慰安婦の記憶と記録を消し去ろうとする勢力に対抗するために
1991年8月に韓国で初めて元慰安婦婦の金学順(キムハクスン)さんが名乗り出てから30年がたつ。金学順さんの証言は、慰安婦の被害の実態を明らかにし、日本と韓国の社会を大きく揺さぶった。金学順さんの名乗り出を初めて報じた植村隆記者は、その23年後に右派言論人らから捏造記者の烙印を押され、激しいバッシングを浴びた。そして30年後のいま、歴史の記憶を消し去ろうとする勢力がまた息を吹き返そうとしている。敗訴判決が確定して終結した植村裁判は、慰安婦問題の現状を映し出す鏡のように思える。
「金学順さんカミングアウトから30年・記念イベント」は、そのような状況の中、8月7日、東京で開かれた(日比谷の日本プレスセンター大ホールで、午後1時~4時30分)。イベントは植村裁判の最終報告会を兼ね、2部構成で行われた。8月に入ってから東京ではコロナ感染が急拡大していたため、前日に予定を変更し、会場は関係者の感染対策を徹底した上で無観客とし、一般参加予定者にはZOOMでライブ配信をした。また、3人の発言者(東京、札幌、福岡)もZOOMでの参加に切り替えた。ライブ配信は初めての試みだったが、トラブルもなくスムースに行われた。=まとめ文責・HN
第1部では、映画「標的」の短縮版(25分)がリモート配信上映され、続いて、札幌訴訟と東京訴訟の各弁護団事務局長が、判決の問題点と裁判の成果を含む結果について報告をした。両弁護士の報告の締めくくり発言は次の通り(両氏ともリモート発言)。
■小野寺信勝弁護士(札幌訴訟弁護団)
▽札幌の裁判では、櫻井氏が慰安婦の取材をしていないこと、また植村さんへの取材の申し込みすらしていないことが明らかになった。櫻井氏には資料の誤読や曲解もあった。しかし、裁判所は「真実相当性」を認めて免責した。これまで、最高裁や多くの下級審の判例では、「真実相当性」を認めるには、確実な資料があることや取材を尽くすことが要求されている。この裁判は、従来の法的枠組みでは櫻井氏の真実相当性が認められる余地がない事案である、と今でも思っている。地裁、高裁、最高裁とも免責のハードルを著しく下げたことには、法的な理屈だけでは説明できない点があるのではないか。
▽弁護団には100人以上の弁護士が参加した。政治的な立ち位置の違う人もいるが、5年間減ることはなかった。これは稀有なことだと思う。支える会などたくさんの市民の方々の支えも大きかった。とくに、櫻井氏の過去の著作や発言を調べ尽くし、法廷での主張に結びつけることができた。
▽この裁判は、歴史を書き換えようという流れ、異論に対してバッシングを加える流れ、そのような世の中の空気に抗うたたかいだった。裁判には負けたが、ふたたび同じようなことが起きたら対峙できる、と私たちは確信している。
■神原元弁護士(東京訴訟弁護団)
▽人権を侵害されても、不当だと訴えたり、立ち上がることができない人がたくさんいる。しかし植村さんは裁判を起こし、記者会見で自分の顔と名前を出して、私は捏造記者ではない、と訴えた。2015年提訴の時点で、植村さんへの重大な権利侵害のかなり大きな部分は止まった、止めることができた。裁判を起こした時点で裁判の成果の半分くらいは果たしたのでないか、と思う。
▽裁判の局地的な成果ではあるが、「キーセンの経歴を隠した」「義母の裁判のために書いた」という点は、きっちりと否定できた。判決でもこの点の「真実性」は否定された。金学順さんを直接取材したハンギョレ新聞、東亜日報の記者と北海道新聞の喜多さんの重要な証言を証拠として提出し、裁判記録として残すことができた。金学順さんの1991年11月の証言テープも証拠、記録として残すことができた。西岡氏は著作の中でハンギョレ新聞の記事を捏造し引用していた。裁判でそのことを明らかにし、反対尋問で本人に認めさせた。
▽しかし、裁判では負けた。負けたことは認めるが、このような記録と成果はなにがしかの形で残して次の世代に伝え、次のたたかいにバトンを移したい。
第2部では、金学順さんや元慰安婦の取材を続けてきた記者と、植村裁判にかかわってきた記者が、取材の経過を振り返り、エピソードを交えながら、慰安婦問題の現状について意見を交わした。
