えっ、慰安婦は日露戦争の頃にもいたのですか!?
慰安婦が軍務に関わっていた! そんなことができたのだろうか?
詳しいことを知りたくなり、石光の著書「曠野の花」(注2)にあたってみました。その結果、石光が書いたことと櫻井の記事との間に大きな食い違いがあることが分かりました。
櫻井の記事を以下に引用します。太字強調部が、食い違う部分です。
満州で諜報員として活動した陸軍少佐の石光真清は、自著のなかで慰安婦とも思われる日本人女性との交流を明かしています。石光はある時、満州でその日本人女性と出会います。その後、女性は命がけで石光の諜報活動を手伝うことになりました。石光は彼女を日本に帰国させる際、「真面目なお百姓さんと結婚しろ。良い家庭が築けたら一度だけ葉書を送ってくれ」と、大金を渡したのです。
彼女は、実際に真面目な農家の人と結婚して家庭を築き、石光に無事を伝える葉書を送ってきたということです。
どのように食い違うのか。「曠野の花」の記述と照合してみます。
▽慰安婦とも思われる →この女性は慰安婦ではありません。
この女性(お花さんといいます)が生い立ちを独白する個所は次の通りです。宋紀とあるのは、彼女を妻とした満洲馬賊の親分の名前です。
「私という女は生まれ落ちた時から、人の親切とか愛情とかをまるで知らないで育ちました。つまらない身の上話をするのもいやですが、長崎の在に生まれて、男の子と喧嘩しながら育って、物心のついた頃詐されて(だまされて)大陸に渡りました。それから宋紀に拾われるまでの数年は、そこらにいる女郎衆と同じ他愛ない生活を続けていました」(同書p218-9)。
同書には「慰安婦」という記述は1カ所もありません。芸妓や酌婦などの記述もなく、女郎と書かれています。なぜ「慰安婦」がないかというと、石光が陸軍大尉の身分を隠し私費留学生として満州に入ったのは日露戦争開戦前の1900(明治32)年だったからです。つまりここに書かれているのは日露戦争前後のことなのです。
櫻井は「慰安婦とも思われる」と断定を避けています。その理由はわかりませんが、とにかく、櫻井が拠り所としている「石光の自著」には「慰安婦と思わせる」記述は皆無です。 当然です。
ちなみに、日本軍慰安所が初めて上海に開設されたのは、石光が満州に渡ってから32年後のことでした。 慰安婦問題の必読書「従軍慰安婦」(岩波新書)と同じく新刊「買春する帝国」(岩波書店=ともに吉見義明著)にもあたってみましたが、日露戦争前後の慰安婦の存在についての記述はまったくなく、石光真清への言及もありませんでした。
▽命がけで →お花さんが一時期消息不明になったのは、石光と暮らす前、彼女が夫とともにロシア軍の馬賊掃討作戦に遭遇した時だけでした。危険な場面を何度もくぐり抜けたのは石光本人のほうです。石光の諜報活動を手伝ったのは確かですが、側面での援助協力という程度でした。
「明治三十三年の八月、偶然呼蘭の客桟で花子に会偶し、何だか妙な関係になり、丁度一年を夢の様に経過してしまった。此一年間を前後を通じて、二ヶ月も同棲したろうか。真清は南船北馬、席温まる暇なき迄に旅行斗り続け、花子は全くの留守居役、而して此留守中、真清の意中を充分に吞み込み、随分仕事の上に役に立った。追想して見れば、是れも運命の神の悪戯だろう」(同書p440、呼蘭はハルビン近くの町の名、客桟は旅館のことでお花さんはそこの女将をしていた)
▽「真面目なお百姓さんと結婚しろ。良い家庭が築けたら一度だけ葉書を送ってくれ」 →とは言っていません。「曠野の花」ではこうなっています。
「平和な家庭を持て、謀叛気を起してはならぬぞ。よいか。家庭を持って落着いたら、お前の親か兄弟から、一度だけ僕に知らせてくれ。それだけでよい」(同書p331)
お百姓さんは、櫻井の創作です。石光は謀叛気を戒め、諜報活動の内容が漏れることを警戒していたのです。
▽大金を渡した →大金は4500円の現金でしたが、石光が渡した金ではなく、お花さんが自分で経営していた洗濯屋で貯めた金と権利譲渡金でした。櫻井は慰安婦は高給取りだったと言いたいようですが。
「「貯金はいくら出来たね」
「お陰様で二千五百円ばかり出来ました」
「へえ……二千五百円、よく繁盛したものだね」
洗濯屋の譲渡金その他を合わせれば四千五百円になる。シベリアに売られた女で、病気にもならずに四千五百円の現金を持って帰れば、幸せな女だと思って良いであろう」(同書p310)
▽実際に真面目な農家の人と結婚して家庭を築き、石光に無事を伝える葉書を送ってきた →櫻井流創作はとどまるところを知らず。葉書などは届いていません。
「花子は帰国後どうなったか、全く音信不通だったが、大正四年の秋、或る人の話に、今は或る農家に嫁入り、堅気に気楽に世を送って居ると云う事だった。(同書p444)
