朝日新聞の報道への攻撃は、金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てであり、多少のミスが仮にあったとしても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います(和田春樹・東大名誉教授の「意見書」から)
札幌訴訟の控訴審第3回口頭弁論(10月10日)で、植村弁護団は和田春樹・東大名誉教授の意見書と同氏の論稿2点を提出した(甲183~185号証)。このうち、意見書は慰安婦への「償い事業」に取り組んだ経験と歴史学者の知見をもとに、慰安婦と女子挺身隊の呼称についての考えを、弁護団の求めに応じて明らかにしたもので、A4判11ページの小論文という体裁をとっている。
和田氏は1995年に政府が設立した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の呼びかけ人となり、以後、2007年に同基金が解散するまで、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事、専務理事、事務局長の要職をつとめた。途中、98年に東大の社会科学研究所教授を定年退職してからは、同基金の仕事に専念し、「償い事業」の推進に力を尽くした。(※注1)
慰安婦の実体と女子挺身隊の呼称は、金学順さんが慰安婦とされた経緯とともに、真っ向から対立し続けた重要な論点である。
櫻井氏の主張は、①慰安婦とは、公娼制度の下で戦場に出かけて行った売春婦である、②金学順さんは親に身売りされてキーセンの修業をした後慰安婦になった、③挺身隊という呼称は、戦時中の国家総動員法が規定する労働に工場などで従事した女性をさすもので、慰安婦と混同するのは誤りである、というものだった。(※注2)
このうち、①③は、いわゆる「歴史修正主義」に基づくもので、河野談話をはじめとする日本政府の見解や国連人権機関の報告書など、国内外の公的な文書に反することは明白だった。櫻井氏はこれらの主張をもとに、植村氏の記事を「捏造」と決めつけた。
ところが、一審判決は櫻井氏の主張を認めた。判決文は、「慰安婦ないし従軍慰安婦とは、太平洋戦争終結前の公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性などの呼称のひとつであり、女子挺身隊とは異なるものである」とはっきり書いている。 <この項、下線部の誤記を訂正しました>
植村氏にとっても弁護団にとっても、これは驚くべきことだった。裁判官の歴史感覚を疑わざるを得ない、これはネトウヨそのものではないか、という声が弁護団や支援グループの間であがった。その誤りを、植村弁護団は控訴審開始時に提出した控訴理由書と控訴理由補充書(2)の中で厳しく指摘しているが(※注3)、さらに和田氏に意見書の提出を依頼したところ、快諾を得た。和田氏は意見書の中で、「慰安婦を「公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性」にすぎないとする記述を本裁判札幌地裁判決に見出したとき、当惑する気持ちを禁じえなかった」と書いている。
意見書は、「慰安婦の定義」と「慰安婦を挺身隊とよぶ呼称について」の2つの標題について詳細に説明している。とくに中国、朝鮮、フィリピン、インドネシアにおける慰安婦の被害実態(※注4)と、挺身隊の呼称が韓国内で伝説化した事情の説明が詳しい。アジア女性金の調査活動や交渉の過程で生じた疑問や批判も、標題とのかかわりで書かれ、櫻井氏が2007年に米国紙に出した意見広告に「衝撃をうけた」ことも明かしている。
全体に抑制的で率直な筆致からは、歴史学者の真摯な思いが強く伝わってくる。裁判官には判決書を書く前にぜひ精読してほしいと願う。
以下に、和田氏の許可を得て意見書の主要部分を抄録する。(小見出しは編者が付けた)
■アジア女性基金の事業
アジア女性基金は、河野洋平官房長官談話にもとづいて、1995年に日本政府によって設立された。そのときから2007年の解散時までに、韓国、台湾、フィリピンの慰安婦被害者、それぞれ60人、13人、211人に、各々総理の謝罪の手紙、理事長の手紙、国民募金からの償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援(韓国台湾300万円相当、フィリピン120万円相当)をお渡しした。インドネシアで抑留中、慰安婦として被害にあったオランダ人79人に対しては各々医療福祉支援金300万円が支払われた。インドネシアの慰安婦被害者に対しては、同国政府の要請に応じて、被害者個人への事業は行われず、老人福祉施設建設のために、政府拠出金から3億7000万円が提供された。
