京郷新聞と東亜日報
「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだった(韓記者)
私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました(李記者)
植村氏の記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との記述を韓国紙の記者たちはどう受け止めているか。金学順さんの記者会見(1991年8月14日)を取材した記者、韓恵進さん(京郷新聞)と李英伊さん(東亜日報)は、弁護団の求めに応じて陳述書を提出した。
韓恵進さんが書いた記事の見出しは「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」だった。韓さんは陳述書で、金学順さんが何回も「挺身隊」と語っていたこと、妓生のことは金さんがすすんで話したのではなく質問に答えて話したこと、当時は「挺身隊」と「慰安婦」とが混用(混同して使用)されていたこと、などを明らかにしている。
韓さんは1984年から京郷新聞記者、98年に記者を辞め、外資系企業を経て、2015~17年、札幌の韓国総領事館で総領事を務めた。
李英伊さんは、記事で金学順さんの発言を「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた」「挺身隊自体を認めない日本政府」などと書いた。陳述書で李さんは、カギカッコで括った発言は取材相手が言ったとおりに書くものだと、明言している。
李さんは1988年から2005年まで東亜日報記者をした。96年から1年間、慶応大に語学留学、2000~03年に東京特派員を務め、現在医師。
韓さんの陳述書は東京、札幌両訴訟の控訴審に、李さんの陳述書は同一審に提出された。陳述書は2通とも日本語で書かれた。その全文を以下に紹介する。
1 私は、1984年から98年まで韓国の京郷新聞で新聞記者をしておりました。新聞記者を辞めてからは、外資系企業に就職し、その後、政府で働くようになりました。2015年から2017年までは、駐札幌韓国総領事として北海道に赴任しました。したがいまして、日本語はそれなりに話したり書いたりすることができます。私は、今回の裁判で問題になっている植村隆さんの記事について、1991年当時は知りませんでした。私が知ったのは植村さんの裁判が始まった後です。
2 私は、1991年8月14日、ソウル市内で金学順さんが行った記者会見を京郷新聞記者として取材し、記事を書きましたので、そのときのことも含めて慰安婦問題について、以下のとおり、陳述いたします。一言ことわっておきたいのですが、この陳述書は元外交官としてではなくて、元ジャーナリストとしての経験や意見に基づいて陳述していることをご理解頂きたいと思います。
3 まず、1991年8月14日、私が金学順さんを取材したときのことを述べたいと思います。後で述べるとおり、韓国では、当時、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉が「従軍慰安婦」「慰安婦」と同じ意味で使われていましたので、金学順さんは記者会見で「私は挺身隊だった」と言っていました。また、金学順さんは、会見で「挺身隊」という言葉を何回も使っていました。
4 また、私は、その記者会見の記事のなかで、金学順さんが平壌妓生検番に通った話を書いています。この検番の話は金学順さんが自らすすんで話したわけではなく、記者の質問に答えたのだったと思います。妓生は売春婦ではありませんが、貧乏な家の人が多く、あまり他人に自慢する話ではないのに、勇気を持って正直に話してくれており、金学順さんの話は信頼できると思ったので、あえて書いたのだと思います。妓生の経歴と慰安婦にされたこととの間にはなんら関係がありません。
5 韓国において、慰安婦問題は、金学順さんが記者会見する以前にも、主婦向けの雑誌などで匿名の手記や海外からのルポルタージュとして取り上げられることが時々ありましたが、多くのメディアから本格的に注目されるようになったのは、やはり金学順さんが実名で記者会見をしてからだと思います。女性問題に対する関心がいまほど高くはなかったのです。
6 また、当時は、「女子挺身隊」や「挺身隊」という言葉と「従軍慰安婦」「慰安婦」という言葉が混用されていました。慰安婦問題とその被害者を発掘していた市民団体の名前も「挺身隊問題対策協議会」でした。それに対して、勤労女子挺身隊の被害者の側から、そのような言葉の使い方は、自分たちが「慰安婦」だったと誤解されることになりかねないから呼び方を変えた方がよいとの声があがるなどしたこともあって、徐々に「慰安婦」という言葉が浸透していったと覚えています。
7 そして、最初は「従軍慰安婦」という呼び方が主流でしたが、従軍記者などとは違って、慰安婦の場合には自発的な参加ではなくて強制的に連行されたのだから、「従軍」の表現は不適切だという声が大きくなり、「日本軍慰安婦」という言葉が使われるようになりました。