以上のように、櫻井の引用は出典とは大きく食い違っています。
大筋では違っていないのだからいいではないか、という声も櫻井ファンから聞こえてきそうですが、ふたつの点で見過ごすわけにはいきません。
まず、慰安婦をテーマにした記事の中で、慰安婦ではない女性を引き合いにしていることです。日本軍に協力したことを善行とし、慰安婦イメージを美化しようという作為的意図が感じられます。そこまでして、戦時性暴力被害と女性の人権侵害を否定したいのですかね。(注3)
もうひとつは、記憶や思い込みだけで書いていることが明らかになったことです。どんなにすぐれたジャーナリストでも、加齢によって記憶力はどんどん低下します。櫻井は73歳です。だからこそ、いや、老いようと若かろうと、出典にきちんと当たる作業は必須ではないですか。
櫻井の取材や調査、確認作業が杜撰なことは、植村裁判の法廷で明らかになり、業界ではすっかり有名になっています。今回もそれがみごとに可視化されてしまいました。
太字強調部の照合をもう一度、一般読者の普通の読み方で読み直してみて下さい。櫻井はファクトを誤り(前提事実)、それによって書いたこと(摘示事実)は、真実ではない(真実性)、もしくは真実であると信じるに足る理由がない(真実相当性)。賢明な裁判官ならずとも、そう判断するはずです。
text by 北風三太郎( 月刊「文藝春秋」の一読者)
日韓基本条約を踏みにじる「歴史の恨」(黒田勝弘)
慰安婦「贖罪」が韓国に利用された(櫻井よしこ)
徴用工判決は「李氏朝鮮」への回帰である(宮家邦彦)
文在寅ひきこもり大統領の危ない戦略(牧野愛博)
日米合同演習「脅威国」は韓国(麻生幾)
※注2 石光真清は膨大な手記を残しており、単行本は「手記四部作」として1942年と58年に刊行されている。じっさいの筆者は子息の石光真人。手記と称してはいるが、内容は虚実がないまぜになった自伝読みもの風小説といっていい。満州での活動は「曠野の花」に詳しく書かれている。現在読むことができるのは中公文庫版で、1978年に初版、2017年12月に改版が発行された。
※注3 櫻井のこの記事はPRサイト「文春オンライン」にもアップされている。
櫻井の署名記事ではなく、編集部による記事体裁をとり、櫻井の主張は談話形式で強調されている。月刊本紙にはない記述も加えられ、見出しも「韓国よ、日本人慰安婦の存在も忘れるな」~櫻井よしこが語る“慰安所”の真実~「多くは朝鮮の女性ではなく日本人でした」と、より強い表現になっている。SNSでは、櫻井への批判が拡散している。その一部を紹介する。同一人の複数投稿は一本化し、読みやすくした。
▼例によって、日本人「慰安婦」多数説を開陳した上、石光真清が満州で「慰安婦」と会っていたという珍説を披露。これは、石光の「曠野の花」の中に出てくるエピソードだが、日露戦争の前の話。石光がハルピンで写真館を経営しつつ、スパイとして活動していた時期の話で、「慰安婦」が石光の情報収集を手伝ったと言う話(P292~P294)だが、この時代に「慰安婦」がいるわけもないから、この女性は、倉橋正直氏の言う「北のからゆきさん」にあたる。倉橋氏の本を読まなくとも、北に向かった「からゆきさん」の話は、森崎和江の「からゆきさん」にも、大きく取り上げられているので、こちらも参考にして下さい。
·▼秦郁彦が取材したのは、料亭の中居さんであって、売春をしていた人ではない。
櫻井は『慰安婦と戦場の性』さえまともに読んでないない。秦が、「私としては民族別比率は日本人(内地人、沖縄含む)で、現地人がそれに次ぎ、朝鮮人は第3位と推定したい」とあいまいに、おずおず書いてたものを、いつの間にか「断定」しちゃうウヨクな面々。
·▼もし本当に櫻井よしこたちが日本人「慰安婦」のことを想っているというなら、日本会議として「日本人慰安婦恩給法」でもつくり、名乗り出をエンカレッジする運動をすればよかったんですよ。軍従属者だったんだから。でもしないでしょ?
·▼日本人慰安婦の話を持ち出されても「大日本帝国は、国内外に被害をもたらしたのですね」で話は終わりですが、両国間に意図的な差異を発生させることで、日本の罪を軽減する作戦なのですね。
かつて小林某が「ソ連兵に暴行されても訴えなかった日本の女性を誇りに思う」と書いたことを思い出します。
▼今度は「文藝春秋」の韓国ヘイト。しかも、極右の櫻井よしこに書かせている。櫻井よしこを起用した時点で、この記事はフェイクですと自ら証明しているのと同じ。
▼すごい発言ですね。 こんなことを発言するのは異常過ぎますが、仮に心の中だけのこととしても、少なくともお前が「誇る」ことじゃないだろ!
と小一時間ツッコミたいですね。