■慰安婦の定義
この事業をおこなうにあたって、アジア女性基金は日本政府との協議の上、事業対象者としての慰安婦についての定義を定めた。この定義は、1995年10月25日に基金の活動を説明するために出版されたパンフレット『「従軍慰安婦」にされた方々への償いのために』の冒頭に発表された。その後、現実の事業の展開の中で微調整がくわえられたが、基本的に基金の活動の終了まで維持された。当初の定義は次のようなものである。
「『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
事業過程での調整が加えられた結果、この定義は最終的には次のようになった。これは基金が作成したデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の展示の冒頭に記されている。
「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
■日本軍の慰安所
この定義で決定的なことは、「日本軍の慰安所」、「日本軍の慰安所等」に集められた女性であるという認定である。「慰安所」は、その当時の軍のさまざまな文書では、「特殊慰安所」、「性的慰安所」、「性的慰安ノ設備」などと呼ばれている。軍が戦争遂行のため、軍の将兵の性的欲望を充足させ、一般婦女に対する強姦などの行為を減らす等の目的のために、戦争の現場、軍の駐屯地の内外に設置した設備である。
■暴力的な連行
日本軍慰安所にはさまざまな方法で女性たちが集められた。女性たちが朝鮮の農村や都市から官憲の手によって暴力的に連行されたということも多く語られたが、アジア女性基金の調査では、朝鮮半島においてはそのような事実を確認していない。日本政府が集めた資料は、アジア女性基金の手によって、悉皆的に出版されている。そこからは、女性たちを慰安所に集めたいくつかの事例が確認される。
■強制をともなう行為
軍の慰安所は、当然ながら、通常の公娼制度を前提として、制度設計されたものであろう。しかし、戦争を行っている軍が戦争をしている軍の将兵のために戦場の近くに組織した施設であれば、そこで女性たちがさせられた行為は通常の公娼制度にもとづく売春とは異なり、さまざまな強制の要素をともなう行為であったと考えられる。そのような状況の中で自分たちは日本軍の将兵に性的な行為、奉仕を強いられたと感じ、苦痛と感じたケースが普遍的に認められる。
■総理大臣のおわびと反省
いずれにしても、慰安婦犠牲者はすべて、日本軍との関係で、「性的慰安」の奉仕を強制され、被害をうけ、苦しかったと訴える人々であった。であればこそ、日本国家はこの人々に対し、総理大臣の手紙を送り、次のように、おわびと反省の気持ちを表明した。
「このたび、政府と国民が協力して進めている『女性のためのアジア平和国民基金』を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。」
この手紙に署名したのは、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各総理大臣である。
■櫻井氏らの連署広告
2007年6月14日、ワシントン・ポスト紙に日本の団体、歴史事実委員会の意見広告“The Facts(これが事実だ)”が掲載された。櫻井よしこ氏らが執筆し、西岡力氏らが連署したこの意見広告は、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。私は、米国の新聞に掲載された日本の団体の意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃をうけた。これは世界に向けて、1995年以来、日本政府とアジア女性基金がつくりあげてきた慰安婦認識とそれにもとづく事業活動を全否定すると主張しているものと考えられた。
