとき「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たと記載されている。すなわち、1935年当時の「妓生」が実際にはどういう存在だったのかが、ここでは問題となる。
(3)朝鮮における「妓生」=「芸妓」
妓生は「朝鮮王朝時代に官妓として、公的儀式や官庁の宴席で歌舞音曲を提供する女性」を指すものであり、「身分的には賎民であっても特殊技能」を有する存在であったとされている(甲52)。
1910(明治43)年の韓国併合後に、朝鮮総督府では日本の法制度に準じた法整備を行っている。その後の1916(大正5)年に発出された「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)の第1条には、「藝妓(妓生ヲ含ム以下同シ)」と定義されており、朝鮮における「妓生」の位置付けが日本での「芸妓」と同一であったことがわかる。
(4)日本での「芸妓」と「娼妓」の相違
そこで、「芸妓」と対比される存在である「娼妓」の位置付けが、まず「日本において」どのようなものであったのかを検討する。
日本の「娼妓」については1900(明治33)年に出された「娼妓取締規則」があり、「芸妓」については1904(明治37)年の「藝妓取締規則」が制定されている(甲202)。
この両者の最大の相違は、娼妓は登録前(第3条3項)のみならず登録後においても、「廰府縣令ノ規定ニ從ヒ健康診斷ヲ受クヘシ」(第9条)とされ、定期的な健康診断の受診が義務づけられていた点である。
警察署の指定した医師の診断を受け、「疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者」あるいは「傳染性疾患アル者ト診斷シタル娼妓」は、治癒したとの医師の診断書がなければ、業務を続けることが禁止されていた(第10条)。これに違反すると、「二十五圓以下ノ罰金又ハ二十五日以下ノ重禁錮」に処せられた(第13条第2号)。
これに対して「藝妓取締規則」には、このような健康診断に関する規定はない。芸妓には性売買が予定されていなかったので、健康診断を義務づける必要もなかったのである。
(5)朝鮮での「芸妓(妓生)」と「娼妓」の相違
これに対して、妓生について定めた朝鮮総督府における上記の「藝妓酌婦藝妓置屋營業取締規則」(甲203)においては、「警察署長ハ藝妓又ハ酌婦ニ對し其ノ指定スル醫師又ハ醫生ノ検診ヲ受ケシメ又ハ健康診斷書ノ提出ヲ命スルコトヲ得」(第8条)として、芸妓(妓生)の健康診断に関する規定がいちおう定められていた。
この規定は日本本国の娼妓取締規則第9条に近い定めと言えるが、朝鮮では娼妓にのみ健康診断の実施について、さらに詳細な規定があった。
それが「娼妓健康診斷施行手續」(甲204)である。ここでは、警察署において娼妓の健康診断を担当する医師、場所と定期健康診断日を指定する(第1条)ものとし、娼妓の健康診断を慎重に実施すべきことを定めている。第2条では、受診していない者(1号「不参者」)や替え玉受診(2号「人違ノ有無」)がないかどうかまでチェックすべきと指示している。
さらに健康診断を実施した際には、「健康」「入院」「通院」「休業」「治癒」の5区分の分類を診断書に記載すべきものと定められている。
こうした健康診断の記録については、様式(雛形)まで詳細に指定され、また各警察署はその結果を警務部長に報告することとも規定されてある(第7条)。
(6)「妓生」に性売買の前提なし
このように朝鮮においても、芸妓(妓生)と娼妓とは明確に区別され、娼妓には詳細な健康診断の定めがあったが芸妓にはそうした規定がない。これは、芸妓にそもそも性売買が予定されていなかったことを示している。
3 芸能人としての「妓生」の活躍
(1)妓生出身の芸能人
朝鮮において芸妓すなわち妓生は性売買が予定されておらず、むしろ歌や踊りに秀でた芸人とでもいうべき存在であった。そのため、朝鮮においても1920年代にレコード産業や映画産業が発達してくると、メディアで広く知られる妓生出身の歌手や女優が活躍するようになる(甲52)。
(2)妓生「王寿福」の活躍
その代表例とされるのが、妓生出身の歌手・モデルである王寿福である。王は1917年に平安南道で生まれ、1928年に平壌の妓生学校に入学し、唱、琴、絵画、書道を習うが、特に書画に才能を発揮して、平壌名妓9人のうちの一人に選ばれたとされる。王は1931年に妓生学校を卒業して、2年後の1933年に妓生として本格的に稼働し始めた。
王はこの1933年にはレコードを吹き込み、妓生出身の歌手として活躍するようになる。曲は「古都の静閑」「人生の春」といったもので、当時の最高売上を記録したという。