8 さらに、慰安婦<comfort woman>と言う暖昧な表現よりは、「戦時の性奴隷」という表現の方が明確だと指摘されました。特にアメリカのヒラリークリントン国務長官が<sex slave>の言葉を公式的に使ったことによって、この性奴隷の表現が広く使われてきました。しかし、慰安婦の被害者の中には、性奴隷という表現に心的な負担を感じる方もいらっしゃるので、両方の言葉が状況によって混用されることになったと思います。
9 日本帝国主義による植民地統治から解放されて40年も経ってから、慰安婦問題は金学順さんの記者会見以降、社会に広く問題として捉えられるようになり、それから20年のうちに社会の認識が高くなり、さらに議論が活発になって、言葉遺いも「女子挺身隊」→「従軍慰安婦」→「日本軍慰安婦」 →「戦時の性奴隷」の順序で定着されていったと思います。
10 以上のとおりですので、1991年当時、韓国と日本のジャーナリストの中で「女子挺身隊」と「慰安婦」とが混用されたことは事実ですし、むしろ自然なことだったと確信しています。
11 植村さんが書いた記事のリード部分にある「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という表現が問題とされているそうですが、なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも、「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります。
2019年9月15日
■李英伊さん元東亜日報記者の陳述書
1 私は、現在医師をしていますが、1988年から2005年まで韓国の東亜日報で新聞記者をしていました。1996年から1年間慶応大学に語学留学した後、2000年から2003年まで特派員として東京に住んでいましたので、日本語はだいたいわかります。1991年8月14日、元従軍慰安婦の金学順さんがソウル市内で初めて記者会見したとき、私はその会見場で金学順さんを実際に取材しましたので、そのときの様子をお話しします。
2 私が書いた新聞記事(甲20) を読むと、まず1行目に金学順さんが話したカギ括弧中の台詞として「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私が、こうやってちゃんと生きているのに、日本は従軍慰安婦を連行した事実がないと言い、韓国政府は知らないなどとは話になりません」と書いています。また、終わりの方では、カギ括弧の中の台詞として「挺身隊自体を認めない日本を相手に告訴したい心境」「韓国政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府の公式謝罪と賠償を受けるべきだ」と書いでいます。
3 カギ括弧の中は、紙幅の関係から一部を省略することはあっても取材した相手が言ったとおりに書くものですから、取材対象者が言っていないことを書くことは基本的にはあり得ないことです。ですから、当時、金学順さんが記者会見で「挺身隊」という言葉を使ったのは間違いないことです。
4 当時の韓国では、挺身隊と慰安婦は同じ意味の言葉として使われていましたから、挺身隊と書かれた記事を読んだ場合に勤労挺身隊のことだと思う人は少なかったと思います。私も挺身隊という言葉は従軍慰安婦の意味だと思って使っていました。
5 すでに述べたどおり、私の記事では、金学順さんの台詞として「挺身隊」 という言葉が3回出てきますが、一番最初だけ「挺身隊慰安婦」という書き方をしています。これがどうしてなのか自分でもよく覚えていないのですが、ニつの可能性が考えられます。
6 一つの可能性は、デスクが書き直しだ可能性です。当時、私は生活部で女性問題を担当していましたが入社4年目の若い記者でしたので、取材を終えて本社に戻ってから、この重要な記事の内容や書き方についてデスクや先輩記者3、4人と議論したことを覚えています。その議論のなかで、私が「挺身隊」とだけ書いていた文章を先輩のデスクが正確を期して「挺身隊慰安婦」と書き直した可能性があります。また挺身隊のくだりの後に従軍慰安婦という言葉が出てきますので、前後の文毒のつながりをよくするためにデスクが書き直したのかもしれません。
7 もうーつの可能性は、金学順さん自身が記者会見で実際に「挺身隊慰安婦」と話したので、私がその通りに書いた可能性です。
8 どちらにしろ、記者会見で金学順さんが使ったのは「挺身隊として苦痛を受けた私」もしくは「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」という言い方であつて、「慰安婦として苦痛を受けた私」という言い方ではありませんでした。
9 また金学順さんは記者会見で、16歳になったばかりの私を強制的に連れて行ったと語っていました。このときのKBSニュー久映像をYouTubeで見ましたが、私も映っでいます。顔は見えませんが赤い服を着て金学順さんの隣の席に座っているのが私です。取材しながら涙がこぼれたことを覚えています。
2017年11月13日