しかし、アジア女性基金はすでに解散しており、この意見広告に反論を表明するすべはなかった。その当時は日本政府とアジア女性基金の慰安婦認識は、アジア女性基金の解散後、ウェッブ上にのこしたデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の中に展示されていたのである。
■「挺身隊」呼称の吟味
この慰安婦という存在を認識し、慰安婦問題が日本政府によって取り組まれるべき問題であることを自覚する過程で、日本軍慰安婦はしばしば「挺身隊」とよばれ、問題として認識するように求められた。日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった。そこで、この「挺身隊」という呼称を吟味することは、日本政府とアジア女性基金にとって避けて通れないことであった。
■高崎宗司氏の論文
韓国で「慰安婦」問題を提起し、アジア女性基金が発足すると、厳しい批判をくわえ、その速やかな解散を求めて、交渉をつづけてきたのは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)であった。この団体は、1990年11月16日に結成され、基金が誕生した1995年当時もそのままの名称で活動をつづけていた。
交渉相手の団体が「慰安婦」でなく、「挺身隊」を名称にいれていることには、アジア女性基金の側も当然意識していた。その結果、1996年10月に「慰安婦」関係資料委員会が生まれて、調査研究を行うようになると、「慰安婦=挺身隊」という呼称の問題をとりあげて、研究することになった。その結果、高崎宗司氏が「『半島女子勤労挺身隊』について」という表題の論文をまとめ、『「慰安婦」問題調査報告・1999』に発表するに至った。高崎氏は当時津田塾大学教授で、アジア女性基金の運営審議会委員、同資料委員会委員長であった。
■朝鮮での強い警戒感
高崎論文によれば、太平洋戦争の危機段階で、1943年9月13日、日本政府次官会議が「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」を決定し、それに基づいて女子勤労挺身隊が日本の内地でも朝鮮でも組織された。「一四歳以上の未婚者等の女子」を動員して、「女子勤労挺身隊」を結成させ、「航空機関係工場、政府作業庁」などに派遣したのであった。44年2月までに日本全国では16万人が編成されたといわれる。朝鮮ではおくれて募集がはじまったが、44年4月には第一陣、慶尚南道隊100人が日本本土の沼津市の工場に派遣されている。このような事実を確認して、高崎氏は、「挺身隊」の名で「慰安婦」にされたケースを発見できなかったと述べている。しかし、高崎氏は、朝鮮では「未婚者等の女子」という募集要件に強い警戒心、反発がおこり、44年4月には、挺身隊動員からのがれるために結婚をいそぐ風潮が現れた。『京城日報』44年4月22日号は「街は早婚組の氾濫」と報じている。この動きは、挺身隊に行くと、慰安婦にされるという噂と結びついていた。総督府が提出した44年6月の資料には、「未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ」とある。このようなパニックが広がる中で、当局が否定すればするほど、女子挺身隊と慰安婦は一体のものであるという考えが広まったのである(高崎宗司論文、44、47、57-58頁)。
■伝説となって定着
挺身隊に動員された娘たちが慰安婦にさせられたという観念は検証されないまま、朝鮮社会の伝説となって定着した。実際に挺身隊行きをのがれるために学校を退学して、結婚した人々は自分たちだけが災難を免れたといううしろめたさを感じていた。挺対協の初代代表をつとめた梨花女子大教授尹貞玉氏は、そのような経験をしばしば語ることがあった。
■朝鮮戦争当時の事情
1945年以後の韓国で、日本軍慰安婦を「挺身隊」とよぶことが定着するようになったことについては、以上のような事情があったためであろう。しかし、これにはもう一つ別の事情が影響したかと考えられる。朝鮮戦争当時、韓国軍は旧日本軍にならって、軍の将兵に対する性的慰安のために、「慰安婦」を確保し、「慰安部隊」を組織したことが韓国の歴史研究者の研究で明らかにされるようになった(金貴玉「朝鮮戦争と女性――軍隊慰安婦と軍慰安所を中心に」立命館大学シンポジウム発表文、2002年)。そして停戦後韓国に駐留した米軍の基地のまわりに集まる売春婦がこの延長線上で「慰安婦」とよばれるようになったのである。1957年の新聞を見ると、「慰安婦が嬰児誘拐」(京郷新聞、2月11日)、「二米軍慰安婦身勢悲観自殺」(東亜日報、7月21日)などの記事が出ている。1981年には「基地村慰安婦、米軍相手に九億ウォン分のヒロポン」を密売という記事がある(東亜日報、9月26日)。朝鮮日報を「慰安婦」で検索すると出る記事は1957年から1976年までに88件あるが、すべて米軍将兵を相手とする売春婦の記事であった(和田春樹『アジア女性基金と慰安婦問題』(明石書店、2016年))。