1934年には京城(ソウル)の放送局でオーケストラの演奏のもとで独唱して、これが日本にも中継放送された。さらに1935年に全国巡回公演を成功させ、日本や中国でも公演して大スターになったとされている。絵はがきや絵画の題材としても売り出され、俳優としても新聞雑誌のモデルとしても大活躍していた。
王はその後、芸妓の籍を返上して、東京音楽学校で本格的に音楽を学んだ。朝鮮の伝統歌謡を西洋の唱法で歌い、話題になったという。
(3)王寿福の雑誌記事
このように世上に広く知られるようになった王寿福が、1934(昭和9)年11月4日の『週刊朝日』11月増大号で紹介されたのが、甲205の記事である。
右頁の見出しには「明麗! 朝鮮圓盤界のドル箱妓生」として紹介され、左頁の本文では本人の写真とともに「美貌と美聲と 王壽福」としてその活躍する記事が書かれている。
この週刊朝日の記事が1934年11月、そして王寿福のオーケストラ独唱が同じ年、さらに全国公演の実施が1935年である。そしてこの1935年に金学順は、妓生学校に通うようになっている。こうした人気者になる道も開ける進路として、金学順が将来に期待を持っていたとしてもおかしくない。
(4)妓生学校についての紹介
この当時に平壌にあった妓生学校について、朝鮮総督府が1932(昭和7)年に発行した『平壤府』という調査報告書は、次のように記述している(甲206)。
「妓生の養成
朝鮮人藝妓は妓生と稱するが、古來平壤は妓生の本場にして、歴史上有名なる妓生の輩出したことが尠なくない。京城に於ける妓生の中にも平壤出身のものが頗る多く、平壤は妓生の産地として夙に喧傳されて居る。現在平壤に於ける妓生には、箕城・大同兩券番の設けがあり、彼等は内地人藝妓の如く抱主に自由を束縛せらるゝことなく、大部分は自前にして、各自券番の組合員として、役員選擧、其他の發言權を有し、その自宅に於ける生活は概ね中流以上の堂々たるものである。一般に平壤の妓生は、容姿・技藝・客扱ひ等に卓越して居るが、これは妓生の養成方法の組織的なことにも大に原因して居ると思ふ。」(114~115頁)
(5)平壌にあった「妓生養成所」の実態
こうした指摘のうえでこの報告書では、当時の平壌の妓生学校がいかに優れたものであったかについて、「平壤箕城養成所規程要領」を紹介している。
教員としては学問のほかに「歌舞」、「雜歌」、「音樂」、「書畫」、「日本唄」などがあり(同115頁)、本格的な教育体制となっている。6項では、「本養成所に入らむとする者は普通學校第四學年修業若くは同程度以上の學力を有し身體發育完全なる者に限る」とされている(同116頁)。
さらにこの冊子では、わざわざ「妓生學校」の写真まで掲載して紹介していた(写真ページの78頁以下)。
このように妓生学校に進学できることは、当時の平壌においては権威のある進路であったと認識されていた。
(6)妓生学校についての金学順の認識
現に金学順は妓生と妓生学校への入学について、東京地裁での尋問に際して次のように説明している(甲148)。
「厳しい入学試験がありましたので、かなり頭も良くないと入れませんでした。」(4頁)
「歌も実際に歌わせて、かなり声も良くないと入学できませんでした。」(5頁)
「この平壌の妓生というのは、伝統的に非常に誇り高いもので、そして韓国内でも非常に有名でした。だれでもこの妓生になれるわけではありませんで、賢くてそしてしっかりしていて、かなりの容姿端麗な、そういうところまで備えていなくては入れませんでした。」(5頁)
「妓生というのは、官で主催する宴会とか、そして長官とかに呼ばれて、歌とか伝統的な歌舞、歌、踊り、時調とかそういったものを披露する、そういう役目でした。卒業のときは非常に厳しい実技の試験とかもありまして、それに合格しなければ妓生になることはできませんでした。妓生は非常に誇り高い存在でした。」(5~6頁)
(7)妓生学校進学は「身売り」ではない
妓生及び妓生学校に対する認識が、1935年当時には非常に権威のあるものだったことがわかる。この学校に進学できたことについて、金学順自身も誇りに感じていたことが明らかである。
このように金学順が1935年に妓生学校に進学したことは、当時の状況からすれば、性売買業に「身売り」されたなどと評価されるような内実のものではなかった。
4 40円は身売りの「前借金」ではない
(1)問題の所在
この点に加えて、さらに金学順が「身売り」されたものとは考えられない事情がある。それは、「月刊宝石」(乙10)記事の「妓生学校の経営者に四十円で売られ」たとの記述のうち、この40円という金額の問題である。