発言者は、植村隆、小田川興、喜多義憲、西嶋真司、明珍美紀、池田恵理子の6氏。小田川、喜多、明珍の3氏は、植村裁判関連での集会で発言するのは初めて。西嶋氏はリモートで発言した。
以下は、第2部の6人のしめくくり発言の要約(発言順)。
■西嶋真司 (映画「標的」監督、元RKB毎日放送ソウル支局長)
▽慰安婦問題はテレビ業界ではタブー中のタブーだ。じつはこの映画「標的」は、テレビのドキュメンタリー番組として放送したかったが、会社に何度かけ合っても実現せず、それなら自分たちでやるしかないな、と独立して作ることになった。
▽1991年当時、金学順さんや慰安婦の方たちを取材した記者たちは、被害者の人間としての尊厳をとても大事にしていた。しかし今の日本では、戦後補償金をもらうためにやっているんじゃないか、日本には都合の悪い人なんじゃないか、という空気が広まっているような気がする。慰安婦の問題は日本の権力によって誤った認識を埋め込まれ、誤った方向に向かっているのではないか。慰安婦問題は人間の尊厳の問題なのだという原点に立ち返って考えるべきだし、メディアももっともっと関心を持たなければならない、と皆さんの話を聞いてあらためて思った。
■明珍美紀 (毎日新聞社会部記者)
▽1週間後の8月14日は金学順さんの名乗り出のメモリアルデーだ。ことしはZOOMでの集まりになるが、30年前、金学順さんが勇気を振りしぼって名乗り出たことに尊敬の念を抱くとともに、いま#MeToo運動などでも訴えていることだが、どんな人間にも尊厳があり、それは守られるべきだということを肝に銘じたい。
▽LGBTの問題もある、そしてコロナウイルス禍の下で女性の自殺が増えている、それはなぜなのか。もちろん男性も苦しい目にあっているが、この社会の構造が30年前、あるいは半世紀前と変わっているのか、改善されているのか、後退しているのか、考えていかなければならない。30年前の金学順さんの、あの振りしぼるような声、そして涙、それをムダにしないようにしていきたいと思う。
■喜多義憲 (植村裁判証人、元北海道新聞ソウル支局長)
▽91年当時、韓国には日本の新聞、テレビが10数社駐在していたが、植村さんや私の記事に異議や異論をはさむ記者はひとりもいなかった。ところが植村バッシングが始まると、慰安婦問題に関心を持っていなかった記者たちが尻馬に乗って、植村批判や朝日批判を雑誌に書き始めた。若い記者たちに言いたいことだが、自分たちの主人は会社ではなく、読者であり市民であり国民である、ということを忘れないでほしい。
▽植村裁判でなぜ証言台に立ったかというと、自分に同じような問題がふりかかったらどうするかと考えたからだ。私にもバッシングがくるのではないか、と思うとこわかった。しかし、会社が右であれ左であれ、記者個人としてはきちんとした歴史観を持っていれば、当然あのような行動になる。それが記者、ジャーナリストの共通分母ではないか。
▽裁判では、キーセンであったとかなかったとか、挺身隊の呼称が慰安婦のことをいうのかどうなのか、が中心になったが、それは慰安婦問題の本質ではない。慰安婦と言われる人たちがどういう状態にあったのかということをジャーナリズムはどう書いたのか、植村が、喜多が、明珍がどう書いたのか、が問われなければならない。歴史修正主義者たちが得意なのは、細部について立証できないような難しい問題についてあげつらい、捏造だというような結論だけを喧伝する。それについてくる人も多い。だから、裁判の成果はあったし批判をするわけではないが、同じ土俵には乗らない、別のやり方を研究する必要があったのではないかとも思う。
※喜多氏の発言のレジュメ PDF
■小田川 興 (元朝日新聞ソウル支局長)
▽戦後補償問題の運動は「怒りの連帯」のネットワークであり、私もずっと共感しているが、いま、その問題では滔々たる巻き返し、逆流がある。最近もラムザイヤーというハーバード大の教授が証拠も挙げずに、慰安婦は儲かる仕事をしていたみたいなムチャクチャな論文を書いて、国際的な批判にさらされている。こういう外圧で真実を押しつぶすという流れは他にもあり、ますます厳しい状況になっている。
▽今年は、植民地被害に対する非難と再発防止を確認したダーバン宣言から20年だ。戦後補償問題を放置することを植民地犯罪として追及する事例が相次いでいる。じっさいナチスドイツによる占領虐殺にポーランドやギリシャから賠償請求が起こされている。まさにそういう渦中にあって植村裁判は行われた。この裁判の真実相当性というもののフェイクぶりをもっと鋭くみていきたいと思っているし、世界の政治の流れがおかしな方向に向かっていくことを食い止めるメディアの役割も重要になってくる。