そこで、1980年代末から、韓国で新しく日本軍慰安婦に注目を向け、その人々の問題を社会化しようとした記者たちは、被害者を「慰安婦」とは呼ばず、「挺身隊」と呼ぶことに傾いたのであろう。
■金学順氏の登場
団体が設立された段階では、挺対協は国内に生き残っていた慰安婦被害者のハルモニの誰一人とも接触ができていなかった。その状況が翌91年には劇的に変わった。挺身隊問題対策協議会の設立が報じられると、女子勤労挺身隊に動員された女性とともに、慰安婦にされた女性たちがつぎつぎに連絡をとってくるようになったのである。
その第1号が金学順氏だった。彼女は1991年8月14日、挺対協で記者会見した。慰安所で日本軍の将兵に性的な奉仕をさせられた女性が、みなの前に進み出て、「自分は被害者だ」と述べ、「わが国の政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府から公式の謝過を受けなければならない」と語った。金学順氏の登場は慰安婦問題を世にだすのに決定的な影響を与えたのである。
■金学順氏の苦しみと勇気
アジア女性基金の関係者は金学順氏の家を訪問し、基金の目的、事業の内容を説明したが、彼女は、自分はこの事業をうけないと明言した。それは残念なことであったが、金学順ハルモニが名乗り出て、日本政府に対して自身の言葉で謝罪を要求されたのはアジア女性基金にとって重要な出来事であった。基金の理事長が慰安婦被害者に送った手紙には、「貴女が申し出てくださり、私たちはあらためて過去について目をひらかれました。貴女の苦しみと貴女の勇気を日本国民は忘れません」と書かれている。その気持ちは最初に名乗り出た金学順ハルモニにも向けられている。
■慰安婦報道の意義
日本軍慰安婦がその時期に「挺身隊」と呼ばれたのは、朝鮮の歴史的事情の流れの中で理由のあったことである。慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたという面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである。
■非難されるべきことは全くない
このことと関連して、私は2014年9月26日に東京大学の駒場キャンパスで行われた研究会で次のように発言したことを思い出す。その言葉を書きつけて、意見書を終わりたい。
「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」
※注1=和田氏が深くかかわったアジア女性基金は、「償い事業」の資金の拠出方法をめぐる対立を克服できず、日韓両国内でともに、幅広い支持や賛同は得られなかった。和田氏はリベラル勢力の対立と分裂の実相を、ことし6~7月に朝日新聞デジタル「WEB論座」のインタビューで語っている。
※注2=櫻井氏の主張に対する植村氏の見解は、①慰安婦とは、戦場で自分の意思に反して将兵に性行為を強いられた女性である、②金学順さんは、だまされて戦地に連れて行かれた、③挺身隊という呼称は、記事を書いた1991年当時、韓国では慰安婦を意味するものとされており、日本の報道でも一般化していた、というものである。
※注3=控訴理由補充書(2)は、むすびでこう書いている。
「原判決の判断は、元日本軍慰安婦の受けた被害実態を直視せず矮小化し、あるいはないものにしようとする国内の一部の政治的主張にくみするものと評価されてもやむを得ないものであり、国連の公式文書や日本政府が従来とってきた公式見解、裁判例からもかけ離れたものである。原判決は、櫻井の主張を無自覚に受け入れたあまりに、制度としての日本軍慰安婦に関する様々な人権侵害から目をそらし、人身売買であれば売春婦であるというような誤った認識に基づき、櫻井の名誉棄損行為を免責する判断を行った。
その意味でも、原判決の事実認定の誤りは顕著であり、速やかに破棄されるべきである」
text by H.N.