そもそもこの記事を書いた臼杵敬子自身が、この40円という記述の根拠について記憶していないという問題がある。今回発掘された録音テープにも、こうした「身売り」の話がなかったことはすでに述べてきたとおりである。
(2)低額すぎる前借金
その点は別としても、端的にいえばこの金額は、当時の本当の「身売り」の金額としては、あまりに低額に過ぎるのである。
この点については甲52でも同様の指摘がされている。
「当時の物価でいえば四〇円は米一四〇キロに当たる金額で、現在の貨幣価値で換算して概算七万円から八万円にしかなりません。朝鮮における前借金の相場は一九二〇年代後半でも、日本女性は約一七〇〇円、朝鮮女性は約四二〇円となっています。」(38頁)
前借金の相場は、これによれば1920年代後半の時期でも日本人女性で約1700円、朝鮮人女性が約420円とされている。
(3)全借金額の平均
実際にも、1937年に内務省警保局が発行した『極秘 貸座敷ニ関スル調査 保安課』という資料がある(甲207)。ここに「第十五 娼妓稼業申請より廃業に至る迄の状況調」との項目があって、当時の娼妓の前借金の金額について調査結果が記載されている。
この資料の82頁の「六、前借金(含別、新借)完済に至る迄に要したる期間」との表によると、日本での前借金の額は750円~1860円という範囲であり、これを平均すると1212円となる。
(4)当時の物価からの推察
市井の研究者である白川忠彦の調査によると、1935年当時の白米の相場は、10㎏で2.4円であった(甲208)。40円という金額は当時の米170㎏程度の価値となる。
現在白米10㎏で4000円程度と考えると、当時の40円は現在の価格で6万8000円にしかならない。これは、「身売り」の金額としては明らかに低額に過ぎる。
(5)前借金と評価できない「40円」
このように、40円という金額が事実だったとするなら、これが「身売り」の前借金だったとは到底考えられないことになる。この場合に、40円という金額が実際に何であったのかまでは明らかではないが、少なくとも金学順の境遇について、これを「身売り」だと評価することはできない。
5 まとめ
(1)法制度上の「妓生」
以上に述べてきたとおり、金学順が金泰元の養子となって妓生学校に入学した1935年当時において、妓生は法制度上「芸妓」とされており、芸妓は娼妓と違って性売買が予定されていなかった。
日本においても朝鮮においても、芸妓と娼妓は明確に異なる職業として法律上で規定されており、性売買業をしていたのであれば特に重要というべき行政機関による健康診断の定めについても大きな差異があった。これは、「妓生」が性売買を前提とした制度でなかったことを示している。
(2)朝鮮社会における妓生の位置付け
また1935年当時において、妓生出身の王寿福がスターとされ、多数の絵はがきや絵画が発売されたり、雑誌の記事として取り上げられ、モデルとしてあるいは歌手として大活躍していた。このように知性と容姿の双方を備えた存在として妓生という仕事があり、実際にも朝鮮では養成所まで設置して妓生を育成していた。そうしたことがあったため、金学順も自己が妓生学校に進学したことに誇りを有していた。
この点でも、当時において妓生となることは、性売買業に「身売り」されることを意味するものではなかったのである。
(3)前借金ではない40円
さらに「身売り」の代金とされた40円という金額は、現在の通貨価値で7万円程度の金員に過ぎず、そもそも「身売り」の前借金と評価できるような額ではない。当時の相場は、日本人女性で1700円、朝鮮人女性でも420円程度であった。
40円はこれに比してあまりに低額すぎ、この点でも「身売り」の前借金と評価することはできない。
(4) 結論
以上の諸事情に照らしてみれば、1935年に金学順が養子となり妓生学校に進学したことをもって、これを「性売買業に身売りされた」と理解することは、明らかな誤りというべきである。このような誤った認識を前提として、本件事案の事実認定がなされてはならない。
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『平壌府』から妓生の修養(右2点)と日常(左2点) |
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『平壌府』から妓生の舞踊(右2点)と居住ぶり(左2点) |
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『平壌府』から妓生学校の様子(4点とも) |
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週刊朝日1934年11月4日号表紙(上)と王寿福を紹介する記事(下) |