▽怒りの連帯の根本には、この慰安婦問題についていえば、ハルモニのこころ、そしてハルモニが発してきた言葉がある。私はそこに学びたいと思う。姜徳景(カンドッキョン)さんというハルモニは昭和天皇処刑の絵(「責任者を処罰せよ」)を描いているが、戦争は若者の犠牲を求め、女性とこどもと老人のすべてが被害者になる、という言葉を残している。戦争は絶対にダメなんだ。ハルモニたちのこころ、そして言葉を胸に刻んでこれからも進みたい、進まなければいけない、と思っている。
※小田川氏の発言のレジュメ PDF
■池田恵理子 (wam女たちの戦争と平和資料館名誉館長、元NHKディレクター)
▽金学順さん、姜徳景さん、裵奉奇(ぺポンギ)さんという3人の慰安婦の方と出会ったことによって私の人生の後半生が定まってきたことを、今になってあらためて思う。私は日本人としてあの戦争の加害を問われている。戦争責任を問う声を受け止め、それを実現するには日本の政治主体が改革されなければならないが、それができていない以上、私たちの責任もあると痛感している。
▽いまはwam(女たちの戦争と平和資料館)という小さな資料館をやりながら、被害者の声を資料としてきちんと保存し、伝えている。wamでは毎年8月14日に、金学順さんの思いをつなぐという意味で、この1年間に亡くなられたアジアの被害女性たちの名前を読み上げ、エントランスに飾っている顔写真に白い花を添えるセレモニーを続けている。
▽最近のNHKの劣化、ひどさは言葉で言い尽くせないほどだ。私はNHKを退職した仲間たちと申し入れをしたり、放送センターの前でチラシを配り、現役の社員に声をかけたりしている。こういう行動でも、被害女性たちが力になっていると思う。
▽ソウルの水曜デモは千数百回を超え、ギネスブックを更新中だ。私たちも毎月第3水曜日に新宿西口で首都圏の諸団体が集まって水曜行動をしている。私はこのプラカードを首から吊るしてスピーチをしたりチラシ配りをしている。このプラカードには「金学順さんの名乗り出から四半世紀」とあるが、四半世紀は30年と書き替えなければならない。30年も経ったのに、と忸怩たる思いだが行動を続けていく。
※池田氏発言のレジュメ PDF ※「週刊金曜日」投稿記事 PDF
■植村 隆 (植村裁判原告、元朝日新聞記者)
▽金学順さんは名乗り出た後の1991年11月に弁護団の聞き取りでこう言っている。「いくらおカネをももらっても捨てられたこの身体、取り返しがつきません。日本政府は歴史的な事実を認めて謝罪すべきです。若い人がこの問題をわかるようにしてほしい。たくさんの犠牲者が出ています。碑を建ててもらいたい」。日本政府の謝罪、若い世代への記憶の継承、そして碑の建立、いまだにどれも実現していない。慰安婦の被害者の女性に納得できるような謝罪はない、若い世代へ記憶を継承しようとするとさまざまな妨害が起きる、そして碑は日本本土にはほとんどないと思う。つまり、この30年間はいったい何だったのか。振り出しに戻っているよりももっと状況は悪くなっていると思う。その中で一体何ができるのか、考えている。
▽私は金学順さんが亡くなられた時、ソウルの特派員をしていて、死去の記事を書いた。その記事は非常にあっさりとしたものだった。当時、私の結婚のことで批判があったり、また当時は慰安婦報道がたくさんあったので、私自身は少し身を引いているところがあった。しかしいまはそのことをすごく反省している。やはりこの問題は私の人生をかけて取り組むべきことだと思っている。
▽金学順さんの言っている3つのことがいまだ実現していない。本当におかしい世の中になっている。言論人としてきちんと取り組んで、願いを実現していくこと、そして若い世代への継承もやらなければならない。30年経って状況が悪くなっていることに憤りを感じるが、裁判とは別のたたかい方もある。過去をきちんと記憶して2度と起きないようにしなければならない。それは、慰安婦問題だけでなく、さまざまな問題に続いている。原点には慰安婦問題がある。これからもたたかい続けなければならないと思う。